福井県福井市の中心から東南へ10㎞ほどの小高い丘に囲まれた平地に、かつて戦国大名「朝倉氏」(あさくらし)が5代、103年間に亘って統治した城下町「一乗谷」(いちじょうたに)があります。多くの城下町は、江戸時代の幕開けと共にさらなる発展を続け、政治・経済・文化を充実させながら明治維新を迎えましたが、一乗谷の城下はまったく違う運命に翻弄され、消滅しました。
しかし、1971年(昭和46年)、一乗谷の城下町跡が土の中からほぼ往時の姿のまま発掘されたことを機に、その後も発掘調査が続けられ、次々と一乗谷の歴史が蘇ります。そしてついには、2005年(平成17年)には、城下の町並がそのままの姿で復元されました。
室町時代に天下を二分にした戦いと言えば「応仁の乱」(おうにんのらん)。室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)のお家騒動がきっかけとなり、11年もの長きに亘って続きました。
この大乱は、勝敗がはっきりしないままに収束していき、戦国時代へとつながっていきます。
この混沌とした時代に、猛将と恐れられた武将が登場。朝倉氏7代当主「朝倉孝景」(あさくらたかかげ:当時は朝倉敏景[あさくらとしかげ]と呼ばれていた)という豪族で、戦国大名の誰もが、敵に回したくないと考え、味方に引き込もうと画策していました。
天皇家の皇子の流れを汲むと言われた朝倉氏は、応仁の乱における西軍の但馬から、東軍の越前に移って台頭した豪族です。つまり主家を替え、下克上によってのし上がった人物。「一乗谷」(いちじょうたに)は、その褒美で与えられた地であり、領国を得た朝倉孝景は、守護大名として城郭の建設と城下町づくりに着手します。
一乗谷は、城下町にふさわしい要衝でした。ロケーションは、一乗谷川に沿って細長く延びる谷地。川の両側の山々が自然の要害になったのです。また、近隣を九頭竜川(くずりゅうがわ)、足羽川(あすわがわ)、日野川が流れ、水利にも恵まれていました。
発掘された一乗谷城跡からは、見晴らしの良い東側の山頂付近に山城、砦(とりで)、櫓(やぐら)が建ち、麓(ふもと)には朝倉氏の居館、武家屋敷、寺社が造成されていたことが分かります。
とは言え、朝倉氏に敵対する勢力には、周辺の豪族達に加えて一向宗(いっこうしゅう)の寺院などもあり、朝倉孝景は一乗谷の城下町建設に専念することはできず、合戦にも対応しなければならない状況に置かれていました。そして、甲斐氏(かいし)との合戦中、越前の平定を見ることなくこの世から去ってしまいます。朝倉氏の領地として越前が平定されたのは、朝倉孝景の長男である朝倉氏8代当主「朝倉氏景」(あさくらうじかげ)のときでした。
朝倉孝景は生前、「朝倉孝景条々」(あさくらたかかげじょうじょう)という家訓を遺し、朝倉氏景に託したと言います。「世襲ではなく、能力と忠節により人材を登用せよ」、「有力な家臣は一乗谷に住まわせ、郷村には代官を置け」などが有名ですが、現代にも通じる次のような言葉も記されていました。
「質素倹約を重んじ贅沢をしない」、「奉行職を世襲させない」、「合戦の城攻めに吉日選びや占いをしない」、「猿楽見物より、才能ある者を習いに行かせよ」など。他にも、情報収集や人材確保、公平な裁判など、現代に生きる経営者にも刺激的な言及もあります。
もし、この家訓が忠実に受け継がれていたなら、朝倉氏の運命は一変したのかも知れません。一乗谷と朝倉氏の歴史は、歴女にも様々な教訓を伝えてくれています。
朝倉氏9代当主「朝倉貞景」(あさくらさだかげ)は、13歳で朝倉家の当主を継ぎますが、一向一揆が頻発する越前を取り仕切るには、若過ぎました。叔父の「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)が補佐したものの、一族から謀反者が出てその制圧にも当たらなければならなかったのです。
叔父の力を借りながらも、なんとか窮地を脱して、一揆に加担した勢力を国外に追いやることに成功し、朝倉家当主は朝倉貞景の長男「朝倉孝景」(あさくらたかかげ:朝倉氏10代当主で法名の宗淳孝景[そうじゅんたかかげ]の通称で知られる)が引き継ぎました。
朝倉氏は、10代「宗淳孝景」の時代でさらなる高みへと飛躍を遂げます。1513年(永正10年)、宗淳孝景は室町幕府10代将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)を助け、武功を挙げたことから、12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)に召されて上洛を果たし、側近の御供衆に取り立てられたのです。
そのあとも宗淳孝景は将軍の求めに応じて、「近江」、「若狭」、「山城」、「加賀」、「美濃」などの内乱を鎮め、勢力をさらに拡大し、朝倉の名を天下に知らしめました。
朝倉氏11代当主「朝倉義景」(あさくらよしかげ)は文芸を好み、典雅な暮らしを愛した人物でした。
領有する越前には難題が山積していましたが、それらは、もっぱら従曾祖父(そうそふ)の朝倉宗滴や叔父の「朝倉景高」(あさくらかげたか)に頼っていたとの記録も残っています。
また、応仁の乱で荒れ果てた都から朝倉氏の庇護を求めて訪れる客人も多くいました。公家衆や僧侶などの文化人に交じって、連歌師「宗祇」(そうぎ)、国学者「清原宣賢」(きよはらのぶかた)などの名が史料には見られます。こうした都人の往来は、一乗谷に「北陸の小京都」という枕詞を与えたのです。
しかし、全国の戦国大名達が鎬を削る戦国の世にあって、このような生活が長く続くはずもありません。美濃の「斎藤道三」(さいとうどうさん)と手を結んだ「織田信長」(おだのぶなが)が虎視眈々と天下布武を狙い、1565年(永禄8年)には、「三好義継」(みよしよしつぐ)と「松永久秀」(まつながひさひで)の謀略によって13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が殺されています。命からがら一乗谷の朝倉氏に助けを求めたのは、足利義輝の弟で室町幕府の最後の将軍となる「足利義昭」(あしかがよしあき)でした。しかし、朝倉義景は足利義昭を保護して殿上人にふさわしい暮らしを与えたものの、幕府再興の戦いに打って出ることはなく、足利義昭を失望させます。
それにいち早く反応したのが、織田信長でした。1568年(永禄11年)には足利義昭を岐阜に迎え、上洛の兵を送っています。そして、足利義昭を15代将軍に擁立。ここで再び波乱が起こります。足利義昭と織田信長の間に亀裂が生じるのです。そこで足利義昭は、朝倉氏や武田氏を頼って織田信長包囲網を築きます。
一方で、織田信長の求心力は足利義昭の想像を超えていました。一時的に織田信長を追い詰めることもありましたが、朝倉氏側からは反旗を翻す者が続出。織田信長と通じていた平泉寺の僧達が洞雲寺(とううんじ)付近に火を放ち、一乗谷の城下へと火を進めました。
3日3晩の猛火に包まれた一乗谷は、跡かたもなく焼失。朝倉義景が自刃に追い込まれたのち、無残にも母の高徳院や子の愛王丸も殺されてしまいました。かつて無敵と謳われた朝倉氏ゆえに、織田信長はこの機に乗じて息の根を止めてしまおうと考えたのです。
多くの城下町は、戦乱の時代を経て江戸時代を謳歌しましたが、一乗谷は泰平の世を見ることなく姿を消しました。一乗谷は、戦国時代の栄枯盛衰を体現した異色の城下町。歴女の皆さんも発掘調査によって蘇った城下を歩き、もうひとつの「兵どもが夢の跡」を辿ってみてはいかがでしょう。
500年以上も前につくられた城下町一乗谷が土の中から出現し、「国の特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」の3重指定を受けた特別な城下町は、どこを訪れても歴女の想像力を刺激します。
城下町巡りに有用なレンタサイクルや、往時の姿を再現したCG体験ができるタブレット端末の貸し出しなども有料ですが利用可能です。現代の利器を活用して、朝倉氏が活躍した時代へのタイムスリップを思いきり楽しみましょう。
一乗谷の山際には、朝倉氏に仕えた重臣の屋敷が並んでいました。
発掘された石垣や建物の礎石をそのまま使い、柱や壁、建具などは出土した遺物に基づいて復元されています。
整然と配した道路によって、武家屋敷と町屋のエリアが区切られていた当時の様子もリアルに再現。
また、町並みの一画には、東西6間(約11.3m)、南北4間(約7.5m)の武家屋敷の主殿も復元。なかを覗くと、主人と客人が将棋を指している様子を観ることができます。
さらに、裏に回ると台所で魚を捌く家人に遭遇。一乗谷の住人になったような気分になれるため、タイムスリップ好きな歴女は、忘れずに撮影をしておきましょう。
遺跡のシンボルとなっている「唐門」が一乗谷へのタイムスリップへ誘います。
朝倉義景は、城下の中心にあるこの館で政治にあたり、日常生活の場にしていました。
館の敷地面積は約6,400平方メートル。土塁の内側には、10棟以上もの建物が整然と並んでいたといい、唐門は江戸時代に松雲院の正門として造られた物で、豊臣家が移築・寄進したと伝えられています。
春には薄墨桜と、冬には雪と調和しながら素晴らしい風景を見せてくれるのです。年中ライトアップされているので、光と自然の共演がお好きな歴女はぜひ、夕刻以降に訪れてみて下さい。
一乗谷で最も古く、室町時代前期の庭園と推測されているスポット。
朝倉館跡を登った高台に現れる、荒々しい石組みには、誰もが驚かされるはず。
巨大な山石をふんだんに使った構図の中に、戦国時代の気風を漂わせています。
この庭園には水路が設けられており、当時は池に水が満たされていました。また、隣接する場所に展望所が設置され、一乗谷の城下町を一望できます。
朝倉義景の母である高徳院の居館があったと伝わる場所。屋敷の礎石や池跡の見学が可能です。山際に2mの空濠を設け、山麓を削り出して造った屋敷の様子がよく分かります。
遺跡のなかで最も規模の大きな庭園は、この諏訪館跡の庭園です。ここは、朝倉義景の妻の居館でした。「諏訪の立石」と呼ばれる4m余りの巨石は、滝を表した石組みで、水平と垂直のラインを組み合わせて、洗練された雰囲気。これらの石には、江戸時代末期に彫り込まれた朝倉貞景と朝倉孝景(宗淳孝景)の法名が残されています。
1967年(昭和42年)に始まった発掘調査により、一乗谷朝倉氏遺跡からは、「陶磁器」をはじめ、「石製品」、「金属製品」、「紙片」など170万点以上が出土。
それらの貴重な出土品や遺跡に関する歴史資料や模型などを展示し、この地に伝わる文化がテーマ別に分かりやすく紹介されています。
城下町の全体像を知る上で、一乗谷の地形模型や、「朝倉義景館」の復元模型は必見。
茶の湯にまつわる道具類から、生活に密着した行火(あんか:手足を温めるための暖房器具)や食器まで、様々な階層の人々の暮らしにも触れることが可能なため、当時の暮らしを詳しく知りたい歴女におすすめの資料館です。
「下城戸跡」(しもきどあと)は、城下町の北端、谷幅が最も狭くなった場所に造られた砦。
高さ4m、長さ38mの土塁と巨石を組み合わせた通路跡が残り、城下への入口の役割も果たしていました。
通路は、矩折状(かねおれじょう:直角に曲がった形)の構造で、外からの視線を遮るように造られており、城戸の内側には町屋のエリアが形成されていたと言います。
一乗谷の寺院の中で最も格式が高いと伝わる寺院。建物群の背後にある小さな谷にも多くの石塔類が見られます。1473年(文明5年)に朝倉氏7代当主の朝倉孝景が建立したと言われ、高名な儒学者「清原宣賢」(きよはらののぶかた)が講義を行なった寺としても有名です。
一乗谷で最大の規模を誇った寺院「西山光照寺」(にしやまこうしょうじ)では、発掘調査を通じて、340体以上の「石仏・石塔」をはじめ、「数棟の建物」、「石垣」、「溝」、「池」などを確認しています。
西山光照寺跡には、3mほどの大きな石仏の他、約40体の石仏が向き合うように並んでいるため、石造りの造形物が好きな歴女はぜひ訪れてみて下さい。
戦国時代の明応年間に創建された寺院「盛源寺」(せいげんじ)です。この寺にも大小約700体の石仏が残り、思わず手を合わせたくなるような、高さ3mほどもある大きなお地蔵様も安置されています。
南陽寺(なんようじ)は、朝倉氏9代当主・朝倉貞景が娘のために再興した尼寺です。館跡の北の高台にあり、室町幕府最後の将軍 足利義昭を囲んで花見の宴も開かれていました。その際に2人が詠んだ歌の碑も建てられています。朝倉氏の繁栄と典雅な暮らしぶりが窺える貴重な遺構です。
「富田勢源道場跡」(とだせいげんどうじょうあと)は、佐々木小次郎が朝倉氏に仕えた中条流剣法(ちゅうじょうりゅうけんぽう)の達人「富田勢源」(とだせいげん)から剣術の指導を受けたとされる場所です。
佐々木小次郎は、ここから剣術修行の旅に出たと言われており、剣豪好きな歴女にとって聖地のひとつとも言えます。
福井県の日本刀関連施設
福井県にある日本刀関連施設をご紹介します。