1615年(慶長20年)、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)の命により建造された「名古屋城」(なごやじょう)。天守に載る金のしゃちほこにかけ、別名を「金鯱城」(きんこじょう)、「金城」(きんじょう)とも呼ばれる名城です。
1930年(昭和5年)、名古屋城は国宝第1号(旧国宝)として輝かしい称号を得ていましたが、「名古屋空襲」(なごやくうしゅう)で城の大部分が焼け落ちてしまいます。しかし、1959年(昭和34年)、地元の商店街の尽力や、全国からの寄付金により天守を再建。名古屋城は、再び愛知県名古屋市のシンボルとして返り咲きます。
2018年(平成30年)には、本丸御殿を当時の史料を用い忠実に再現。現在は、日本100名城にも選定され、国の特別史跡として人々の注目を集める城のひとつとなっています。お城好きの方はもちろん、歴女の皆さんにも訪れていただきたい名城です。
「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)から7年後の1607年(慶長12年)、「徳川家康」(とくがわいえやす)の九男「徳川義直」(とくがわよしなお)が尾張国(おわりのくに:現在の愛知県東部)の「清洲城」(きよすじょう)に入城しました。
徳川家康は徳川義直を大変可愛がっていたことから、重要拠点である東海地方の抑えを徳川義直に任せたいと考えたのです。
しかし、清洲城は地盤が弱く、水害の心配もあることから、徳川家康は清洲の東方の台地にある「那古野」(なごや:現在の愛知県名古屋市中区)に新たな城を築くよう命じました。
これは、新たな城と共に城下町も整備して、完成後には清洲にある武家屋敷、町人町、社寺などをこぞって那古野に移す一大プロジェクトでした。この大がかりな城下町丸ごとの引越しは、「清洲越し」(きよすごし)と呼ばれ、1614年(慶長19年)「名古屋城」(なごやじょう)の本丸御殿完成を機に行なわれました。
名古屋城築城と城下町整備の陣頭指揮を執ったのは、築城の名人と言われた「加藤清正」(かとうきよまさ)でした。その指揮のもとに、「豊臣家」(とよとみけ)との縁が深い大名17家が、お手伝い普請を命じられています。徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍に付いた西国の諸大名達の財力を削ぎ落とすことも、思惑のひとつとして持っていました。
なかでも、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で功名を挙げた7人「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)のひとりである「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家臣「福島正則」(ふくしままさのり)には、堀川(ほりかわ:現在の愛知県名古屋市を流れる庄内川水系の河川)の掘削という最も過酷な工事が割り当てられます。
名古屋城下には河川がなく、建設用の木材や石材などを運ぶための運河作りが急務でした。さらに、運河があれば、外堀となって城の防御を固めることができ、城下町が稼働してからは水運による流通も期待できることから、名古屋城築城には最優先の課題となっていたのです。
この難工事を命じられた福島正則は、他藩の大名の協力を得ながら6,000人以上もの人手をかき集め、2年間で全長6.3kmの堀川を完成させます。当時の福島正則は、「福島左衛門大夫」(ふくしまさえもんのだいぶ)という官名を持っていたことから、完成したばかりの堀川は、「大夫堀」(たいぶほり)と呼ばれました。
堀川には「五条橋」(ごじょうばし)、「中橋」(なかばし)、「伝馬橋」(てんまばし)、「納屋橋」(なやばし)などが架けられ、納屋橋の近くには清洲から移転させた蔵を設置。20棟以上あった蔵には、7万石におよぶ「尾張藩」(おわりはん)の米が納められました。堀川は名古屋城下の「ヒト・モノ・カネ」を循環させる大動脈としての役割を担い、町に活気をもたらしていったのです。
1612年(慶長17年)、名古屋城がついに完成します。天守閣は加藤清正が手がけ、その他の城郭と城下町は「天下普請」(てんかぶしん:江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行なわせた土木工事のこと)を命じられた諸大名が行ないました。
加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)の「前田家」(まえだけ)や、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)の「黒田家」(くろだけ)は、城下町建設に尽力したことが知られています。
また、1614年(慶長19年)には、「狩野探幽」(かのうたんゆう:江戸時代初期の絵師)の障壁画を設えた本丸御殿が完成。その翌年の正月に、初代尾張藩藩主の徳川義直が清洲から名古屋城に入城し、62万石の城下町の活動が始まりました。
名古屋城下の町割りは、京都を模した碁盤の目のように作られ、上町と呼ばれた現在の東区白壁(しらかべ)や西区明道町(めいどうちょう)あたりには、武家屋敷が置かれます。そして、城下町を外敵から守る存在でもあった寺町は、城の東約1.5kmにある尾張藩主の菩提寺「建中寺」(けんちゅうじ)を中心に「平田院」(ひらたいん)、「高岳院」(こうがくいん)などの大きな寺で構成されていました。これらの寺院の名は平田町(へいでんちょう)、高岳町(たかおかちょう)など、読み方は変わったものの、今も地名に残っています。
また、城の南方に築かれた寺町には門前町ができ、多くの参拝客で賑わうエリアとなって発展を遂げました。これが現在の大須です。この地域の中心を成しているのは、「北野山真福寺宝生院」(きたのさんしんぷくじほうしょういん)。名古屋の人々には「大須観音」(おおすかんのん)の名で親しまれている寺で、「弘法大師空海」(こうぼうだいしくうかい:平安時代の僧で高野山金剛峰寺[こうやさんこんごうぶじ]真言密教の開祖)が制作したとされる観音像が祀られています。
幕末の1860年(万延元年)に、この大須観音の境内で芝居小屋が許可されたことから、明治時代以降も大須一帯には映画館や演芸場などが建ち並ぶ大衆文化の発信地となり、「名古屋の浅草」とも呼ばれていました。
質素倹約を旨とした徳川家康の薫陶を受けた徳川家康の九男である徳川義直。そして、華やかな江戸で生まれ育った派手好みの、徳川義直の曾孫「徳川宗春」(とくがわむねはる)、尾張藩を支えた2人の藩主についてご紹介します。
16歳で名古屋に入城した初代藩主の徳川義直は、徳川家康の遺訓に従い、儒学を奨励した質実剛健の人でありました。
徳川義直については、こんな逸話が残っています。
1641年(寛永18年)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)のお世継ぎ、「竹千代君」(たけちよぎみ:のちの4代将軍となる徳川家綱[とくがわいえつな])と徳川義直が「山王神社」(さんのうじんじゃ)に参詣することになった折のことです。
老中の「松平信綱」(まつだいらのぶつな)が、徳川義直に竹千代君のお供として付き従うよう依頼しました。すると徳川義直は、「自分は大納言の地位にある者で、竹千代君はなんの官位にも就いていない。それなのにその御供として付き従うのは筋が通らない」として、拒絶したのです。
困った松平信綱は、「官位はないが、将軍家のお世継ぎなのだから」と説得しました。しかし「親子の関係で言うのなら、私の父は太政大臣の徳川家康である」と言って自説を曲げず、竹千代君より先に山王神社を参詣したのでした。
徳川義直の厳格な性格は、藩政のなかにも倹約の精神や武道を重んじる風潮として反映され、代々、尾張藩の風土として受け継がれていきました。
ところが、この風土を覆した藩主が登場。
1730年(享保15年)に35歳で尾張藩主となった7代藩主の徳川宗春です。
徳川義直の曾孫にあたる徳川宗春は、青年時代を江戸(現在の東京都)で過ごし、吉原(よしわら:江戸幕府公認の遊郭)などでも派手に遊んでいましたが、このときの江戸幕府は、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)によって行なわれた「享保の改革」(きょうほうのかいかく)で緊縮財政に取り組んでいる真っ最中。このことにより徳川宗春は、江戸幕府から目を付けられていました。
徳川宗春が、このように江戸で呑気に遊んでいられたのは、尾張藩を継ぐ必要がないと思っていたからです。徳川宗春には、兄であり6代尾張藩主「徳川継友」(とくがわつぐとも)がいました。ところが、この兄が急逝したことにより、徳川宗春に尾張藩主の座が巡ってきます。徳川宗春の性格は、派手好きで陽気な人物でした。江戸の徳川本家への対抗意識も強かったようです。
7代尾張藩主となった徳川宗春は、「良い仕事をするには、気分転換が必要」と、藩内3ヵ所に遊郭を設け、江戸や大坂にも負けない立派な芝居小屋を建てました。当時の名古屋城下を伝える記録には、「誠に目出度き国」(まことにめでたきくに)、「身上よろしき町人共は遊興所や芝居などへゆき毎日遊び暮らしている」といった内容が記されています。
徳川宗春が尾張藩主になったことで、1688~1704年(元禄元年~16年)の間、江戸で花開いた元禄文化を尾張で再現したとも言われていますが、徳川宗春を毛嫌いしていた徳川吉宗は、1739年(元文4年)に「行跡よろしからず」(ぎょうせきよろしからず)として、徳川宗春に蟄居謹慎(ちっきょきんしん:江戸時代、武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させること)を命じました。
そのあとの尾張藩は、江戸にならって質実を重んじる藩政へと転換していきましたが、徳川宗春の出現は江戸や大坂に肩を並べる「芸どころ・名古屋」の文化を発展させたのでした。その文化を愛する気風は、今も尾張名古屋に受け継がれています。
名古屋城を堪能したあとは、尾張徳川家(おわりとくがわけ)の菩提寺を散策し、大名庭園を眺めてティータイムはいかがでしょうか。また、レトロな大正時代に迷い込んだような、写真撮影スポットもオススメ。ここでは、江戸時代・明治時代・大正時代と時間旅行を楽しめる名古屋の城下町をご紹介します。
金のしゃちほこが輝く天守閣は、名古屋を象徴するモチーフのひとつです。
この名古屋城内には、総延長8.2kmにおよぶ石垣や、加藤清正が運んだと伝承の残る巨大な「清正石」があり、当時のまま現存する3つの「隅櫓」(すみやぐら)の見応えも十分。
ゆっくり時間をかけて城郭のなかから、あるいは、お堀沿いを歩いて外側から名古屋城を鑑賞してみてはいかがでしょう。
江戸時代の図面・記録、残された写真など、多くの史料をもとに、2018年(平成30年)再建された本丸御殿。本丸御殿とは、尾張藩主の住居であり、藩の政庁でもあった書院造の建物です。この御殿は13の建物で構成され、30を越える部屋を備えていましたが、そのなかで最も格式の高い「上洛殿」(じょうらくでん)、「湯殿書院」(ゆどのしょいん)を復元。それぞれに趣の異なる部屋が続き、往時のままに再現された天井の意匠や欄間、飾金具、障壁画など、日本が世界に誇る芸術がぎっしり詰まっています。歴史に興味のある方や、歴女の方も大満足の見応えです。
建中寺は、初代尾張藩主・徳川義直の菩提を弔うため、2代尾張藩主「徳川光友」(とくがわみつとも)が1651年(慶安4年)に建立しました。
1785年(天明5年)、「大曽根の大火」(おおぞねのたいか)で本堂などが燃えてしまいましたが、尾張藩と住職によりもとの本堂や伽藍などを再建。
1945年(昭和20年)の「名古屋空襲」(なごやくうしゅう)を免れ、今も江戸時代のままの姿を保っています。
見どころは、名古屋市指定文化財の「山門」、「本堂」、「経蔵」(きょうぞう)。境内は桜や紅葉など、季節の移ろいによる彩や、景観の良さを楽しむことができます。
「徳川美術館」(とくがわびじゅつかん)は、尾張徳川家に受け継がれた数々の宝物を所蔵・公開する美術館。
平安時代に制作された現存最古の「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)や、3代将軍である徳川家光の長女「千代姫」(ちよひめ)が輿入れの際に持参した「初音の調度」(はつねのちょうど)などの他、「千利休」(せんのりきゅう)ゆかりの茶杓「泪」(なみだ)などに出会えます。期間限定で公開されることが多いため、訪れる際は公式サイトをご確認下さい。
また、この地が2代尾張藩主・徳川光友の隠居地だったことから、隣接する「徳川園」(とくがわえん)には江戸時代の大名庭園が再現されています。素敵なガーデンレストランなどもあるので、徳川美術館を見学したあとに、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
徳川美術館周辺は、明治時代から大正時代にかけての文化財が多く、「文化のみち」として親しまれています。
そのなかで、ひときわ目を引く建物がオレンジ色の洋風瓦を載せた和洋折衷の「二葉館」(ふたばかん)です。
この建物は、大正時代から昭和時代の初期にかけて、日本初の女優「川上貞奴」(かわかみさだやっこ)と電力王「福沢桃介」(ふくざわももすけ)の住まいでした。大広間のステンドグラスや川上貞奴の舞台衣装など、美しい芸術品が目白押しで、レトロな雰囲気が好きな歴女の方におすすめ。
近隣には、大正時代に建てられた「トヨタ自動車」の創業者「豊田佐吉」(とよださきち)の住居などもあり、名古屋城下の近代化の歩みを辿ることができます。
もうひとつ大正時代の建物「名古屋市市政資料館」(なごやししせいしりょうかん)をご紹介。
こちらは、1922年(大正11年)に名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建てられており、1979年(昭和54年)まで名古屋高等・地方裁判所として使用されていました。
赤い煉瓦と白い花崗岩(かこうがん)、緑の銅板、スレートの黒などが彩るネオ・バロック様式の外観がレトロな雰囲気を漂わせ、ドラマや雑誌にもよく起用されているため、歴女の方におすすめのスポット。
大正時代に思いを馳せ、当時の雰囲気を想像してみてはいかがでしょうか。
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