長崎県島原市の島原半島にある「島原城」(しまばらじょう)は、高く積み上げた石垣の上にそびえる5重5階の壮大なお城です。
島原の歴史と言えば、江戸時代のキリシタン弾圧を象徴する「島原の乱」(しまばらのらん)や、雲仙・普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)の噴火による大災害「島原大変、肥後迷惑」などの悲劇と共に語られることが多いですが、江戸時代中期からは文武を奨励した「松平氏」(まつだいらし)の善政により、比較的穏やかな時代が続いていました。
近年では、キリシタンの弾圧についても様々な角度からの研究が進み、単なる異教徒の排斥ではなかったのではと言う見解も出されています。
島原半島一帯は、戦国時代から「有馬氏」(ありまし)の領地でした。
島原藩(しまばらはん)は、キリシタン大名として知られる「有馬晴信」(ありまはるのぶ)の治世のもとで、キリスト教の布教活動と朱印船貿易の中心地として発展。
しかし、1609年(慶長14年)に島原藩を根底から揺るがす「岡本大八事件」(おかもとだいはちじけん)が起きます。
このできごとは、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側近「本多正純」(ほんだまさずみ)の重臣「岡本大八」(おかもとだいはち)が行なったある行動が、のちのキリスト教弾圧に繫がるほどの重大な事件です。
1609年(慶長14年)、有馬晴信は長崎港の沖合でポルトガル船「マードレ・デ・デウス号」を攻撃。実はこの前年にマカオで、ポルトガル船乗組員と日本の朱印船の水夫が取引を巡って衝突し、日本側は多数の水夫を失っていたのです。その報復として長崎港でポルトガル船を沈めるよう指示したのが有馬晴信でした。
このとき、有馬晴信は事前に幕府から報復許可を得ており、ポルトガル船攻撃後には、幕府が欲していた「伽羅」(きゃら:上質な香木)を幕府へ献上したこともあって、幕府から褒賞を賜ることを期待していたのです。
その一方で、有馬晴信が幕府へ伽羅を献上したことがひとつの問題を生み出します。それは、長崎奉行「長谷川藤広」(はせがわふじひろ)との確執。伽羅の入手・献上は、初め幕府から長谷川藤広へ対して命じられていたのですが、それを先に有馬晴信が幕府へ献上してしまったため、長谷川藤広は有馬晴信に対して激しい怒りを覚えました。
そこで長谷川藤広は、生糸貿易により利益を得ていた有馬晴信の邪魔をするかの如く、キリスト教「ドミニコ会」へ近付いて、生糸の将軍先買権を強化したのです。
これには有馬晴信も脅威を感じ、有馬晴信と長谷川藤広は「不倶戴天の敵」(ふぐたいてんのかたき:決して許しあえない仲のこと)となり、この関係悪化がのちに有馬晴信自身に降りかかる災難の種になります。
ポルトガル船沈没ののち、有馬晴信と幕府の情報伝達役を行なっていたのが岡本大八でした。岡本大八はかなりの切れ者で、有馬晴信が旧領回復のために褒賞を期待していることを知ると、「今回の恩賞として有馬氏の旧領回復を検討中だ。後押しするには我が君主・本多正純の力添えが不可欠だが、そのためには多額の資金が必要になる」と言う虚偽の報告を有馬晴信に行ないました。
岡本大八は、自身が仕えていた本多正純の名を利用した挙句、徳川家康の朱印状を偽造すると言う手の込みようで、有馬晴信から6,000両にも及ぶ賄賂を受け取ります。しかし、岡本大八の悪巧みはすぐに発覚。1612年(慶長17年)、岡本大八は朱印状偽造の罪により駿府で「市中引き回しの刑」ののち、火刑に処されました。
そして、有馬晴信は岡本大八の証言により長崎奉行の長谷川藤広謀殺の罪に問われます。前出の通り、有馬晴信と長谷川藤広の関係は最悪だったため、有馬晴信も言い逃れができないまま、岡本大八刑死の同年に流罪ののち改易。そののち、幕府から切腹を命じられますが、有馬晴信はキリシタンであることを理由に家臣の手で自身を斬首させ、その生涯を終えました。
この一連の騒動を起こしたのが、キリシタンの有馬晴信と岡本大八であったことから、それまでキリシタンに対して比較的大らかな対応を見せていた江戸幕府も、キリシタン禁制に踏み切らざるを得なくなったのです。
有馬晴信没後、島原藩の藩政を引き継いだのは、有馬晴信の嫡男(ちゃくなん)である「有馬直純」(ありまなおずみ)でした。有馬直純もまたキリシタンでしたが、父の犯した罪への加担はなかったと判断されたことから所領を安堵(あんど:土地所有をそのまま賜ること)されます。
有馬直純は、幕府からの温情を受けて改宗し、藩内に厳しい「禁教令」(きんきょうれい)を敷きました。しかし、この行動は返ってキリシタンの結束を強めてしまいます。
その状況を懸念した幕府は、1614年(慶長19年)に有馬直純を「日向国延岡藩」(ひゅうがのくにのべおかはん:現在の宮崎県延岡市)に転封を言い渡し、島原は佐賀藩(さがはん)「鍋島氏」(なべしまし)、平戸藩(ひらどはん)「松浦氏」(まつうらし)、大村藩(おおむらはん)「大村氏」(おおむらし)の委任統治領となりました。
1616年(元和2年)になると、「大坂の役」(おおさかのえき)で戦功を上げた「松倉重政」(まつくらしげまさ)が「大和五条藩」(やまとごじょうはん:現在の奈良県五條市)から4万石で島原へ入り、藩主の座に着きます。
領内には、「日野江城」(ひのえじょう)と「原城」(はらじょう)がありましたが、日野江城は戦国時代の山城で使い勝手が悪く、原城には城下町を建設できるだけの空間がありませんでした。そこで松倉重政は、築城の地として島原を選びます。
なお、江戸幕府の「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)が出されたあとに、新たな城の建設を許されたのは3例のみで、そのひとつが「島原城」(しまばらじょう)でした。島原城は、1618年(元和4年)から築城を開始。足かけ7年のときを経て、1624年(寛永元年)に島原城は完成。以降、島原半島の政治、経済、文化の中心地となり、島原藩の発展を率いていきます。
松倉重政は、築城と同時並行で大規模な城下町を整備し、藩政の基礎を築きました。
島原城の城郭は、東西200間(約363m)、南北688間(約1,250m)。
その南端には、一辺が30間(約54m)もある巨大な外枡形(そとますがた:城の防御のために設けた方形の空間)があり、大手門を配置。
そして、その周囲に7ヵ所の城門と、33の平櫓(ひらやぐら)を設け、石垣と塀が張り巡らされます。
島原城を特徴付けているのは、外郭の石垣塁線に置かれた11ヵ所の平櫓。この平櫓は、攻め入る敵兵に鉄砲・弓矢を用いて側面から迎え撃つ「横矢掛かり」(よこやがかり:守城戦で、攻城勢の側面を鉄砲・弓矢などで攻撃すること)が行なえるよう設計されています。こうした構造は、国内の他の城郭にも例がなく、島原城独特の物です。
お城の敷地には、南から本丸、二の丸、藩主の御殿がある三の丸が並び、その周囲には上級藩士の屋敷が集まっていました。本丸、二の丸の周囲と、三の丸の東側と南側に堀が造られ、本丸と二の丸の間は廊下橋、二の丸と外郭の間は土橋が架けられています。二の丸から本丸の天守に続く通路は、石垣と櫓門の配置を工夫して枡形が連続する線を描き、高い防御性を確保。
さらに、本丸には5層の天守がそびえ、その周囲に3重櫓、2重櫓、平櫓を配置して、本丸に侵入した敵に対して、互いの櫓が連携して攻撃できるよう工夫を施してあります。
お城の西側には下級藩士の屋敷があり、東側にはお城に直接隣接する町家が城下町を形成。その周囲には田畑が広がっていました。
戦国時代からキリシタン大名の有馬氏が治めていた島原半島は、キリスト教の信仰が盛んな土地柄でしたが、岡本大八事件がきっかけとなり、徳川幕府は1612年(慶長17年)に禁教令を出しています。
当時、島原藩主だった松倉重政は、1625年(寛永2年)に時の将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)からキリシタン対策の甘さを指摘され、それまでの寛大な政策を方針転換。取り締まりと弾圧を強化しました。その跡を継いだ松倉重政の嫡子「松倉勝家」(まつくらかついえ)もまた、松倉重政以上に厳しい弾圧をキリシタンに課したと言います。
そのなかで勃発したのがキリシタンの反乱として伝わる「島原の乱」(しまばらのらん)。農民が中心となって一気に火が付いた乱は、単に宗教問題に起因したものではなく、背景には様々な島原藩の事情が重なっていました。大きな要因のひとつは、財政の逼迫(ひっぱく:追い詰められて余裕がなくなること)です。
実は島原城の築城には、莫大な費用がかかっていました。当時の松倉氏(まつくらし)の石高は4万3,000石。それに対して島原城は、10万石の大名に匹敵する規模のお城でした。そして、松倉重政はその財源を領内の年貢増に頼ったのです。
松倉重政の跡を継いだ松倉勝家もまた、新たな税を次々に打ち出して年貢の増徴を強行。
さらに悪いことは重なり、1636年(寛永13年)から翌年にかけて、島原藩の領内は大凶作に見舞われます。
その窮状に絶えかねた島原の民衆が蜂起し、これに呼応した「天草四郎」(あまくさしろう)が一揆軍を編成。これが島原の乱のはじまりです。
乱の引き金となった世情の背景として、注目すべきもうひとつの側面は、江戸幕府の偏った貿易対応にありました。
キリスト教の布教は、西欧諸国の領土侵略の野心と背中合わせの関係にあることは、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)や徳川家康も承知していましたが、一方で貿易による利益が大きかったため、宣教師による布教活動の影響が限定的な間は、これを黙認していたのです。
しかし、この時代になると、キリシタンの政治活動が活発化し、江戸幕府に対する反政府デモが頻発するようになりました。これを脅威に感じた江戸幕府が禁教令の発布に踏み切ったのです。とは言え、江戸幕府は一概にキリスト教を敵視したのではなく、布教を行なわないプロテスタント系のオランダやイギリスとは友好的な貿易を続けていました。
この対応の違いから、布教を通して信者を獲得し、国家転覆を謀ろうと目論んでいると思われた「イエズス会」を中心とするカトリック系の国々の影響力を排除したかった幕府の思惑が透けて見えます。
3ヵ月以上に及ぶ島原の乱は、佐賀藩鍋島氏、柳川藩立花氏、久留米藩有馬氏の援軍を受け入れ、4度に亘る総攻撃の末にようやく収束に向かいました。一揆に参加した民衆は全滅。攻撃した側の戦死者も一揆軍の2倍に上り、一揆の首謀者とみなされた天草四郎らの首は長崎の出島橋に晒され、3,000以上に及ぶ一揆軍の首も長崎郊外に晒されたと言います。
そして、島原藩主の松倉勝家も責任を問われて除封(じょほう:所領、家禄、屋敷の没収及び武士の身分剥奪)されたのち、斬首刑に処されました。なお、ローマ教会は島原の乱を宗教一揆ではなく、農民一揆であるとの評価を下しており、島原の乱で命を落とした民衆達が殉教者と認められていないのは、なんとも皮肉な悲劇的結末と言えます。
島原の乱ののち、藩の政情が落ち着きを取り戻したのは、1669年(寛文9年)に「松平忠房」(まつだいらただふさ)が入封してからのことです。松平忠房は文武両道に長け、学者とも親交を持つ教養深い人物でした。
島原に入った松平忠房は、領内の検地に着手して、税制の見直しや農業の振興、寺社の整備などを推進。また、1793年(寛政5年)には、藩校「稽古館」(けいこかん)を設立し、人材育成にも注力しました。1792年(寛政4年)には、「島原大変、肥後迷惑」と言われた雲仙・普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)の大噴火に襲われながらも、松平氏の善政によって見事に苦境を乗り越えています。
大噴火の直後に藩主となった「松平忠馮」(まつだいらただより)は、災害からの復旧に力を注ぐと同時に、ただちに財政の再建策と殖産興業策を打ち出し、櫨(はぜ:ウルシ科の落葉高木)の栽培や山林の造成、明礬(みょうばん)の生産を奨励しました。その一方で、こうした苦境のときにこそ人材が必要であると感じ、松平忠房が設立した藩校と同名の藩校「稽古館」(けいこかん)を創設。
1821年(文政4年)、松平忠馮の四男「松平忠侯」(まつだいらただまさ)が藩主になったときには、医学校と病院をかね備えた「済衆館」(さいしゅうかん)を島原城内に創設しており、松平忠房の精神が藩政のなかに受け継がれていたことを物語っています。
小さな藩の象徴として壮大な城郭を持つ島原城の城下町には、江戸時代の日本とキリスト教の関係を感じるスポットが多く残っています。観光におすすめのスポットをご紹介します。
島原城は、大乱にも大地震にも耐え抜いた頑強なお城でしたが、1876年(明治9年)に、廃城令の流れで天守閣が解体されます。
しかし、1957年(昭和32年)に全国初の城跡公園に指定され、その3年後に西の櫓が再建されたことに続き、20年の歳月をかけて天守閣、「巽櫓」(たつみやぐら)、「丑寅」(うしとら)の櫓が次々と蘇りました。
現在天守閣には、キリシタン史料や藩政時代の史料が展示されています。
「時鐘楼」(じしょうろう)は、1675年(延宝3年)に藩主の松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治のなかでも大切なこと」として建立した鐘楼。
かつては、「鋳物[いもの]の名人」と謳われた「藤原正次」(ふじわらまさつぐ)が鋳造した鐘が吊り下げられ、毎時、美しく澄んだ音色を響かせていました。
明治維新後も「お上の鐘」として旧城下町の人々から愛され、鐘撞きに従事する者が時を伝え続け、現在の鐘楼は、1973年(昭和48年)に復元された鐘楼になります。
重さ375kgある鐘の名文や模様は、彫刻家で文化功労者の「北村西望」(きたむらせいぼう)氏が手掛けており、芸術が好きな歴女にも人気のスポットです。
「武家屋敷街」(ぶけやしきがい)とは、島原城築城に際して整備された城下町の名残を残す場所。
お城の西に接する場所には、70石以下の下級武士の屋敷が集まっていました。
この辺りは別名「鉄砲町」(てっぽうちょう)。名称の由来には諸説あり、鉄砲組の武士が多かったからと言う説の他、造成当時は隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒のなかを覗くように武家屋敷界隈が見通せたからと言う説もあります。
松平氏の藩政が続くなかで、城下町の整備はさらに進み、新たな道も造られていきました。
1775年(安永4年)には、時の藩主「松平忠恕」(まつだいらただひろ)が下級武士の屋敷であっても境界がないのはよくないと、各屋敷に石垣を築くよう命じます。これは、窮乏している町民を救うための公共事業でもありました。
また、屋敷町の中央を流れる清水は、飲料水や生活用水として使用され、これを管理する川奉行も設置しています。
水路は現代においても、地域住民の生活用水として利用されており、島原を代表する水の名所として、歴女をはじめとした観光客が多く訪れるスポットとして有名です。
島原図書館の2階にある「松平文庫」(まつだいらぶんこ)には、松平忠房が前任地である福知山にいた頃に集めた文学、歴史、兵法の書物を保管。
藩校である稽古館の教科書として活用された本の他、藩政を記録した「旧島原藩日記」や、旧藩士の家から寄贈された古文書も多数保管されており、島原城下の歴史をより詳しく知りたい歴女には絶好のスポットです。
1792年(寛政4年)に起こった雲仙岳の大噴火では、島原半島の東にある眉山(まゆやま)が崩壊。その窪地に大量の地下水が湧き出してできた湖が「白土湖」(しらちこ)です。
島原大変の直後は街道が寸断され、しばらくは水の湧出が止まらず、復旧作業が大幅に遅延。島原藩は1万人以上の人手を集めて掘削作業を進め、翌年になってようやく排水路を完成させました。
現在も、湖の水は涸れることなく、1日あたり4万tと推定される大量の水が湧出し、地元住民の生活用水として利用されています。
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