戦国時代におけるキリスト教について詳しくまとめました。
日本にキリスト教が伝来したのはいつかと言うと、16世紀の半ば頃。南蛮文化とともに日本中に広まっていき、「キリシタン大名」と呼ばれる大名も登場するほど、世の中に影響を与えました。
「戦国時代のキリシタン大名とキリスト教」では、伝来への経緯、なぜ迫害されたのかといったキリスト教の歴史、「大友宗麟」「高山右近」「細川ガラシャ」といったキリシタンになった大名・人物をご紹介。宗教の面から歴史を学びたい方におすすめです。
キリスト教が日本に伝来したのは、1549年(天文18年)、スペインの宣教師「フランシスコ・ザビエル」が鹿児島に到着した頃からです。日本にキリスト教が伝来するまでの世界の動き、来日するまでのフランシスコ・ザビエルの動き、はじめて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはどんな人物だったのかなどについて、大きな流れをご紹介していきます。
1549年(天文18年)に来日したフランシスコ・ザビエルは、その後2年に亘って日本各地(おもに西日本)で積極的にキリスト教の布教活動を行いました。来日前後には、インドや東南アジアでも数多くの人々に洗礼(せんれい:キリスト教の信者になること)を授けています。フランシスコ・ザビエルの日本での布教活動や彼が日本に残したものについて見ていきましょう。
1543年(天文12年)に大隅国種子島(おおすみのくにたねがしま:現在の鹿児島県種子島)に到着したポルトガル人、1584年(天正12年)に肥前国平戸(ひぜんのくにひらど:現在の長崎県平戸市)に到着したスペイン人らを、当時の日本人は「南蛮人」(なんばんじん)と呼んでいました。もとは中国人が南方(南ヨーロッパ)からやって来る異民族をそう呼んだことが始まりで、日本でもポルトガル人との貿易が始まった頃から使われるようになりました。そして、南蛮人と日本人の間で行われた貿易が「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)です。日本でのキリスト教の布教とも深く関連している南蛮貿易と、それによって日本国内にもたらされた「南蛮文化」(なんばんぶんか)について見ていきましょう。 南蛮貿易安土桃山時代の重要用語「南蛮貿易」ついてわかりやすく解説します
豊臣秀吉が1587年(天正15年)に「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令した頃から、日本でのキリスト教の布教は制限され、外国人宣教師や洗礼を受けてキリシタンとなった日本人達への弾圧が次第に目立つようになりました。ただし、発令された当初の伴天連追放令は「禁教奨商」(きんきょうしょうしょう:キリスト教は禁止するが貿易は奨励する)を基本的な方針としており、ポルトガルとの南蛮貿易(なんばんぼうえき)において、必ずしも大きな効力を発揮するものではありませんでした。フランシスコ・ザビエルの所属するイエズス会がキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていたため、南蛮貿易によって大きな利益を手にするためにはキリスト教の布教も黙認せざるを得なかったのです。
「大村純忠」(おおむらすみただ)は、日本で最初のキリシタン大名です。横瀬浦(よこせうら:現在の長崎県西海市)、福田(現在の長崎県長崎市)、長崎(現在の長崎県長崎市)を開港し、キリシタン文化を繁栄させましたが、その一方で近隣の領主や身内からたびたび攻撃を受けるなど、波乱に満ちた一生を送りました。なぜ大村純忠はキリシタン大名になったのか、なぜ次々と領地を開港していったのか、なぜ近隣との争いが絶えなかったか、といった謎に迫りながら55年の生涯を振り返ります。
「大友宗麟」(おおともそうりん)の本名は、大友義鎮(よししげ)。宗麟は、仏教に帰依した際に名乗るようになった法号(ほうごう:仏教の戒律を守る証として与えられる名前)です。来日間もないフランシスコ・ザビエルに面会し、領地でのキリスト教の保護を決めていますが、自身が洗礼を受けてキリシタン大名となったのは、それから25年以上も先のこと。仏教徒だった大友宗麟がキリシタン大名になるまでの経緯や、日本でのキリスト教の発展に果たした役割などを見ていきます。 大友宗麟大友宗麟のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
「高山右近」(たかやまうこん)は、最もよく知られるキリシタン大名のひとりです。大和国宇陀(やまとのくにうだ:現在の奈良県宇陀市)の沢城主(さわじょうしゅ)である高山友照(たかやまともてる)の長男として生まれ、12歳にしてキリスト教の洗礼を受けています。のちに高山家の当主となった高山右近は織田信長や豊臣秀吉に従属し、豊臣政権下では播磨国明石(はりまのくにあかし:現在の兵庫県明石市周辺)に6万石の領地が与えられました。領内ではセミナリオ(神学校)を開設するなどしてキリスト教の布教を保護しましたが、豊臣秀吉による「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)の発令で棄教を迫られるも拒否したため、領地と財産のすべてを失います。そして晩年にはマニラに追放され、再び日本に戻ることなく熱病でこの世を去りました。キリスト教に一生を捧げた高山右近の、波乱に満ちた63年の生涯を振り返ります。 高山右近高山右近のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
豊臣秀吉から厚い信頼を受けた家臣として知られる「小西行長」(こにしゆきなが)。しかし、その生い立ちや人物像、そしてキリシタン大名としての行動や信条などについては、あまり知らないという方が多いのではないでしょうか。豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において石田三成(いしだみつなり)とともに西軍の主力として戦うも、徳川家康率いる東軍に敗退しました。京都で処刑されるまでの小西行長の生涯を見ていきましょう。 西軍 小西行長東軍・西軍の著名な武将の紹介、合戦の経緯や結末について解説します。
「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、武力と統率力に長けた有能な武将であると同時に、千利休(せんのりきゅう)の高弟(こうてい:弟子の中でも特に優れた者)としても知られる文武両道型の戦国大名です。少年期より織田信長に仕えて高く評価され、のちに豊臣秀吉の家臣としても頭角を現した蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたとき、イエズス会の宣教師達は「日本でのキリスト教の布教において強い影響力を持つに違いない大物がキリシタンになった」と喜び、当時のイエズス会の会報では「いままでキリシタンになった者のなかで、最も重きをなす人」と称賛しています。蒲生氏郷がどのような経緯でキリシタンになる道を選んだのか、キリシタンとしてどのような信仰生活を送っていたかなどを見ていきましょう。 蒲生氏郷蒲生氏郷のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
「稀代の知将」として豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献した「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)。黒田官兵衛は熱心なキリシタンでもあり、日本でのキリスト教の発展に尽力しました。キリシタン武将としての黒田官兵衛にスポットをあて、キリスト教の洗礼を受けた40歳前後からのエピソードを中心にご紹介します。 黒田官兵衛と刀黒田官兵衛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。 黒田官兵衛黒田官兵衛のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。
毛利元就(もうりもとなり)の息子と言えば、よく知られるのは次男の吉川元春(きっかわもとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)の2人で、九男の「毛利秀包」(もうりひでかね)はそれほど広く知られる存在ではありません。しかし筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の久留米城(くるめじょう)を居城としてからの毛利秀包は、城下でのキリスト教の宣教を保護し、キリシタン武将としてキリスト教の発展に少なくない貢献を果たしています。そんな毛利秀包の35年の生涯を振り返ってみましょう。
織田信長は南蛮文化に好意的で、イエズス会によるキリスト教の布教も保護したと言われています。実際、1549年(天文18年)にフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸によって伝来したキリスト教は、織田信長が政権を手にした1573年(天正元年)前後から信者の数を大きく増やしていきました。織田信長本人もキリスト教に強い関心を持ち、宣教師との会見を何度も開いてその教えに耳を傾けましたが、それはあくまでも政治的関心によるものであって、自身が洗礼を受ける(キリスト教の信者になる。受洗とも言う)という考えは一切なかったようです。そんな織田信長の家系に生まれながらキリスト教の洗礼を受け、信者になったことが明らかになっている「織田信秀」(おだのぶひで)をご紹介します。 織田信秀織田信秀のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
細川ガラシャは、1563年(永禄6年)、明智光秀(あけちみつひで)の三女として越前国(現在の福井県北部)に生まれ、15歳のときに細川忠興(ほそかわただおき)と主命婚(しゅめいこん:主君の指名した相手と結婚すること。このときの主君は織田信長)をします。父である明智光秀の謀反により、織田信長が命を落としたのちは「逆臣の娘」と見なされ数年間の幽閉生活を送り、解放後にキリスト教の洗礼を受けました。三男三女をもうけ、夫婦は固い絆で結ばれていたものの、キリシタンになったことを妻に告白された細川忠興は激怒。細川ガラシャが1600年(慶長5年)に壮絶な死を遂げるまで、その夫婦仲は回復することはありませんでした。細川ガラシャの順風満帆な人生を大きく変えた「本能寺の変」と「キリスト教の受洗」(じゅせん:キリスト教の洗礼を受けること)という2つの出来事に焦点をあて、イエズス会のルイス・フロイスら宣教師が残した記録をもとに、ヨーロッパからやって来た宣教師達の目に映った細川ガラシャ像をご紹介していきます。 細川ガラシャ細川ガラシャの活躍するまでの経緯や、成し遂げた偉業などをご紹介します。
「五郎八姫」(いろはひめ)は1594年(文禄3年)、伊達政宗とその正室の愛姫(めごひめ)の長女として、京都の聚楽第(じゅらくだい)にあった伊達家の屋敷で生まれました。わずか5歳にして徳川家康の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)と婚約し、12歳で結婚。一時は越後国高田藩(現在の新潟県上越市周辺)に45万石の所領を持つ大名となった松平忠輝ですが、のちに江戸幕府より改易の処分を受け、五郎八姫は離縁を余儀なくされました。仙台の伊達家に戻ったのちは独身を守り、歴史の表舞台にほとんど姿を見せることなく、尼僧として67歳の生涯を終えています。実は五郎八姫がキリシタンだったという確かな記録は見付かっていません。しかし様々な史実から、五郎八姫がキリスト教に深いかかわりを持っていたのは間違いないと考えられています。伊達政宗と愛姫の子ども達の来歴やキリスト教とのつながりを追いながら、五郎八姫の謎多き生涯に迫ります。 伊達政宗伊達政宗のエピソードや関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。 愛姫(めごひめ)愛姫(めごひめ)の活躍するまでの経緯や、成し遂げた偉業などをご紹介します。