鎌倉幕府打倒の口火を切ったのは、後醍醐天皇。挙兵をきっかけに、河内国(現在の大阪府東部)の「楠木正成」(くすのきまさしげ)らが蜂起。
幕府軍をさんざん苦しめたことで、反乱は全国に飛び火していきました。
京都に設置された朝廷の動きを監視する「六波羅探題」(ろくはらたんだい)が、鎌倉幕府屈指の名門である「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の裏切りによって陥落すると、ついに関東にも戦いの火の手が上がりました。1333年(元弘3年)、新田義貞が上野国(現在の群馬県)の「生品神社」(いくしなじんじゃ:群馬県太田市)で兵を挙げたのです。
しかし新田氏は、足利氏に比べると格段に地位の低い豪族でした。当初はさほど大きな反乱ではありませんでしたが、足利尊氏の嫡子「足利千寿王」(あしかがせんじゅおう)が合流すると、軍勢は勢いづきます。数万にも及ぶ大軍勢が、一路鎌倉を目指したのでした。
鎌倉街道に沿って進む新田義貞軍の前に立ちはだかったのは、幕府側に立つ北条氏の一門「桜田貞国」(さくらださだくに)でした。両軍は武蔵国(現在の埼玉県・東京都23区・神奈川県の一部)に流れる入間川を挟んで対陣。
まず「小手指原の戦い」(こてさしがはらのたたかい)で新田軍が優位に立って桜田軍を撤退させると、続いて久米川(現在の綾瀬川)で対陣。雌雄を決するべく「久米川の戦い」が起こったのでした。
新田軍は、まず奇襲により桜田軍の殲滅を試みますが、失敗。一方桜田軍は、挟撃を狙って陣を敷きます。このときの陣形は、一説によれば鶴翼の陣だったと言われています。しかし、新田軍は八国山の高地に陣を構えることで、地理的に優位に戦いを進めました。
より高い場所に陣を敷く方が敵の動きを察知しやすく、かつ攻めるときに勢いがつきやすいのです。序盤は一進一退の攻防が続きましたが、やがて桜田軍の本陣が手薄になると、新田軍は一気に本陣を突いて勝負を決めました。こうして久米川の戦いは、新田軍の大勝利に終わったのです。
敗れた桜田軍はさらに撤退を重ね、鎌倉幕府執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)の弟「北条泰家」(ほうじょうやすいえ)の軍勢100,000と合流した「分倍河原の戦い」(ぶばいがわらのたたかい)でも敗北。これにより命運が尽きました。鎌倉幕府が滅びたのは、久米川の戦いからわずか10日後のことです。
新田義貞が桜田貞国を破った地には「久米川古戦場跡」と刻まれた石碑が残っています。
現在、一帯は「狭山丘陵いきものふれあいの里 蝶の森」として整備され、ハイキングスポットとしても人気。蝶をはじめ希少な昆虫や野草が見られます。
久米川古戦場跡に隣接する小高い丘は、久米川の戦いで新田義貞が本陣を置いた地です。
頂上付近には「将軍塚」の石碑や「元弘青石塔婆所在跡」などの史跡が点在。西武鉄道東村山駅から歩いて20分ほどでアクセスできるので、ハイキングと併せて史跡巡りを楽しんでみてはいかがでしょうか。
八国山にある元弘青石塔婆所在跡は、かつて「元弘の板碑」が立っていた地に設置された石碑です。実は元弘の板碑は、室町時代初期に久米川の戦いを偲んで作られたもの。
当時の戦史を今に伝える貴重な遺構として、東京都東村山市にある「徳蔵寺」(とくぞうじ)が保存・管理しています。
境内の板碑保存館には、元弘の板碑のほか、1359年(延文4年)に作られた「比翼碑」や、1,200年以上前の「獣脚付蔵骨器」などが展示されています。久米川古戦場跡からは歩いて5分ほどなので、併せて訪れてみるのがおすすめです。