天下統一を果たし、「関白」という天皇の補佐役にまで出世した「豊臣秀吉」が、1598年(慶長3年)9月に伏見城で死去。これをきっかけに、豊臣政権内部の政争が表面化します。
豊臣政権の実質的ナンバー2だった「徳川家康」と、政権の政務を担っていた「石田三成」の対立は激しさを増し、一触即発の状態が続いていました。
1600年(慶長5年)、大老「上杉景勝」と徳川家康との関係が悪化し、徳川家康が「会津征伐」へ向かうと、その間に西軍・石田三成が挙兵。石田三成率いる西軍が伏見城落城後、東へと進み、美濃まで進出します。
一方、会津征伐に向かっていた徳川家康のところに石田三成挙兵の情報が入ると、福島正則と池田輝政が、西軍・石田三成の討伐に向かいます。東海道を西へ西へと進み、福島正則が城主を務める「清洲城」(現在の愛知県清須市)まで進出しました。
この状況から、美濃と尾張の間を流れる木曽川が、東軍・西軍の分かれ目となり、そこに築城されていた「岐阜城」が、戦の重要拠点となったのです。
その岐阜城の城主を務めていたのが、織田信長の直系の孫・織田秀信。織田秀信は当初、徳川家康の東軍に加勢するため、会津討伐へ向かう予定でした。
しかし、石田三成からの使者が訪れ、「西軍に参陣し、勝利した暁には尾張三河の2ヵ国を与える」という条件を提示されます。
これに対し、織田秀信は一旦返事を保留し、家老を集めて合議を行ないますが、織田家復興を考慮し、最終的には石田三成側の西軍に付くこととなりました。
清州城に集結した東軍の福島正則と池田輝政は、18,000の大軍で岐阜城へ侵攻。木曽川付近に東軍が上陸するのを確認した織田秀信は、一斉射撃を開始。これにより、岐阜城の戦いの火蓋が切って落とされたのです。
1600年(慶長5年)、東軍・池田輝政、福島正則と、西軍・織田秀信による岐阜城の戦いが開戦します。
東軍1万8,000、西軍4,000と、数では圧倒的に西軍が不利な状況だったことから、家臣からは「籠城すべき」との意見が出ますが、織田秀信は「まったく戦わずに籠城するのは臆病者だと、後世まで語り継がれることになる。ここは野戦を行なうべき」と突っぱねます。
織田秀信は自ら出陣し、約4,000の軍で迎え撃ちますが、東軍の圧倒的な兵力に歯が立たず一時撤退。大垣城や犬山城に集結していた西軍に援軍を求めました。
一方、東軍は2手に分かれる戦略を取り、池田輝政が木曽川の川上から、福島正則が川下から侵攻し、岐阜城を取り囲みます。福島正則とともにいた「黒田長政」は、大垣城に集結した西軍からの援軍を防ぐため、岐阜の町口に布陣しました。
福島正則が先陣を切って攻めますが、織田秀信の家臣「木造長政」(こづくりながまさ)がうまく防御し、なかなか侵攻できません。しかし、木造長政が鉄砲で撃たれたことにより、一気に守りが脆弱となり、二の丸まで攻め込まれます。兵力をかなり消耗していた織田秀信は、結果的に籠城戦をせざるを得なくなりました。
この戦いにおいて、勝敗のカギを握っていた人物が池田輝政でした。池田輝政は、1585年(天正13年)~1590年(天正18年)9月にかけて岐阜城主を務めており、岐阜城の構造を熟知していたのです。
この池田輝政らの働きにより、本丸まで攻め込まれた織田秀信は自害しようとしますが、東軍諸将に説得され、ついに降伏。岐阜城はわずか1日で陥落することとなりました。
その後、命を助けられた織田秀信は、高野山での幽居生活となりましたが、1605年、26歳の若さでなくなったと伝えられています。
この岐阜城の戦いにより、東海道のほとんどが東軍の物となり、「関ヶ原の戦い」の勝敗にも大きく影響を与えたと言われています。
岐阜城の戦いの舞台となった岐阜城は、岐阜県岐阜市の「金華山」(稲葉山)の山頂に位置しています。標高は336mもある難攻不落の城で、「日本100名城」にも選ばれています。
現在の岐阜城は、1956年(昭和31年)7月に再興された物。鉄筋コンクリート造りの3層4階構造で、町のランドマークタワーとなっています。
城内には、各種史料を展示した「史料展示室」が開設されている他、城の「楼上」には展望台があり、長良川や日本アルプスの山々など、壮大な眺望を楽しめるようになっています。また、日没を迎えると城全体がライトアップされ、幻想的な姿を目にすることができます。
また、2011年(平成23年)には、金華山一帯が「岐阜城跡」として国史跡に認定されており、金華山の麓にある「岐阜公園」は、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
岐阜城は、1201年(建仁元年)、鎌倉幕府の軍事目的のために築城されました。初代城主は「二階堂行政」(にかいどうゆきまさ)で、その後「伊賀光資」によって「稲葉山城」に改名。1302年(乾元元年)にいったん廃城となりました。
その後、1394年(応永元年)、守護土岐氏の守護代である「斎藤利永」によって修築されますが、1525年(大永5年)に「斎藤道三」の父である「長井新左衛門尉」(ながいしんざえもんのじょう)らによる謀反が原因で落城します。
さらに、1564年(永禄7年)に2度目の落城、1567年(永禄10年)には織田信長により3度目の落城となり、このとき、稲葉山城から岐阜城に改称されました。
その後も、たびたび落城を繰り返したのち、岐阜城の戦いで7度目の落城となり、1601年(慶長6年)、織田秀信の代で廃城。その後、1910年(明治43年)に木造で復元されたものの、戦時中だった1943年(昭和18年)に焼失しました。
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