常陸国(現在の茨城県)南西部を納めていた小田氏治は、関東地方の最大勢力「北条氏政」(ほうじょううじまさ)、常陸国北部の「佐竹義重」(さたけよししげ)、そして越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)からたびたび侵略を受け、衰退の一途をたどっていました。
そんな折、本拠地の小田城を佐竹義重らの軍勢に攻められた小田氏治は、抗戦むなしく落城。支城の藤沢城(茨城県土浦市)に撤退します。ここで動いたのが、隣国の下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)を治める結城晴朝です。
1570年(元亀元年)、約6,000の兵を集めた結城晴朝は小田領へ進軍。平塚原の安楽寺に本陣を構えて、小田氏治殲滅の目算を立てていました。一方、わずか2,000の兵で対抗する小田氏治は、敵の待つ平塚原へと軍勢を押し出します。兵力が不利にもかかわらず、真っ向勝負を挑んだのでした。
平塚原で激突した両軍は、一進一退の攻防が続いてほぼ互角。1日目は両軍いったん兵を引きました。このとき、小田氏治が一策を講じます。結城軍の先陣と本陣がやや離れているのを知り、敵の本陣へ夜襲を仕掛けることを決めたのです。
実行部隊は「菅谷政貞」(すげのやまささだ)ら小田家の重臣達。小雨の中、兵を三手に分けて本陣の安楽寺を目指すと、火を放って襲いかかり、一挙に結城軍を壊滅へ追い込んだのでした。
この戦いにより小田氏治は名声を高め、一時的に勢力を盛り返します。小田家を滅ぼして常陸国の統一を目論んでいた佐竹義重も対小田戦線の見直しを図り、以後20年にわたって攻防を繰り広げることになるのです。
なお、小田氏治自身は1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」に臣従していた佐竹氏に弓を引いたことが原因となり、所領をすべて没収。大名家としての小田家は滅亡します。このときも、佐竹氏に奪われた小田城を奪還しようと画策してのことでした。
小田氏治が9度も敵に奪われてもなお固執した小田城。歴代の小田家当主は、鎌倉時代から約400年にわたり、この城を本拠地としていました。
しかしながら平城で規模も小さかったため、あまり堅固な城とは言いがたい造りでした。
小田氏治がこの城に固執しすぎたことが、小田家衰退の一因になったとも言われています。
最終的には佐竹家に奪われ、1602年(慶長7年)に佐竹家が秋田県へ移封される際に廃城となりました。現在は「小田城跡歴史ひろば」として開放され、戦国時代の姿が復元されています。
本丸跡は堀や土塁に囲まれ、虎口や曲輪、櫓台なども整備。発掘調査の結果、かつて建物があったと考えられる場所は盛土で保護されているため、当時の城郭の規模が体感できる造りになっています。一角には案内所も設置されているので、まず小田城や小田家にまつわる資料を見てから、散策を楽しむのがおすすめです。
平塚原の戦いの際、小田氏治と対峙した結城晴朝が本陣を置いたのが、茨城県つくば市にある安楽寺です。
この地で小田軍の夜襲を受けた結城晴朝は、撤退を余儀なくされました。創建は1402年(応永9年)、「叡珍」(えいちん)によって開基された古刹です。参道沿いに桜並木が続き、春には花見の名所としても親しまれています。
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