石垣原合戦
石垣原合戦
1600年(慶長5年)、「徳川家康」と「石田三成」の武力衝突が不可避になると、全国各地の大名が徳川方の「東軍」と石田方の「西軍」に分かれ、各地で戦いが いくつも起こりました。「石垣原合戦」(いしがきばるかっせん)は、「九州の関ヶ原」 において勃発した局地戦であり、「黒田如水」(くろだじょすい)の軍と、「大友義統」(おおともよしむね)の軍が激突しました。かつて石垣原合戦が繰り広げられた大分県別府市の古戦場「石垣原古戦場」をご紹介します。
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石垣原合戦の概要

大友義統が西軍についた理由

大友義統はもともと豊後国(現在の大分県)を領有する大名でした。しかし、朝鮮の役(文禄の役慶長の役)での不手際で「豊臣秀吉」の勘気にふれて領地没収の上、幽閉。そのあと「徳川家康」の尽力で身柄は解放されますが、客将として各地を転々とする有様でした。

そんなとき、徳川家康と石田三成の対立が激化し、騒乱の機運が高まります。すると大友義統は、恩義のある徳川方につくのではなく、石田方の陣営に参加。実は嫡男は徳川家康に預けており、側室と末子は石田方に人質に取られているという状況でしたが、家臣の反対を押し切って後者を優先したのです。

一説では、勝利のあかつきには豊後国一国が約束されていたためとも言われています。なお、嫡男は徳川家の後継者「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の近侍(きんじ:側に仕える者)。将来有望でしたが、そこは考慮しませんでした。

黒田如水に敗れ、大友氏の再興は失敗

1600年(慶長5年)9月9日、旧領を回復すべく豊後国に上陸した大友義統のもとには、旧臣達が続々と集まりました。国東半島を破竹の勢いで進軍する大友義統。しかし、隣国の黒田如水(別名:黒田官兵衛)と気脈を通じる杵築城(きつきじょう:大分県杵築市)攻略に取りかかったとき、問題が起こります。

黒田軍が猛烈な速さで西軍の城を落としながら杵築城救援へ駆け付けたのです。こうして「石垣原合戦」の火蓋が切られました。黒田軍約10,000人に対し、大友軍は約2,000人。兵力では不利な大友軍でしたが、旧領回復という目的を前に士気は大いに高まっていました。

黒田軍相手に一歩も引かず、第一陣、第二陣と崩していきましたが、奮闘はここまで。大友軍が疲れ切ったところで、黒田軍の第三陣が一気に攻勢を仕掛け、大友軍は総崩れとなったのです。敗れた大友義統は自刃を決意しますが、家臣に説得されて降伏。

ときを同じくして、関ヶ原の戦いでも西軍が敗れ、御家再興の夢は完全に絶たれました。そのあと大友義統は杵築城侵攻の罪も問われ、流刑。失意の中、1610年(慶長15年)に53年の生涯を閉じました。

石垣原合戦古戦場

石垣原古戦場碑

黒田如水と大友義統が激突した地には、現在「石垣原古戦場碑」が立てられています。周辺には、大友軍屈指の名将であり石垣原で自刃した「吉弘統幸」(よしひろむねゆき)の辞世の句を刻んだ「石垣原合戦殉節烈士の碑」も鎮座。

その他、大友義統の本陣跡や吉弘統幸陣跡の案内板なども設置されています。アクセスはJR日豊本線別府駅からバスで約20分。バス停「九大別府病院」から徒歩約5分です。大友氏の栄枯盛衰に思いを馳せながら、歴史散歩を楽しんでみてはいかがでしょうか。

杵築城

杵築城

杵築城

石垣原合戦の戦端を開いたのが杵築城です。豊後国上陸後に大友軍が包囲し、二の丸まで陥落させたものの、黒田軍の援軍が到着したことで攻城を中止。石垣原での決戦に向かいました。

現在は城山公園として整備され、本丸には3層の模擬天守がそびえています。館内は展望台兼資料館。海に面しているため開放的な景観が楽しめます。

アクセスはJR日豊本線杵築駅からバスで約10分。杵築バスターミナルで下車し、徒歩約12分です。杵築城の周辺には城下町も広がっており、風情を感じながら町歩きが堪能できます。

石垣原古戦場のアクセス

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「石垣原古戦場」施設情報

「石垣原古戦場」の施設情報です。

所在地 〒874-0001
大分県別府市吉弘10-1
電話番号 0977-21-1111
交通アクセス 別府駅からバスで20分
休館日 なし
駐車場 なし
入場料 無料
公式サイト -
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