旧幕臣で構成された「彰義隊」(しょうぎたい)を殲滅した「上野戦争」や、フランス仕込みの旧幕府陸軍「伝習隊」(でんしゅうたい)を蹴散らした「宇都宮城の戦い」で勝利を収めた新政府軍は、会津藩の殲滅へ動き出します。
これに対し会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)は降伏嘆願書を提出。当初、新政府軍に抵抗する気はなかったのです。
しかし新政府軍は嘆願書を拒否。会津藩に残された道は、武装防衛以外ありませんでした。会津領内への侵入を許せば、火力に劣る会津軍に勝ち目はありません。
松平容保は、古来より「奥州の関門」と呼ばれてきた白河で敵を食い止めるべく、家老の「西郷頼母」(さいごうたのも)を指揮官に任命。白河城の守備を固めることが急務でした。
このとき、白河戦線に投入された部隊のひとつが、「秋月登之助」(あきづきのぼりのすけ)が率いる伝習隊の第一大隊の残存兵や、会津砲撃隊を中心とする一隊です。ただし、任務は白河城の守備ではなく、その前線に位置する大田原城(栃木県大田原市)への攻撃。
白河城の前線を押さえて足止めを狙ったとも、白河城が攻撃される際に挟撃拠点を確保するためだったとも言われています。この別働隊は板室方面へと進軍し、やがて那珂川を挟んで新政府軍と対陣。1868年(慶応4年)4月22日、板室の戦いの火蓋が切られたのです。
切り立つ断崖の上に布陣した会津軍の別働隊は、地形の上では有利でした。川を渡って崖を登ろうとする敵を迎え撃てば良かったのです。新政府軍は攻めるに攻められない状況。そこで新政府軍の部隊長を務めていた薩摩藩士「川村純義」(かわむらすみよし)と長州藩士「楢崎頼三」(ならざきらいぞう)が、一計を案じます。
約20人の決死隊で那珂川上流を渡って奇襲を仕掛けたのです。不意を突かれた会津軍は大混乱に陥ります。この隙に、対岸に布陣していた新政府軍も渡河し、会津軍を攻撃。阿久戸坂(あくとさか)などで激しい砲撃戦が展開されました。
やがて火力に勝る新政府軍が優位に立つと、会津軍約300の兵は敗走。こうして戦いは、新政府軍の勝利に終わったのです。新政府軍は追撃こそしなかったものの、一帯の村々に放火し、宿営に使えそうな民家をことごとく燃やしてから大田原城へ帰還しました。
これにより会津軍は、挟撃するための拠点を喪失。白河城での籠城戦に賭ける以外に戦う術がなくなります。やがて大田原城で軍勢を整えた新政府軍は、満を持して白河城へ進軍。約3ヵ月に及ぶ死闘の末に白河城を奪取し、会津領への侵入を果たすのです。
那須山麓道路の終点付近に広がる雑木林内に、ひなびた供養塔と「板室古戦場」の標識がひっそりと立っています。ここは板室の戦いにおける新政府軍と会津軍の最激戦地。眼下には木々越しに那珂川を見下ろすことができます。
1894年(明治27年)に地元の有志が出資し、この地で命を落とした17名の戦死者を慰霊。「右、ろくとち[六斗地]。左、いたむろ[板室]」という文字が刻まれており、道標もかねた非常に珍しい供養塔です。