1572年(元亀3年)、岩村城主「遠山景任」(とおやまかげとう)が没すると、織田信長は遠山氏に継子がないことに目を付け、織田信広(おだのぶひろ)らへ岩村城への進軍を命じました。
「第一次岩村城の戦い」です。織田信広らはすみやかに占領。すると織田信長は、岩村城を勢力下に置くためひとつの策を講じました。
自らの五男「織田御坊丸」(おだごぼうまる:のちの織田勝長)を遠山家の養子にしたのです。実は、遠山景任の正妻・おつやの方が、織田信長の叔母だったため、元来織田家に近い家柄だったのです。
織田御坊丸が幼児だったため、城主はおつやの方が務めました。女性で城主を務める例は全国でも稀。当代きっての美人で、領民からも慕われていたと言います。この情報を聞いた武田信玄は、すぐさま武田二十四将のひとり「秋山信友」(あきやまのぶとも)を岩村城攻略へ派遣しました。これが「第二次岩村城の戦い」です。
おつやの方は自ら采配を振るって武田軍に対抗しますが、約3ヵ月の籠城戦の末、降伏。条件として求められたのは、秋山信友の妻になることでした。おつやの方は、領民や家臣の命を助けるために条件を呑みます。
しかし、養子の織田御坊丸の扱いが後々波紋を呼ぶことになるのです。秋山信友は、織田御坊丸を 養子にしたものの武田信玄に嫌われるのを恐れて、織田御坊丸を人質として、武田信玄のもとへと送ってしまったのです。当然、我が子を人質に取られた織田信長は、激怒します。以後、織田氏と武田氏の関係は悪化の一途をたどりました。
その後織田氏と武田氏の間で、たびたび岩村城争奪戦が行われますが、武田信玄のあとを継いだ「武田勝頼」(たけだかつより)が「長篠の戦い」で大敗を喫すると、情勢は一気に織田方へと傾きます。
1575年(天正3年)に織田信長の嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)が約60,000の兵で侵攻した「第五次岩村城の戦い」では、武田氏が思うように援軍を出せず、岩村城は孤立します。籠城は約5ヵ月にも及びました。
追い詰められた秋山信友は、起死回生を狙って夜襲を仕掛けますが、返り討ちにあい大将格21人、兵士1,000人が討死。これにより降伏を決意します。このとき、城を明け渡せば秋山信友とおつやの方の命は助けるという約束でしたが、織田信長はこれを反故にして、2人を逆さ磔に処しました。
織田御坊丸を人質に取られたことを恨んでいたのです。領民と家臣の命を救うために自らを犠牲にしながら、悲劇の最期を迎えたおつやの方は、岩村城の戦いを語る上では欠かせない人物です。現在も、恵那市の「女城主」として広く市民から愛されています。
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