北条早雲は、もとは伊勢姓を名乗っており、正確には「伊勢宗瑞」(いせそうずい)と言いました。
室町幕府の政所執事であった伊勢氏の出自で、父 「伊勢盛定」(いせもりさだ)は第8代将軍「足利義政」の申次衆(もうしつぎしゅう:将軍御所に参上した人物の名、用件などを取り次ぐ役)でした。
北条早雲の姉が「今川義忠」と婚姻関係にあり、嫡男「龍王丸」(のちの今川氏親)を産んだことから、今川氏との浅からぬ縁を結びました。今川義忠の死後、甥である龍王丸のうしろ盾となり、また1483年(文明15年)、北条早雲は足利将軍家の申次衆となりました。
今川氏の家督を龍王丸が継ぎ、「今川氏親」(いまがわうじちか)を名乗るようになると、北条早雲には伊豆との国境近くにある「興国寺城」(現在の静岡県沼津市)に所領が与えられ、今川氏の家臣として甥の今川氏親を補佐していました。そんな中、伊豆一国を支配していた「足利政知」が死去し、足利政知の長子「茶々丸」による継母・異母弟殺害事件が勃発したのです。
北条早雲が居を構えていた興国寺城は伊豆に近く、北条早雲が幕府の要職に就いていたこともあり、室町幕府の実質上の将軍となっていた「足利清晃」(茶々丸の異母弟、のちの第11代将軍「足利義澄」)の命を受けて伊豆堀越御所にいる茶々丸に奇襲をかけました。これを伊豆討ち入りと呼びます。
このとき、北条早雲の手勢は200人。ここに今川氏親に借りた300人を合わせた総勢500人が10艘の船で西伊豆の海岸に上陸したのです。西伊豆の住人は、海賊の襲来かと慌てふためき、家財道具を背負って山に逃げたとされています。そもそも、茶々丸の統治は非常な悪政。茶々丸を追い払い、善政を施した北条早雲が住民に受け入れられるまでに、さほど時間はかかりませんでした。
北条早雲の側に付けば本領を安堵(所職の存在などを保証すること)し、兵の乱暴狼藉なども禁じたのですから、それも当然のこと。一説によれば、北条早雲は伊豆一国をわずかひと月ほどで平定したと言われています。
茶々丸は、室町将軍家の支族。地方の一武将に過ぎない北条早雲に滅ぼされた訳ですから、これを下剋上と捉える向きがあっても不思議ではありません。伊豆討ち入りが、下剋上の嚆矢と言われるのは、このためです。
北条早雲を祖とする後北条家の居城は小田原にありますが、北条早雲が終生にわたり居を構えたのは伊豆の「韮山城」でした。
伊豆討ち入りの舞台となった「韮山城跡」は、まさに伊豆の喉元と言って良い立地で、武田氏や今川氏といった大名達に対抗するための防御の拠点として非常に重要な役割を担っていました。のちの1590年(天正18年)、豊臣秀吉の軍勢約40,000に囲まれたときにも、約3ヵ月にわたる籠城戦を耐え抜いたのです。
後北条氏が滅亡したのち、1601年(慶長6年)に韮山城は廃されました。廃城後は、韮山代官の御囲地として守られたため、戦国時代の土塁や堀などが残されています。韮山城跡として階段などが整備されており、当時を偲ぶことができます。ただし、「土手和田遺構群」や「天ヶ岳遺構群」、「太閤陣場付城跡」、「本立寺付城跡」などは私有地にあり、立ち入ることができませんので、ご注意下さい。
後北条氏の居城となった「小田原城」はのち、小田原藩の藩庁が置かれ、城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定され、整備されています。
近世城郭と中世城郭が並存し、両方の遺構が残されているという全国的にも珍しい城郭で、本丸や二の丸、茶壺曲輪、馬屋曲輪などの復元が進められているのも見どころのひとつです。
本丸と二の丸の大部分が国の史跡となっており、本丸を中心とした城跡が「城址公園」として一般に開放されています。
小田原市が音頭を取り、本格的な史跡整備に努めているかいもあって、2006年(平成18年)10月「日本の歴史公園100選」にも選出されました。子ども遊園地なども併設され、家族連れで楽しめる史跡公園として人気です。
ホームメイト・リサーチの旅探「博物館/美術館」では、韮山城跡の詳細情報とユーザーからの口コミ、施設写真、施設動画の投稿情報をご覧いただけます。
※ご投稿いただくには、ホームメイト・リサーチへのユーザー登録が必要です。