幕末の京都を震撼させた新撰組は、一時は200名を超えましたが、「鳥羽・伏見の戦い」の敗北により空中分解し、江戸に戻ってきたときにはわずか70人足らずになっていました。しかし、近藤勇はただでは起きません。「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に甲府城(山梨県甲府市)を委任してほしいと建白書を提出。
これが受理されたことで、「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)を結成したのです。中心となったのは新撰組の面々。任務は甲府城に入って周辺の治安を維持するというものでした。出陣前、旧幕府首脳部は、近藤勇に若年寄格(老中に次ぐ重臣のこと)の地位と「大久保大和」(おおくぼやまと)の名を与えました。
これに気を良くした近藤勇は、旧幕府が用意した5,000両もの軍資金を利用して随所で酒宴を開きながら行軍。甲府城に入城さえすれば念願の城持ち大名にもなれるとあって、前祝いのような気分で豪遊を続けたのです。
途中、行軍が遅れたことで大砲も6門のうち4門を置き去りにするほど、部隊は緩みきっていました。一方、新政府軍として「土佐迅衝隊」(とさじんしょうたい)を率いる板垣退助は、甲府城に先に入城した方が勝つと確信。
甲陽鎮撫隊よりもはるかに長い距離を急ぎ足で進み、甲府城への先着を果たします。戦う前から、士気・兵力・戦略のすべてにおいて、板垣退助がまさっていたのです。
甲府城を目にした近藤勇は愕然とします。先に城を押さえられた上、新政府軍に恐れをなした兵士が続々と離脱。約300人で行軍していたはずが、いつの間にか約120人にまで減少していました。
近藤勇は急遽、新撰組副長を務めていた「土方歳三」(ひじかたとしぞう)を江戸へ派遣。援軍要請に望みを託しました。さらに甲陽鎮撫隊に問題が発生します。当初は大善寺(山梨県甲州市)に本陣を構えようとしていたものの、戦火を恐れる寺から拒否され、寺の外に細長い陣形を敷くはめになったのです。
これを知った板垣退助は、甲州街道、岩崎山、菱山越(ひしやまこえ:柏尾山を迂回したルートのこと)の三方向から甲陽鎮撫隊を攻撃。総勢約1,000人の多勢で取り囲み、一気に殲滅しました。
戦いはわずか2時間で決着が付き、夢破れた近藤勇は、わずかなお供を連れて江戸へと敗走したのです。柏尾の戦いから約2ヵ月後、近藤勇は千葉県の流山で捕縛され、斬首に処されます。幕末の京都で猛威を振るった新撰組は、かつての栄光とはほど遠い結末を迎えたのでした。
近藤勇率いる甲陽鎮撫隊と、板垣退助率いる土佐迅衝隊が激突した地には、「柏尾古戦場」の石碑が立てられています。
柏尾の戦いは、幕末維新期、甲州で起こった唯一の戊辰戦争でした。石碑のそばには近藤勇の像が鎮座し、往時を偲ばせます。
アクセスは中央自動車道勝沼ICから車で約2分。石碑からは渓谷沿いへ続く緩やかな石畳の遊歩道が延びています。交差点に面していてやや見つけにくいですが、近藤勇像を目印に訪れましょう。
近藤勇が本陣を構えようとして断られた大善寺は、甲州屈指の古刹として親しまれています。場所は柏尾古戦場から歩いて約5分。718年(養老2年)、名僧「行基」が「薬師三尊像」を刻んで安置したのがはじまりとされています。
山梨県最古の木造建築であり、国宝にも指定されている薬師堂が境内の見どころ。甲州ぶどう発祥の地とも言われており、別名「ぶどう寺」とも呼ばれています。
なお、浮世絵師の「月岡芳年」は、明治時代に「甲州勝沼駅ニ於テ近藤勇驍勇之図」(こうしゅうかつぬまえきにおいてこんどういさみぎょうゆうのず)という名画を制作しました。モチーフは柏尾の戦いです。凛々しい近藤勇の背景には重厚な大善寺の山門が描かれています。