1577年(天正5年)、織田信長の嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)率いる約100,000の軍勢は、海沿いと山沿いの2手に分かれて雑賀城へ進軍。対する雑賀衆の棟梁「鈴木孫一」(すずきまごいち)は、手勢わずか2,000人です。
勝負は目に見えているはずでしたが、鈴木孫一は巧みなゲリラ戦を仕掛けて織田軍を翻弄します。対陣した和歌川にあらかじめ逆茂木(さかもぎ:枝のついた倒木を組み合わせた障害物)などを沈めておき、川を渡る織田軍を足止めすると、鉄砲部隊でいっせいに狙撃。
織田軍は多大な損害を受けて退却を余儀なくされます。以降も地の利を活かしたゲリラ戦を展開されたことで、織田軍は絶対に避けたかった長期戦へと引きずり込まれてしまったのでした。見かねた織田信長は、制圧を諦めて懐柔策に切り替えます。
鈴木孫一らに停戦を持ちかけて条件付きで服従を約束させ、辛うじて体面を保ったのでした。しかし、織田軍が撤退した約半年後、鈴木孫一は早くも反旗を翻し、第二次雑賀合戦が勃発。雑賀衆は、ここでも約80,000の織田軍相手にゲリラ戦で対抗し、再び織田軍を退けました。結局、織田信長は最後まで雑賀衆を討つことができないまま、石山合戦が終結。
紀州征伐の達成は「本能寺の変」の3年後、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)の時代まで持ち越されました。しかし、このときも羽柴軍は約100,000の兵を繰り出したにもかかわらず苦戦を強いられ、約10,000人もの損害を出しています。
原因のひとつは、織田信長のときとは違って根来衆まで敵に回してしまったこと。紀州が誇る2大鉄砲部隊を相手にするのは、天下人をもってしても極めて困難な事業だったのです。
雑賀合戦の舞台となった雑賀城は、雑賀衆の棟梁・鈴木孫一の居城として知られています。築城したのは鈴木孫一の父「鈴木佐大夫」(すずきさだゆう)です。妙見山に建てられたことから、別名・妙見山城とも呼ばれています。
現在、この一帯は城跡山公園(津屋公園)として整備されていますが、戦国時代の面影はほぼ見られません。千畳敷曲輪(せんじょうじきくるわ)と呼ばれる台地が公園の裏山にありますが、堀や石垣、土塁などの遺構は残っておらず、石碑なども立っていません。
山頂に妙見堂という小さなお堂だけが、ひっそりと建っています。アクセスはJR紀勢本線紀三井寺駅から徒歩約30分。車の場合は、阪和自動車道和歌山ICから約25分です。