野辺地戦争(戊辰戦争)
野辺地戦争(戊辰戦争)
幕末から明治初期にかけて、旧幕府軍と明治新政府軍との間で起こった「戊辰戦争」のなかには、藩同士の思惑が交錯する小規模な戦闘も数多く勃発しました。そのひとつが青森県上北郡野辺地町で行われた「野辺地戦争」(のへじせんそう)です。かつて野辺地戦争(戊辰戦争)が繰り広げられた青森県上北郡野辺地町の古戦場「野辺地城跡」をご紹介します。
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野辺地戦争(戊辰戦争)の概要

奥羽越列藩同盟の崩壊が引き金に

鳥羽・伏見の戦い」によってはじまった戊辰戦争は、全国を旧幕府軍と明治新政府軍に二分し、各地で武力衝突を引き起こしました。旧幕府側に付く藩が多かった東北地方では、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)が結成され、新政府軍に対抗。

しかし、徐々に旧幕府勢力の形勢が不利に傾いていくと、脱退する藩が続出しました。そんななか弘前藩は早々に離脱を決めますが、奥羽越列藩同盟から攻め込まれることを恐れ、中立を模索します。

しかし、庄内藩(現在の山形県鶴岡市)や盛岡藩が新政府軍と戦った「秋田戦争」などでも弘前藩はどっちつかずの対応に終始し、新政府軍からも疑念の目で見られかねない状況に陥ってしまいました。

1868年(明治元年)9月12日、奥羽越列藩同盟の中心的役割を担った仙台藩が降伏したことで、盛岡藩をはじめとする旧幕府側の諸藩も降伏を申込み、受理されます。東北地方における戊辰戦争は終結したかに見えました。

しかしその直後、突如として弘前藩とその支藩・黒石藩が、盛岡藩領である野辺地地方へ攻め寄せたのです。9月23日の夜のことでした。

降伏後の盛岡藩を弘前藩が攻撃

弘前・黒石藩が降伏後の盛岡藩を攻めた原因は、定かではありません。一説によれば、新政府に睨まれたことで「点数稼ぎ」に走ったためとも言われています。野辺地に侵入した弘前・ 黒石軍は約180人。藩境の村に火を放ちながら、代官所のある野辺地城(青森県上北郡野辺地町)へと迫りました。

不意を突かれた盛岡藩は、野辺地城までわずか250mの地点まで攻め込まれますが、八戸藩の反撃や、盛岡藩の七戸隊による援軍などにより反撃。万が一に備え、一帯の藩境には約400人の兵力を配備していたのです。

戦いは翌朝まで続きますが、弘前藩の隊長「小島貞知」(こじまさだとも)らが戦死したこともあり、弘前・黒石軍は撤退。こうしてわずか1日で野辺地戦争は終焉を迎えたのです。

戦後、野辺地戦争における明治新政府の処分は、特にありませんでした。弘前藩と盛岡藩の間にしこりを残しつつも、藩同士の私闘であると結論付けられたのです。

野辺地戦争(戊辰戦争)の古戦場

野辺地城跡

野辺地戦争

野辺地戦争

江戸時代に野辺地代官所が置かれ、野辺地戦争時には盛岡藩の軍事拠点となったのが野辺地城です。弘前・黒石藩の軍勢は、この地を攻略するため猛攻を仕掛けますが、失敗に終わりました。

1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となり、現在は「野辺地城跡」に中央公民館や図書館などが建っています。

当時の面影はほぼ残っていませんが、跡地の一角に歴史民俗資料館があり、野辺地戦争にまつわるパネル展示などが見られます。

史跡らしい見どころは、駐車場の坪庭に立つ「野辺地代官所跡」の標柱と、野辺地川へと続く堀跡のみ。ただし、一帯は野辺地川に面した断崖の地です。現在の地形からも、堅牢な城郭の面影を感じることができます。

野辺地戦争戦死者墓所・墓碑

比較的小規模な戦闘ながら、野辺地戦争では 戦死者が出ました。弘前・黒石軍は兵士27名、盛岡・八戸軍は兵士6名(各人数は諸説あり)。最激戦区だった鳥井平地区に立てられた「野辺地戦争戦死者墓所・墓碑」には、このうち弘前・黒石軍の戦死者が祀られています。

盛岡・八戸軍の戦没者が含まれていないのは、この墓所が国費によって建てられたためです。つまり、新政府軍側にだけ配慮されたかたちとなりました。墓所一帯には老松が茂り、4基の墓石の前には花崗岩の踏石が敷かれています。

野辺地城跡のアクセス

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「野辺地城跡」施設情報

「野辺地城跡」の施設情報です。

所在地 〒039-3100
青森県上北郡野辺地町鳥井平36
休館日 なし
駐車場 あり
入場料 無料
公式サイト -
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