佐取の戦い
佐取の戦い
1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに各地で起こった「戊辰戦争」は、大きく2つに分類できます。それは「明治新政府軍と旧幕府軍の戦い」、「明治新政府軍と東北諸藩の戦い」です。このうち東北諸藩の戦いは、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)という巨大同盟が組織されたことで、みちのくを舞台に各地で苛烈な戦いが展開されました。そのうちのひとつが、新政府軍と会津藩(現在の福島県西部と新潟県及び栃木県の一部)が越後国(現在の新潟県)の北東端で激突した「佐取の戦い」です。かつて佐取の戦いが繰り広げられた新潟県五泉市の古戦場「佐取古戦場」をご紹介します。
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佐取の戦いの概要

会津藩が越後国に配兵した原因

佐取の戦いが起こった阿賀野川流域

佐取の戦いが起こった阿賀野川流域

鳥羽・伏見の戦いで江戸を掌握した明治新政府軍は幾手にも分かれて、軍勢を北上させました。

このうち東山道を進んだ新政府軍は、1868年(慶応4年)3月に越後国へ到達。ここで長岡藩と激しい攻防戦を繰り広げて制圧したあと、会津藩の領内へと進軍を開始します。

これに対し会津藩も迎撃を準備。新政府軍の主力が、越後裏街道と呼ばれる阿賀野川沿いを前進すると、この動きを阻止するために会津藩の白虎二番寄合隊(16~17歳で結成された部隊のひとつ)を含む軍勢を派遣しました。両軍が対峙したのは、1868年(慶応4年)8月7日、越後国と会津藩領の境界です。この佐取の地で起こった戦闘を佐取の戦いと言います。

白虎寄合二番隊の奮戦

会津藩の陣が置かれたのは佐取山(大久保山:新潟県五泉市)と陣ヶ峰(新潟県加茂市)でした。当時、敵の動きを知るには目で確認する以外になく、高台にあり眺望の利く地を選んだのです。このとき会津藩の白虎寄合二番隊62人は、佐取山から約1,000m離れた佐取集落に待機を命じられています。

佐取山から阿賀野川を挟んだ対岸で激しい戦闘が開始されたのは8月10日の早朝でした。最新鋭の火器を有する新政府軍の前に、会津軍は劣勢。すかさず加勢するため、白虎寄合二番隊らは対岸へと向かいました。

しかし、新政府軍はこの動きに迅速な対応を見せます。佐取山の会津軍が手薄になったのを見計らい、約80名が佐取山のふもとに上陸。2つの部隊に再編成すると、一方は陣ヶ峰、もう一方は佐取山への方向に迂回をはじめたのです。

これによって会津軍は挟撃を受けるかたちとなり、たちまち激戦となりました。待機場所から戦況を見守っていた白虎寄合二番隊62名も、ただちに佐取山会津藩陣に向けて急行。新政府軍に戦いを挑み、一度は敵を撃退する活躍を見せましたが、徐々に押されはじめます。数にまさる新政府軍が、続々と大軍を投入してきたためです。

それでも阿賀野川岸での抵抗を続けますが、7名の戦死者を出してあえなく撤退。新政府軍の会津領侵入を許してしまったのでした。やがて戦場は鶴ヶ城(福島県会津若松市)の城下にも及び、佐取の戦いから約3ヵ月後、会津藩の降伏によって「会津戦争」は終結したのです。

佐取の戦い古戦場

佐取古戦場の碑

咲花駅周辺の桜並木

咲花駅周辺の桜並木

白虎隊ゆかりの地として知られる「佐取古戦場の碑」は、JR磐越西線咲花駅前にあります。

「戊辰之役 佐取古戦場」と「戊辰殉難追悼碑」の2つからなり、石版には佐取の戦いの様子などが刻まれています。一帯は、白虎寄合二番隊が待機していた地です。周辺には咲花温泉の湯宿が点在。

湯治と併せて訪ねるのがおすすめです。

また春になると咲花駅周辺の桜並木が色付き、趣を添えてくれます。

長徳寺

佐取古戦場の碑から西へ約3分歩くと、佐取の戦いゆかりの古刹「長徳寺」(ちょうとくじ)が見えてきます。境内には、壮絶な戦死を遂げた白虎寄合二番隊士「星勇八」(ほしゆうはち)の墓が鎮座。若くして散った悲劇を今に伝えています。

寺院自体は戊辰戦争の際に焼失してしまい、現在建っているお堂は1879年(明治12年)に再建されたものです。佐取古戦場の碑や阿賀野川の河畔風景とともに巡り、往時を偲ぶ歴史散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。

佐取古戦場のアクセス

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「佐取古戦場」施設情報

「佐取古戦場」の施設情報です。

所在地 〒959-1615
新潟県五泉市佐取2660
電話番号 0250-42-5195
交通アクセス JR磐越西線の咲花駅前
休館日 なし
駐車場 なし
入場料 無料
公式サイト -

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