1570年(元亀元年)6月、織田信長は、「姉川の戦い」において浅井・朝倉連合軍に痛撃を与えますが、息の根を止めるには至りませんでした。
むしろ、反織田の旗幟をより鮮明にして、京都や大坂方面などで敵対行動を活発化させたのです。
この動きに対して織田信長は、8月20日に岐阜城(岐阜県岐阜市)を出陣し、摂津天王寺(せっつてんのうじ:現在の大阪市天王寺区)に布陣。
するとこの機会を狙っていた浅井・朝倉連合軍は、約30,000の軍勢で南下を開始し、織田軍と小競り合いを続けながら京都へ迫る勢いを見せました。この知らせを受けた織田信長は、ただちに摂津天王寺での滞陣を切り上げ、浅井・朝倉連合軍の迎撃へと向かいます。
しかし織田軍が近づくと、浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺へと逃げ込んで長期戦の構えを見せたのです。当時、聖地として崇められていた比叡山への武力行使は御法度とされていました。それで織田信長は、進むことも退くこともできない窮地へと追い込まれてしまったのです。
志賀(滋賀県大津市)に着陣した織田信長は、まずは比叡山延暦寺の僧を呼び出し、「織田氏に忠節を尽して欲しい」、「それが無理ならせめて中立を」と要請しますが、僧達は聞く耳を持とうとしません。そればかりか浅井・朝倉連合軍を支援する動きさえ見せる始末でした。
交渉が不可能であることを悟った織田信長は、仕方なく宇佐山城(滋賀県大津市)に本陣を設営。比叡山のふもとを囲むことしかできませんでした。浅井・朝倉連合軍は、比叡山延暦寺が味方についたことを知ると、決戦を挑まず小競り合いに終始。
この地に織田信長を釘付けにすることで、その間に他勢力が織田氏に痛撃を与えることを期待してのことでした。しかし、冬が近づくにつれて状況は徐々に変化しはじめます。北陸路が降雪で閉ざされることを憂慮した浅井長政と朝倉義景が、織田信長との一時的な和睦を考えるようになったのです。
約3ヵ月辛抱を重ねた織田信長は、この機会を逃さず朝廷を巻き込み休戦協定を締結。これにより双方とも軍勢を引き、志賀の陣と呼ばれる長期対陣は終結しました。しかし、このときの比叡山延暦寺の対応が、1571年(元亀2年)の「比叡山焼き討ち」の直接的な引き金となってしまうのです。
織田信長が家臣の「森可成」(もりよしなり)に築かせた「宇佐山城」は、志賀の陣の際に織田信長が本陣を置いた城です。未加工の自然石を積む「野面積み」(のづらづみ)という工法で造成した石垣が残り、のちに「明智光秀」(あけちみつひで)も城主となりました。
現在は山頂に放送局のアンテナが立てられ、史跡としての整備は行き届いていませんが、本丸跡には当時の石垣が見られます。アクセスはJR湖西線大津京駅から徒歩約10分。本丸跡への登山口は、宇佐八幡宮(滋賀県大津市)本殿の横にあります。
比叡山は滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる霊山です。平安時代初期に「最澄」(さいちょう)によって延暦寺が建立されて以降、寺域は全山に拡大。山自体がひとつの寺院として発展しました。やがて比叡山と言えば延暦寺を指すようになり、現在に至っています。
寺域は「東塔」(とうどう)、「西塔」(さいとう)、「横川」(よかわ)の3区画からなり、国宝の根本中堂をはじめ、約150余の堂宇が点在。世界遺産のひとつでもあり、関西屈指の観光スポットとして人気を集めています。アクセスはバスがもっともスムーズ。JR京都駅から発着する直行バスがおすすめです。