もともと平将門は、出世には縁のない衛士(えじ:宮中護衛のため全国から集められた兵士)でした。
生まれは下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)。12年ほど京で務めたあと、故郷に戻りますが、父「平良将」(たいらのよしまさ)の死をきっかけに、親族間で領地争いが勃発してしまいます。
当時は、長子相続制度(嫡男が家督を相続する制度のこと)などがなく、遺領争いは各地で頻発している状況でした。
そして平将門は、伯父の「平国香」(たいらのくにか)達の横暴に我慢がならず、挙兵したと言われています。しかし平将門の勢力が拡大し、関東全域を制圧しはじめると、京では謀反の鎮圧が叫ばれるようになります。自らを新皇と称して勝手に国司(国が派遣する地方行政官)を任命していることが、京の公卿達の怒りを買ったのです。
討伐軍の中心となったのは、平将門の従兄弟「平貞盛」(たいらのさだもり)と、下野国(現在の栃木県)の「藤原秀郷」(ふじわらひでさと)。ふたりは平将門軍のほとんどが農兵であることをふまえ、農繁期を待ってから下野国で挙兵。平将門はこれを討つため兵を向けたのです。
平将門が布陣したのは、下総国の猿島郡(坂東市・古河市の一部)にある北山でした。軍勢はわずか400人。対する平貞盛・藤原秀郷連合軍は約3,200人を集め、圧倒的な戦力差です。
ところが先手を取ったのは平将門軍でした。この日は戦場に強い北風が吹いており、平将門は追い風を利用するため風上に布陣していたのです。当時の合戦は弓矢による射かけ合いから合戦が開始するため、必然的に風上が有利でした。
兵力に劣りながらも風の力を借りて突撃した平将門軍は、敵を総崩れに近い状態まで追い詰め、約2,900人を蹴散らします。平貞盛・藤原秀郷連合軍は、精鋭300人ほどで何とか持ちこたえるのが精一杯でした。
しかし、平将門が勝利目前に迫ったとき異変が起こります。北からの追い風がパタリと止み、南風へと転じたのです。反撃の好機を得た平貞盛・藤原秀郷連合軍は、風上から弓矢を射かけて徐々に押し返すことに成功したのです。
やがて平将門は強風によって立ち往生。流れ矢を受けて戦死します。風向きが、勝敗を分けたのです。平将門の乱による動乱は、武士の強さを全国へ知らしめました。これが源氏と平氏の台頭のきっかけとなり、やがて武家政権の到来へとつながっていくのです。
平将門の乱の決戦地となった北山古戦場の位置については、複数の説があります。特に有力視されている場所が、茨城県坂東市内にある「北山稲荷大明神」(きたやまいなりだいみょうじん)です。
平安時代頃に書かれたとされる「将門記」(しょうもんき)に将門最後の陣所として「辛島郡[猿島郡]北山」と記されていることや、1975年(昭和50年)に北山稲荷大明神から平将門の命日と平安時代の年号が刻まれた板碑が発見されたことが、決め手となっています。
境内には「鎮魂 平将門公之碑」や「終焉之地 遍田 北山古戦場」と書かれた石碑が鎮座。ただし、境内はあまり整備されておらず、木々がいたるところに繁茂しています。アクセスは首都圏中央連絡自動車道つくば中央ICから車で25分ほどです。