黒船の来航以来、日本中で外国への脅威が叫ばれるようになります。このとき志士達が唱えたスローガンが「尊皇攘夷」。水戸藩で生まれた思想でした。
水戸藩主の「徳川斉昭」(とくがわなりあき)と、書籍などで尊皇攘夷論を説いた水戸藩の学者「藤田東湖」(ふじたとうこ)は、一躍尊皇攘夷のシンボルとなります。この流れによって、水戸藩内には「天狗党」と呼ばれる過激派が続々と誕生。
天狗党とは、「成り上がり者が鼻高々になっている」という意味が込められた蔑称です。つまり、ひとつの党の名称ではなく、「天狗になっている者達」全般を指していました。天狗党と呼ばれる志士達の中心となったのは、藤田東湖の四男・藤田小四郎です。
全国の尊皇攘夷志士と交流し、各地で遊説や資金集めに奔走。長州藩との挙兵計画なども練りはじめ、次第に過激さを増していきました。この頃、のちに近代日本資本主義の父となる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)とも2度にわたり会合。渋沢栄一は藤田小四郎のことを「1を聞いて10を知る賢い男」と評しています。
国内で尊皇攘夷運動がますます過熱するなか、幕府は尊皇攘夷派の世論を鎮めるために、すでに開港されていた横浜港の鎖港を試みます。主導したのは徳川斉昭の七男で、名門一橋家を継いだ「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)。
薩摩藩を含めた幕府内の権力争いにより頓挫しますが、このとき、藤田小四郎が突如として筑波山で挙兵するのです。つまり、直接の原因は横浜鎖港が実施されないことへの抗議でした。1864年(元治元年)3月、筑波山に集まった挙兵はわずか62人でしたが、徐々に軍勢を増やし、最終的には1,400人以上に膨れあがります。
総大将は、途中で止めに入った武田耕雲斎。副将は藤田小四郎です。しかし天狗党の「京都にいる一橋慶喜を通じて朝廷に尊皇攘夷の志を伝える」という目的は、幕府や諸藩には理解されませんでした。
あくまで反乱として捉えられ、幕府による追討軍や水戸藩内の敵対勢力と戦闘。このとき、一部の志士達が役人や富裕層を襲い軍資金を集めたことも幕府に悪印象を与えました。武田耕雲斎らは、京都にいる一橋慶喜を頼ります。
実は挙兵の直前、一橋慶喜は武田耕雲斎を通じて水戸藩士の上京を依頼し、実際に約200〜300人が一橋慶喜の配下になっていたのです。天狗党が中山道を通って京都へ向かう途中、高崎藩や高島・松本藩との交戦もありました。幕府から追討令が出ていたためです。
天狗党はそれでも迂回をして越前国(現在の福井県北東部)まで至ると、向かってくる討伐軍の総大将が、頼みの綱の一橋慶喜であったことを知ります。絶望した天狗党は加賀藩に投降し、乱は同年12月に収束するのです。
しかし、幕府の処断は苛烈を極めました。首謀者の武田耕雲斎や藤田小四郎はもちろん、大半が斬刑・島流し。これにより水戸藩は幕末維新の流れから完全に離脱。一橋慶喜も、人望を失う結果となりました。
「筑波山」は男体山と女体山が連なる標高871mの名峰です。藤田小四郎が挙兵した地は、中腹にあった中禅寺。ここで62人の同志とともに決起しました。
現在、中禅寺は廃寺となっていますが、跡地には筑波山神社が建っています。
境内には筑波山義挙碑や藤田小四郎像などの史跡が点在。往時を偲ぶことができます。
筑波山はもっとも低い日本百名山として知られ、ハイキングスポットとしても人気です。
ケーブルカーを使えば、筑波山神社から山頂まで約30分。登山初心者でも簡単に登れる上、山頂からは関東平野を眼下に望む絶景が楽しめます。
ホームメイト・リサーチの旅探「博物館/美術館」では、筑波山神社の詳細情報とユーザーからの口コミ、施設写真、施設動画の投稿情報をご覧いただけます。
※ご投稿いただくには、ホームメイト・リサーチへのユーザー登録が必要です。