1582年(天正10年)、織田信長はついに宿敵・武田氏を討つべく出陣を命じます。武田氏の一門衆「木曽義昌」(きそよしまさ)が離反し、武田領内への侵攻がたやすくなったためです。
総大将は嫡男の織田信忠。総勢18,000にも及ぶ大軍勢でした。これに対し武田勝頼は、やがて来る織田軍を想定して堅固な新府城(山梨県韮崎市)を築城しており、ここで迎え撃つ予定でした。
しかし、怒濤の勢いで進軍する織田軍を前に、家臣団は次々と離反。さらには「徳川家康」も甲斐国への侵攻を開始したことで兵士の逃亡が相次ぎ、新府城での抗戦を断念せざるを得ない状況に追い込まれました。多大な労力を費やして新築した居城でしたが、一度も戦いに使うことなく撤退を決めたのです。このときすでに兵力は1,000人ほどに減少していました。
武田勝頼一行の目的地は、大叔父であり家中屈指の重臣「小山田信茂」(おやまだのぶしげ)が守る岩殿城(山梨県大月市)でした。ところが、ここでも裏切られてしまいます。入城を拒否された上に柵越しから発砲を受け、犠牲者が続出。行き場を失った武田勝頼は、絶望的な逃避行を開始したのでした。
武田勝頼が目指したのは、先祖の墓がある天目山の「栖雲寺」(せいうんじ:山梨県甲州市)です。もはや勝ち目もなく、死に場所を探しての旅路となりました。やがて織田軍の「滝川一益」(たきがわかずます)ら約4,000の敵兵に追いつかれ、武田勝頼は自らの運命を悟ります。こうして最期の戦いである「天目山の戦い」が起こったのでした。
唯一奮戦を見せたのは、武田家最後の家臣とも呼ばれる「土屋昌恒」(つちやまさつね)です。主君が自害する時間を稼ぐため、河川沿いの崖道に留まり、片手で藤蔓を掴みながら織田軍兵士を次々と撃退。
斬った数は1,000人とも言われ、現在も「片手千人斬り」の伝説が語り継がれています。武田勝頼が妻子とともに自刃した地は、栖雲寺の約7km手前。戦後、この地には徳川家康によって景徳院が建てられました。
1582年(天正10年)、徳川家康が武田勝頼や武田氏の殉死者を弔うために建てられたのが景徳院です。武田勝頼や妻子はこの地で自刃したと伝わり、敷地内には生害石(自害するために座した石)が残っています。
本堂のかたわらに立つ「旗立ての松」は、自刃の前に武田勝頼が家宝の旗を立てかけ、嫡子「武田信勝」に家督を譲った場所。
さらに境内奥には、武田勝頼・武田信勝・武田勝頼夫人の墓が並び、県指定文化財として保護されています。アクセスはJR中央本線甲斐大和駅からバスに約5分乗車し、バス停「下の平」で下車したのち徒歩約5分。桜の名所としても名高く、春に訪れるのがおすすめです。
天目山の戦いでは、小規模ながら数度の交戦が行われました。そのうち武田勝頼が最後に抵抗した地が「鳥居畑古戦場跡」です。
上流域で土屋昌恒が片手千人斬りと呼ばれるほどの活躍をし、織田軍を足止めするも、このとき武田軍はわずか43人。
ここに柵を築いて主君が自害する時間を稼いだと言われています。残された家臣は、全員戦死を遂げ、現在は石碑が立つのみです。
場所は景徳院の手前約1kmの地点。戦国最強を誇った武田氏最期の戦場を見学してから景徳院を訪ねると、より感慨深い歴史散策が楽しめます。
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