1867年(慶応3年)、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が大政奉還(政権を天皇に返上すること)を行ったことで、幕末の騒乱は新たな局面へ入りました。
朝廷を中心とする新政権が樹立されるにあたり、実権を握るべきは誰なのか、各藩の思惑が交差しはじめたのです。薩摩藩と長州藩は徳川家を悪者にし、是が非でも武力討伐に持ち込みたい構えでした。
一方徳川家は、朝廷に政権運営能力はないと踏み、事実上徳川家を頂点とした新政権を確立したいと考えていました。
しかし、ここで朝廷を動かす「岩倉具視」(いわくらともみ)や薩摩藩の「大久保利通」(おおくぼとしみち)らが一計を案じます。徳川慶喜の江戸不在を見計らって、勝手に「王政復古の大号令」を発布。これにより、徳川慶喜に対して内大臣の辞任と領地返納を求めたのです。
この不意打ちに旧幕府勢力は激怒。「薩摩・長州を討つべし」の声が一気に高まりました。実際、兵力の面では旧幕府軍が優位に立っていたのです。しかし、徳川慶喜は武力を行使した時点で、敵に武力倒幕の口実を与えてしまうことを危惧。
しばらく静観しますが、幕臣達の怒りはまったく収まりません。そして1868年(慶応4年)の元日、ついに旧幕府軍による京都への進撃が開始されてしまったのでした。
旧幕府軍が総勢約15,000の兵で、鳥羽と伏見の2街道を北上すると、明治新政府側は約5,000の兵力を動員して迎撃態勢を整えました。すると1月3日の午後3時頃、鳥羽街道を進んでいた旧幕府軍が、明治新政府軍と接触。
明治新政府軍が突如として砲撃を開始したことで戦闘の火蓋が切られました。明治新政府軍は兵力的には不利でしたが、装備の面では上でした。双方とも洋式銃を使用していましたが、旧幕府軍は旧式新式混在なのに対し、明治新政府軍は射程距離・命中率とも格段に優れた最新鋭の洋式銃が主力。
これにより総合的な戦力は拮抗し、一進一退の攻防が続きました。戦況が一変したのは、突如、新政府軍に「錦の御旗」が立てられてからです。天皇家の「菊の御紋」があしらわれた軍旗で、古くから官軍が掲げる旗とされていました。
自分達が賊軍になったことを知った旧幕府軍は一気に戦意を喪失。寝返る藩も出てきて総崩れとなり、敗北を喫したのです。実は錦の御旗はそもそも伝説上の軍旗で、誰も見たことがありませんでした。岩倉具視らが創作し、勝手に掲げてしまったのです。
敗退を知った徳川慶喜は、大坂城から海路で江戸城へ逃亡。鳥羽・伏見の戦いは、錦の御旗を駆使して「官軍対賊軍」という図式を成立させた策略により、勝敗が決した戦いでした。
鳥羽・伏見の戦いで戦端を開いた地には、現在「鳥羽伏見戦跡」の石碑が立てられています。この地に布陣していた明治新政府軍の放った一発の砲弾が、戦いの合図になりました。
すぐそばには「鳥羽離宮跡公園」があり、園内の小高い丘の上にも戦闘図や戦いの経緯を刻んだ石碑が設置されています。アクセスはJR京都駅からバスを使うのがスムーズ。約30分でバス停「城南宮」を降り、そこから徒歩約5分です。
鳥羽・伏見の戦いにおいて明治新政府軍が陣を敷いたのは「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)です。
当時は、この地で新選組とも交戦が行われました。境内には「明治維新 伏見の戦跡」と書かれた説明板が立てられており、往時の戦いを今に伝えています。
アクセスは近畿鉄道京都線桃山御陵前駅から徒歩約3分。境内には日本の名水百選に選ばれた「御香水」が湧き、霊水として親しまれています。ペットボトルなどを持参すれば、持ち帰ることも可能です。
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