1550年(天文19年)、甲斐国(現在の山梨県)の戦国武将・武田信玄が、信濃への侵攻に力を入れ始めます。
それまで、父「武田信虎」(たけだのぶとら)が結んでいた武田・諏訪・村上の同盟を武田信玄は破棄。1542年(天文11年)には「諏訪頼重」(すわよりしげ)を滅ぼして信濃諏訪郡を手中に収めます。
その後も連勝を続けながら、信濃侵攻を推し進めますが、1548年(天文17年)に村上義清との間で起こった「上田原の戦い」によって、武田信玄は初めて敗北を喫します。
現在の長野県上田市周辺で行なわれたこの上田原の戦いの結果、武田軍は「板垣信方」(いたがきのぶかた)や「甘利虎泰」(あまりとらやす)といった重臣を失うなど、多くの犠牲者を出しました。
武田信玄は、敗北を喫した上田原の戦いの雪辱を果たしたいという思いと、信濃北部・東部の侵攻に向けて、村上義清の出城である「砥石城」をどうしても攻略する必要がありました。武田信玄は、ついに砥石城の攻略に向けて、大軍を送り込みます。これが砥石城の戦いです。
村上義清が守る砥石城は、武田信玄にとって、最も重要な拠点でした。この城を落とすことができれば、村上氏の本拠地である信濃国埴科郡(現在の長野県埴科郡坂城町)にあった「葛尾城」の背後に回り込むことができるうえ、北信濃攻略への足がかりにもなります。
砥石城は規模こそは大きくありませんが、東西が崖に囲まれた非常に堅固な砦となっていました。攻め入るためには南西の、文字通り「砥石」のような山肌を攻略しなければなりません。何としても勝利したい武田信玄は7,000の兵力を揃えます。対する村上軍の砥石城の守りは、わずかに500ほどでした。
1550年(天文19年)9月9日、武田軍は総攻撃を開始します。武田の足軽部隊が砥石の崖を登りますが、村上軍は石や熱湯を上から落とし、これを撃退。20日間に亘って攻め続けますが、砥石城は陥落しません。9月23日、攻めあぐねている武田信玄のもとに、村上義清が敵対関係にあった「高梨政頼」(たかなしまさより)と和睦を結び、武田方の「寺尾城」を攻めているという報がもたらされます。
武田軍は、すぐさま援軍を送る一方で、撤退についての合議を開きました。武田信玄が何よりも恐れたのは、村上軍の救援隊の到着です。城攻めは膠着状態にあり成果が出ていないうえ、新たな援軍が現われれば挟み撃ちとなるのは必然。何としてもそれだけは避けなければなりません。10月1日に武田軍は退却を開始します。しかし、全軍がまとまって逃走するというのは、非常に難しい技です。
しんがりを務める御跡衆はどのような犠牲があろうとも、主力の部隊を逃がすことを使命とします。記録によると御跡衆は終日戦い、その甲斐あって主力部隊はようやく望月(現在の長野県佐久市旧望月町)まで逃げ切ることができたと言います。自ら2,000の軍を率いて追撃に出た村上義清は、逃げる武田軍を執拗に追い詰め、武田軍は多大な犠牲者を出しました。
武田信玄は諏訪に逃れましたが、約1,000人もの武将を失う大敗でした。一方の村上軍の死者は193名。このことからも武田信玄の完敗であったことは、間違いありません。
砥石城の戦いでの武田信玄の敗因は、攻略が難しい砥石城の造りもありましたが、何より城内に立て籠っていた村上軍の士気の高さだと言われています。村上軍はわずか500人という少数でしたが、その大半は1547年(天文16年)に武田信玄が滅亡させた笠原氏の残党でした。武田軍への激しい憎悪が、村上軍の戦う気力を高めていたのです。
さらに、村上義清の英断と機動力が加わり、最後は武田信玄が影武者を身代わりに逃れるほどの危機をもたらす結果となりました。
戦いの舞台となった「砥石城跡」は、全部で4つの城(本城、砥石城、桝形城[ますがたじょう]、米山城)からなっており、長野県の史跡に指定されています。砥石城は、「戸石城」と表記されることもあります。
アクセス方法は、北陸新幹線「上田駅」で下車したのち、バスまたはタクシーで20分。最寄りのバス停は、「上田バス」の菅平線、真田線、及び傍陽線の「伊勢山」となります。
バス停から砥石城跡の入口までは、徒歩で約450m。入口に着いたら、城跡の概要が説明されている看板がありますので、散策する前に立ち寄って確認しておきましょう。
砥石城跡は、上田盆地の北東側にある「東太郎山」の尾根を利用して築かれており、城跡の東側は「神川」(かんがわ)沿いに切り立つ崖がある一方、西側は急坂が続く斜面で、まさに天然の要塞となっています。
さらに、本城の東南には小さな谷間があり、その両側には「小段郭」が麓まで幾重にも続いています。ここが「登城口」(大手)になります。本城より約120m北側に進むと、桝形城にたどり着きます。
天候が許せば、標高800mからの眺めを楽しみましょう。眼下に広がる上田市真田町方面の景色は、圧巻の美しさです。
また、本城から約140m南側へ進むと砥石城跡に到着します。北側には幅が約9mにおよぶ深い「堀切」(ほりきり:外敵の侵入を防ぐために掘られた空堀)があり、見どころのひとつとなっています。
砥石城跡より南西方向に続く急坂を下ると、「白米城伝説」で知られる「米山城跡」があります。白米城伝説とは、敵からの水止めで水不足に苦しんでいた際、城の中には多くの水があると誤解させるために馬の背中を白米で洗い、敵を諦めさせたという伝説です。
米山城跡へ行く途中には、国土交通省の指定を受けた「関東の富士見100景」があります。美しい富士山の眺望が楽しめる点も魅力です。
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