1565年(永禄8年)、筒井城は松永久秀の奇襲を受けます。弱体化していた筒井氏に抵抗するだけの力はなく、城を捨てて逃亡する他ありませんでした。これが松永氏との最初の「筒井城の戦い」です。筒井順慶は命からがら脱出すると、一族のもとに潜伏。
再び立ち上がる好機をひたすら待つ日々を過ごします。念願の筒井城を得た松永久秀は、同城の経営に心血を注ぎます。筒井城は多聞山城と信貴山城の中間の位置。この3城をしっかり押さえれば、大和国における松永久秀の勢力は盤石でした。
しかし、1566年(永禄9年)、筒井順慶に好機が訪れます。松永久秀が摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)へ出陣したのです。筒井順慶はこの隙をついて、筒井城を急襲。これが2度目の筒井城の戦いです。
城の周りに配置された松永軍の陣所を焼き払うと、一気に筒井城を攻め立てて城内へ突入。見事、城の奪還に成功したのです。ところが、松永久秀もただでは起きません。1568年(永禄11年)、「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じて「織田信長」が上洛すると、松永久秀はすかさず臣従。
その見返りに「手柄は切り取り次第」というお墨付きをもらって大和国の完全制圧に再び乗り出したのです。約20,000もの援軍の約束まで取り付け、万全の状態で3度目の筒井城の戦いへと突入したのです。一方の筒井順慶は、有力な同盟者もなく孤立無援。
松永軍の大軍勢と士気の高さに気圧されて防戦一方の展開になると、筒井順慶はたまらず城を脱出。再び松永久秀が筒井城制圧に成功したのでした。このあと、筒井順慶は雌伏の時を過ごすことになりますが、「明智光秀」(あけちみつひで)の仲介で織田氏に帰属すると、1571年(元亀2年)に筒井城への帰城が叶いました。
筒井城は、1430年(永享2年)頃に「筒井順永」(つついじゅんえい)が家運をかけて築いた城です。中世城郭としては珍しく平地部にあり、東西約500m、南北約400mと比較的規模の大きい城でした。城跡には現在、水田や宅地などが広がっています。
遺構はほとんど残っていませんが、内曲輪と外曲輪の間にあった堀がわずかに見られるほか、「筒井順慶城址」と書かれた石碑がひっそりと立っています。近畿鉄道橿原線筒井駅から徒歩約5分と、アクセスにスムーズです。
筒井順慶のライバル・松永久秀が居城としていたのが多聞山城です。織田信長に先駆けて優美な天守閣が築かれたことでも知られ、この城を訪れたヨーロッパの宣教師が、「こんな美しい建物は見たことがない」と絶賛したと言われています。
現在、城跡には奈良市立若草中学校が広がり、校門付近に石碑が立っています。また、近隣の若草公民館(奈良県奈良市)には多聞山城にまつわる情報を展示。訪れる際は併せて立ち寄るのがおすすめです。アクセスはJR・近畿鉄道奈良駅からバスで約7分。バス停「手貝町」で下車して徒歩約12分で現地に着きます。