1560年(永禄3年)、相模国(現在の神奈川県)を掌握していた後北条氏を打倒するため初めて関東地方へ出兵を行った上杉謙信。
これ以降、後北条氏と上杉氏の間で、関東における勢力争いが激化しました。
関東地方の諸勢力は、上杉謙信が出兵すれば上杉氏の味方に付き、越後国へ帰れば後北条氏に降伏することを繰り返していたのです。
しかし、「臼井城の戦い」を機に関東地方の均衡は崩れ、一気に後北条氏が支配力を高めることになります。それは軍略の天才とうたわれた上杉謙信が、吹けば飛ぶような小城の攻略に失敗したためでした。
1566年(永禄9年)、上杉謙信は後北条陣営についた関東諸国を次々と攻め落とし、下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)へと侵攻します。江戸湾の海上交通を押さえるために船橋(千葉県船橋市)を掌握。
さらには後北条氏の与力だった千葉氏の家臣「原胤貞」(はらたねさだ)が守る臼井城へと軍勢を向けたのです。その数12,000。対する原胤貞はわずか2,000の兵力しかなく、援軍は後北条氏から「松田康郷」(まつだやすさと)率いる150騎のみという有様でした。
兵の数で圧倒していた上杉軍は、すぐに臼井城に総攻撃を仕掛け、残りは堀ひとつを残すのみという状況まで追い詰めました。万策尽きた原胤貞は、ここでたまたま居合わせたという軍師「白井入道浄三」(しらいにゅうどうじょうざん)に指揮権を託します。
全国を旅して兵法を極めたという謎の人物です。すると白井入道浄三は、突拍子もない作戦に出たのでした。なんと、城門をすべて開け放つと、いきなり総攻撃を仕掛けたのです。不意を突かれた上杉軍が浮き足立つと、三段構えで突撃を敢行。
第一陣、第二陣と敵陣深く斬り込んだあと、最後の第三陣では深紅の鎧をまとった松田康郷が鬼神のごとき働きを見せます。刀がボロボロになるまで敵を斬り伏せ、しまいには素手で敵の首をねじ切るという暴れぶりで本陣を急襲。上杉謙信を撤退へと追い込んだのでした。
このあと上杉謙信は敵が勢いに乗って攻めてくると考え、しばらく静観を続けました。ところが白井入道浄三は動きません。しびれを切らした上杉軍が再び攻城を開始すると、今度は城壁に細工し、敵が押し寄せたところで城壁を倒壊させて押しつぶすという荒技に出ます。
これにより上杉軍の先鋒軍が壊滅状態に陥ると、総攻撃を仕掛けて一気に上杉軍を敗北へ追い込んだのでした。上杉軍の死傷者は5,000人にのぼったとされていますが、後北条氏による嘘とも言われています。
上杉家の記録では犠牲者の数は300人程度と記されているためです。とは言え、この戦いを機に関東の諸勢力はことごとく上杉陣営から離反。後北条氏の支配が盤石になったことは確かです。
14世紀頃に築かれ、代々下総国の要衝として一帯を治めていた臼井城。臼井城の戦いが起こった当時は、沼地に囲まれた巨城でした。
廃城は江戸時代初期。現在は「臼井城址公園」として整備され、花見の名所としても有名です。敷地内には空堀や土塁、曲輪(くるわ)などが随所に見られ、城郭の全貌が把握しやすい造りになっています。
本丸からは印旛沼が望める他、一角にある絡手口(からめてぐち)の遺構には石垣も残存。いずれも手つかずの状態に近く、往時の面影に触れることができます。最寄り駅は京成臼井駅。徒歩15分ほどでアクセスできるため、歩き慣れていない方でも気軽に足をのばせます。かつての激闘に思いを馳せながら、のんびり歴史散歩を楽しんでみてはいかがでしょうか。