260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである関東・甲信越地方の「松本藩」(まつもとはん)[長野県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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6万石 | 信濃 (長野県) |
松本城 | 松平[戸田]家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 石川家 | 石川康長 |
8万石 | 外様 |
2. 小笠原家 | 小笠原秀政 |
8万石 | 譜代 |
3. 松平[戸田]家 | 松平康長 |
7万石 | 譜代 |
4. 松平[越前]家 | 松平直政 |
7万石 | 親藩 |
5. 堀田家 | 堀田正盛 |
10万石 | 譜代 |
6. 水野家 | 水野忠清 |
7万石 | 譜代 |
7. 松平[戸田]家 | 松平光慈 |
6万石 | 譜代 |
同じ長野県にありながら「仲が悪い」と言われる長野市と松本市。
明治時代に行なわれた「廃藩置県」においては、もともと別の県であった両者が合併するにあたって、当初県庁は松本に置かれるはずでしたが、火事に遇ったために長野側に変更。
このため、現在になっても「本当の県庁は松本市」との気持ちを抱く松本側の人々は多くいて、このことが不仲の要因のひとつとなっているのです。加えて「松本は立派に城を構えた藩主のいた土地だが、長野は善光寺の門前町に過ぎない」という歴史的経緯からのプライドもあるようです。
戦国時代初期の松本一帯は、清和源氏の流れをくむ小笠原氏が治めていましたが、「武田晴信」(たけだはるのぶ)に敗れて以降は、武田家の支配下となりました。
その武田家も織田信長に敗れ、この際に武田側から離反して戦功を上げた「木曽義昌」(きそよしまさ)がこの地を与えられましたが、「本能寺の変」以降に武田家の残党が蜂起すると、義昌は撤退。以後は、「徳川家康」、「北条氏直」(ほうじょううじなお)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)ら周辺列強が、覇権を争うことになったのです。
豊臣秀吉の「小田原征伐」のあと、1590年(天正18年)には、秀吉の命により「石川数正」(いしかわかずまさ)が松本入りすることになり、この頃に松本城の天守閣が造成されました。数正は、家康が「今川義元」(いまがわよしもと)の人質だった頃から仕えてきた最古参の家臣でしたが、「小牧・長久手の戦い」あとの1585年(天正13年)には、「織田信雄」(おだのぶかつ)と家康の連合軍から秀吉側へ寝返っています。
「関ヶ原の戦い」では、東軍に戻ったことで引き続き松本の領有を許され、松本藩祖となったものの、時を待たずに家中で内紛が勃発。この時、裏で絵図を描いたのはかつての裏切りを根に持ち続けた家康だったと言われています。
そうして数正の長男・康長が2代松本藩主となると、さらに様々な難癖を付けられて結局石川家は改易。康長は流罪に処されました。
そののち、江戸の初期において、松本藩主は目まぐるしく入れ替わります。
ようやく落ち着いたのは1642年(寛永19年)、「大坂冬の陣・夏の陣」で戦功を上げた「水野忠清」(みずのただきよ)が藩主となってからで、6代83年にわたって、その治政は続きました。
しかし、6代「忠恒」(ただつね)は、遊び好きの放蕩者で、さらには江戸城中で、妄想からの刃傷沙汰まで起こしたことにより、所領没収の改易となっています。
そのあとは松平家が9代にわたり明治時代になるまで治めますが、その間には、「本丸御殿の火災」やM7.4とも言われる「善光寺地震」の被害もあり、常に窮乏の中での執政となったのです。
1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」においては、勤王の新政府軍と佐幕の旧幕府軍のどちらに付くか藩中の意見はなかなかまとまりませんでしたが、いよいよ新政府軍が松本入りしようという段になって、ようやく勤王側を選択。そして、恭順の意思を表す意味から3万両を献上した上で、この一員に加わります。
この直前には松本の名主の家に生まれた「近藤茂左衛門」(こんどうもざえもん)と「山本貞一郎」(やまもとていいちろう)の兄弟が上洛して、「尊王攘夷運動」に参加。孝明天皇から水戸藩に下賜された勅書を仲介したことで、近藤は幕府により逮捕されます(山本は自害)。これが幕府の怒りを招き、1858年(安政5年)、「吉田松陰」(よしだしょういん)を始めとする、百名以上が処罰される「安政の大獄」が断行されるきっかけとなったのです。
現在の新潟県糸魚川市にあたる「糸魚川藩」(いといがわはん)。別名では、藩主が居城とした「清崎城」(きよさきじょう)に由来して「清崎藩」とも言われ、廃藩置県後の一時期には清崎県とされていました。
戦国時代の上杉家の支配が終わったあとも、江戸と越後を結ぶ千石街道(ちくにかいどう)と北陸沿岸を通る北陸道が交わる接点の宿場町として栄え、1610年(慶長15年)に越後国「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県)の一部とされると、その地勢的重要さから糸魚川城代が置かれ、高田藩の家老格がこの地を治めたのです。
しかし1681年(延宝9年)、高田藩主の「松平光長」(まつだいらみつなが)が世継ぎを決める上でのお家騒動(越後騒動)を起こした咎で改易されると、1691年(元禄4年)になって日向「延岡藩」(のべおかはん:現在の宮崎県)から外様の「有馬清純」(ありまきよずみ)が5万石で入封。これにより高田藩から独立した形での糸魚川藩が成立しましたが、わずか4年で有馬家は移封となり廃藩となります。
そのため、いったんは幕府直轄の天領とされましたが、1699年(元禄12年)に「本多助芳」(ほんだすけよし)が1万石で入封して藩として復活。1717年(享保2年)には越前「松平家」から「松平直之」(まつだいらなおゆき)が入ることとなりましたが、直之が糸魚川にたどり着くまでには、大変な紆余曲折があったそうです。
直之の曽祖父にあたる越前福井藩主「松平光通」(まつだいらみつみち)は、当時美人と名高かった「国姫」を迎えると、彼女を溺愛しましたが、国姫は寵愛を受けながらも子宝に恵まれませんでした。側室には、嫡男にあたる「直堅」(なおかた)が生まれていましたが、あくまでも国姫との間に生まれた子にあとを継がせたいとの思いから、光通はこれを認知しません。
しかし、そんな光通の思いをプレッシャーに感じて国姫は自害してしまいます。そうなれば当然直堅があとを継ぐべきところですが光通はそれを頑なに許さず、あろうことか自らも国姫のあとを追うと、その遺言として自身の弟である「昌親」(まさちか)を後継に指名しました。
いわば棚から牡丹餅の昌親でしたが、そのとき邪魔になるのは光通嫡子の直堅であり、身の危険を察した直堅は信頼できる家臣を連れて福井を脱出して江戸に潜伏します。江戸では幸いにも4代将軍「家綱」(いえつな)に目通りが叶い、直堅は1万石を与えられ一家を構えることを認められました。そうして、その孫の直之の代になってようやく糸魚川に封地を与えられたのです。
とは言え松平家は、定府大名(じょうふだいみょう)として江戸に居住(小藩ゆえ財政的に参勤交代ができないため)。実質的な統治は、藩主の居城の清崎城とは別に置かれた糸魚川陣屋において、郡代(ぐんだい)が行なっていました。
そののち、糸魚川藩は享保末期から天災が相次いだこともあり財政が著しく悪化。このため増税を行なったことが領民達の怒りを買うと、事態打開のために改革を実施しようとしたものの失敗。これに伴う苛酷な御用金の徴収に対して一揆が頻発する事態に陥りました。
1650年(慶安3年)に、この地で酒造を始めてから今も続く「加賀の井酒造」は、酒処の新潟県でも最古の酒蔵。この酒を献上された「加賀藩」(かがはん:現在の石川県)の「前田利常」(まえだとしつね)がいたく気に入って、加賀ではないのに特例としてその字を使うことを許したことがその屋号の由来です。
2016年(平成28年)の糸魚川市大規模火災によって、酒造を含めた社屋は全焼となりましたが、再建されて2018年(平成30年)より出荷が再開されています。
鎌倉・室町時代から下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を始めとする各地の守護職を務め、戦国時代には関東八家にも数えられた名門・宇都宮家(うつのみやけ)。
「豊臣秀吉」の世になって「太閤検地」(たいこうけんち)で石高を過少申告していたことが発覚したため所領没収のうえ改易となりますが、宇都宮の名はそのまま残って今もなお引き継がれています。
「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)が建立されてからは、宇都宮城が徳川家参拝時の宿泊地とされ、城下も宿場町として大いに栄えました。
また、現在の宇都宮市北西部・大谷町一帯から採掘される大谷石は、軽くて加工しやすい上に耐火性に優れるとして飛鳥時代から古墳などに使用されてきた物です。江戸時代には一般用のかまどなどにまで広く使われるようになり、もともとは農閑期に副業として行なっていた石切を本業とする農民が増加します。
これにより、一時的にはかなり潤ったと言うことですが肝心の農業は衰退してしまい、16世紀末から17世紀に入って天災が相次ぐと藩の財政は逼迫。農民の暮らしも困窮することとなりました。
正式に「宇都宮藩」(うつのみやはん)として成立したのは1601年(慶長6年)、「徳川家康」の娘婿である「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の嫡子、つまりは家康の孫にあたる「奥平家昌」(おくだいらいえまさ)が10万石で入封してからのこと。
しかし、家昌は1614年(慶長19年)に38歳の若さで病没。長男の「忠昌」(ただまさ)が家督を継ぐことになりますが、このときまだ7歳の幼子で、「関東の要衝を任せるには若すぎる」との幕府の意向から下総(しもうさ)「古河藩」(こがはん:現在の千葉県と茨城県)に移封となります。
このあとを継いで藩主となったのは、幕府の重臣「本多正純」(ほんだまさずみ)でしたが、宇都宮城に釣天井を仕掛けて2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の暗殺を謀ったとの嫌疑から本多家は改易、正純は流罪となりました(通称:宇都宮城釣天井事件。実際にそうした事実はなく、他の徳川家臣による策謀であったと言われています)。
そののち、奥平忠昌が再封しますが、その死後には、かの「赤穂浪士」も参考にしたと言われる事件「浄瑠璃坂の仇討」が勃発。
1668年4月13日(寛文8年3月2日)、忠昌の法要において、ささいなことから口論になった「奥平内蔵允」(おくだいらくらのじょう)と「奥平隼人」(おくだいらはやと)。内蔵允は、怒りに任せて抜刀したが返り討ちの刀傷を負います。この失態を恥じた内蔵允は、その夜のうちに切腹してしまいました。
その半年後、この件に対する藩からの処分が下されます。内蔵允の嫡子「源八」(げんぱち)は、家禄没収の上に藩から追放。しかし、もう一方の当事者である隼人は単に改易を命じられただけと言う不公平なものでした。
源八への同情が集まり仇討の機運が高まると、これを助太刀するために脱藩する者も現れて40名以上が参集。浪士達はまず隼人の実弟を討ち取ると、本命である隼人討伐に向けての作戦計画が練られることとなります。
そうしてことの発端から4年が過ぎた1672年(寛文12年2月3日)の未明、源八とその一党42名はついに隼人の潜む江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の屋敷へ討ち入り、悲願を果たしたのでした。
源八ら一党は、直後に幕府へ出頭して裁きを委ねると(赤穂浪士が討ち入り後に出頭したのもこれに倣ったものと言われます)、その殊勝な態度に感銘を受けた大老「井伊直澄」(いいなおすみ)は切腹ではなく伊豆大島への流罪を申し渡したのです。
なお源八はその6年後、恩赦によって赦免されて「彦根藩」(ひこねはん:現在の滋賀県)の「井伊家」(いいけ)に召し抱えられています。
現在の埼玉県行田市に在した「忍藩」(おしはん)。戦国時代には、後北条氏と上杉氏の係争地となり、代々この地を治めてきた地元豪族の成田氏は両家の間を揺れ動くこととなります。
成田氏の拠点となった「忍城」(おしじょう)は要衝として整備がなされ、周辺の低湿地帯を堀とした堅城となりました。
1569年(永禄12年)、正式に後北条氏に属した成田氏。1590年(天正18年)の「小田原征伐」の際には、小説「のぼうの城」で広く知られることになったように「石田三成」(いしだみつなり)率いる豊臣軍の水攻めを受けながらも落城することなく耐え切ってみせたのです。
しかし、小田原落城から後北条氏が滅亡すると、これに連座して成田氏も没落。忍城は開城され、徳川家康の四男である「松平忠吉」(まつだいらただよし)が忍藩10万石を与えられました。
当時11歳の忠吉に代わって政務を行なった「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、まず豊臣軍の水攻めによって荒廃した忍城と城下町を修築し、領内の検地を実施。
1592年(文禄元年)に、家忠が下総国上代に移ると、忠吉の家老「小笠原吉次」(おがさわらよしつぐ)は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕をふるっています。
そののち「関ヶ原の戦い」で忠吉が武功を挙げたことから「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県西部)52万石に加増移封されたことでいったん忍藩は廃され、幕府直轄の天領とされました。
1633年(寛永10年)には「知恵伊豆」こと「松平信綱」(まつだいらのぶつな)が3万石で入って忍藩は再興されましたが、これも「島原の乱」鎮圧の功績から「武蔵川越藩」(むさしかわごえはん:現在の埼玉県川越市)6万石に加増移封されます。
これに代わって入封したのは3代将軍「家光」の下で老中にまで昇進した「阿部忠秋」(あべただあき)で、そのあとも歴代藩主となった阿部氏が老中に昇進したことから、忍藩は「老中の藩」とも称されました。
しかし、18世紀半ば以降は相次ぐ洪水や1783年(天明3年)の浅間山噴火とそれに伴う大飢饉の被害を受けて藩政は不安定化。阿部氏9代目となる「正権」(まさのり)は「陸奥国白河藩」(むつのくにしらかわはん:現在の福島県)に転封されます。
代わって入封したのは「伊勢国桑名藩」(いせのくにくわなはん:現在の三重県)の「松平忠尭」(まつだいらただたか:戦国時代、三河の奥平家を始祖とする奥平松平氏)で、以後明治の時代になるまで松平氏の治政が続くことになりました。
幕末、松平家3代藩主の「松平忠国」(まつだいらただくに)は幕府から異国船の警備を任じられます。1853年(嘉永6年)にペリーが来航し、幕府が品川砲台(現在のお台場)を完成させると、忍藩はその第三台場(現在の台場公園のあたり)の警護を担当。
相次ぐ幕府からの要請によって忍藩の財政は逼迫し、「安政の大地震」と大洪水で領内が大被害を受けると出費はさらに重なりました。この頃の忍藩の借金総額は76万両と言われ、幕府の年間予算が約160万両であったことと比べても、これがいかに途方も無い物だったかが分かります。
「第二次長州征伐」の際には、幕府軍の殿(しんがり)まで任されたほどの忍藩でありながら、「大政奉還」後の「戊辰戦争」に際して新政府側に与することに決めた要因のひとつには、前述のような幕府の過剰なまでの要求に嫌気がさした部分があったと言うことです。
江戸で敗れた旧幕府軍約850名が逃げ込んできて、忍城を拠点として籠城戦を挑もうと勝手なふるまいをした際には、わずかな軍資金と草鞋を与えて立ち退かせたりもしています。
平安時代の末期から、当地の豪族が拠点としてきた小田原。後北条氏が関東一円を支配した際にも、この地を本拠とし、「上杉謙信」や「武田信玄」の侵攻を退けた「小田原城」は、「難攻不落の城」とも称されました。
豊臣秀吉の「小田原攻め」に備えては、総延長9㎞にも及ぶ日本屈指の長大な土塁と空堀りの総構えを築き、城下一帯をぐるりと取り囲みます。これにはさすがの秀吉も正面突破とはいきません。総勢20万を越えるとも伝わる大勢力で取り囲み、3ヵ月に及ぶ持久戦の末に、無血開城に追い込んだのです。
なお、このとき後北条側では「籠城するか討って出るか」の会議が開かれたものの、意見がまとまることはなく、これにちなんで「結論の出ない会議」のことを「小田原評定」と言うようになりました。
そののち、小田原には秀吉からの名指しもあって、徳川家康の家臣「大久保忠世」(おおくぼただよ)が入り、その嫡男である「忠隣」(ただちか)の代になって、小田原藩が立藩されます。
しかし忠隣は、江戸時代になって改易。理由は豊臣方との近しさや、日頃のふるまいが不興を買ったため、あるいは陰謀によるものと様々に言われています。そのあと幕領とされるのに伴って、小田原城は城下町を取り囲む外郭を取り壊されて、その規模を大幅に縮小することとなりました。
2代将軍の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が、小田原に隠居して大御所政治を行なうプランもありましたが、これは秀忠の健康悪化のため果たせませんでした。それ以降の小田原は、幕府の重臣に対する言わば褒賞としての扱いとなります。
そうして領主が様々に代る中、幕末になって「大久保忠朝」(おおくぼただとも)が先祖・忠隣以来の一族の念願だった小田原再入を果たすのです。
しかし、時代は変わっても、東西それぞれにとって、箱根の関所を押さえる要衝であることに変わりはなく、維新の頃になると、大久保家は幕府と新政府のそれぞれからの圧力を受けることになります。
大久保家としては、先祖伝来のこの地を手放さないことこそが最大の命題であり、一度は幕府側の遊撃隊撃退に乗り出しながら、その遊撃隊と同盟を結んで新政府軍への対抗姿勢を見せるなど、藩の方針は揺れ動くのです。
明治時代になると、幕府側についたことへの処分を受け、藩主だった「大久保忠礼」(おおくぼただのり)は永蟄居(えいちっきょ)となりますが、その一方で、家名の存続が許され、小田原城もそのまま新政府に預け置かれたのは、前述のような大久保家の事情を鑑みてのことでした。
事実上、最後の小田原藩主となったのは宗家を相続した「大久保忠良」(おおくぼただよし)です。しかし、政府からの俸禄は江戸時代の頃と比べて、10分1にも満たない2千300石に過ぎませんでした。そんな中、忠良は東京に移住して、家督を養父に譲り陸軍に入隊。「西南戦争」の激戦地に出征して、戦死を遂げることとなったのです。
ちなみに現在も姿を残す小田原城は、昭和35年(1960年)に復興された物。その原型は、後北条氏時代の居館部分を改修する形で、江戸時代に築かれています(実際に後北条氏が詰めていた城は、現在の天守の後方、八幡山にありました)。その天守や櫓、城壁は、「寛永、元禄の大地震」や「関東大震災」において度々倒壊してきましたが、現在では江戸末期の姿に完全復元する計画も持ち上がっています。
江戸城の築城で知られる室町時代後期の武将「太田道灌」(おおたどうかん)が、江戸城と同時期に、相模守護「上杉持朝」(うえすぎもちとも)の命により、古河公方(こがくぼう:下総国古河[しもうさのくに・こが:現在の茨城県古河市]を根拠地とした、足利成氏[あしかがしげうじ]とその子孫の呼び名)に対抗すべく築いたのが「川越(河越)城」でした。道灌が築城祝いの宴を開いた際に、初雁(はつかり)が飛来したことに由来して、別名「初雁城」とも呼ばれています。
戦国時代には、後北条氏の居城となりますが、1590年(天正18年)の小田原征伐では、「前田利家」(まえだとしいえ)の軍勢がこれを制圧しました。
徳川家康の関東移封に伴い、家康最古参の家臣である「酒井重忠」(さかいしげただ)が1万石で入封し、川越藩が成立。武蔵国の中央に位置した川越は、古来、軍事上の要所であったことから、そのあとも大老、老中など、幕政の重職についた有力譜代大名や親藩が入封したのです。城下町は、川越街道や新河岸川により、江戸と結ばれて発展し、「小江戸」(こえど)とも称されています。
18世紀の中頃に藩主を務めた「秋元涼朝」(あきもとすけとも)が、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)との政争に敗れて山形へ転封となると、1767年(明和4年)には、「前橋藩」(まえばしはん:現在の群馬県)に編入される形で、一時川越藩は消滅。しかし、前橋藩主の「松平朝矩」(まつだいらとものり)が居城を川越に移したことで、川越藩の復活となりました。
武蔵国最大の石高17万石となったのもこの時期で、農業だけでなく、絹織物や養魚などの産業も盛んに行なわれています。
その豊かさ故に幕末になると、浦賀など相模湾の防衛を幕府より任じられることになったのです。1837年(天保8年)、のちに「モリソン号事件」と呼ばれた、浦賀沖に現れたアメリカの商船を砲撃したのも、川越藩でした。
1847年(弘化4年)、幕府は、江戸湾防衛を川越藩、彦根藩、「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)、忍藩の有力4藩に負わせることを決定。川越藩の分担区域は、三浦半島一帯とその海上とされました。
1853年(嘉永6年)に、ペリーが来航した久里浜(くりはま)も川越藩兵の担当地域で、ときの藩主「松平典則」(まつだいらつねのり)は、ペリーの上陸に同行しています。
1854年(嘉永7年)、2度目のペリー来航に際しても、品川台場において、江戸湾防衛を会津藩・忍藩と共に担い、川越藩は、高輪(たかなわ)に陣屋を構えて、第1台場を受け持ったのです。
このとき、藩の鋳物を請け負っていた「小川五郎右衛門」(おがわごろうえもん)に、長射程のカノン砲を鋳造させて設置。藩内に鉄砲射撃場も造営して、西洋砲術の訓練を行ないました。それ以外にも、川越藩では、剣術の「神道無念流」(しんどうむねんりゅう)を重用し、他流試合を積極的に行なうなど、幕末の動乱を予見した軍事強化に余念が無かったと言われています。
また、川越藩は、開国をめぐる世界情勢にも通じていました。川越藩領となっていた前橋の主力産品である生糸の品質向上と増産を図り、藩の専売品として、横浜の港から輸出したのです。これにより、莫大な利益を得たとも伝えられています。
その一方で、川越藩が江戸湾防衛に移ったあとは、「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)が、三浦半島の防衛を引き継ぐ手はずでした。しかし、その準備が遅れたために川越藩は、三浦半島と品川の双方に、延べ6万人もの藩兵を配置することになり、こうした出費が、藩政を圧迫することとなりました。
これに対する反発もあり、1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争に際しては、藩主の「松平康英」(まつだいらやすひで)が新政府に帰順することで藩論をまとめています。そして、川越城の堀を埋めるなど、官軍にひたすら恭順の姿勢を見せて戦火を回避。また、戊辰戦争における局地戦のひとつとなった「上野戦争」(うえのせんそう)においては、敗走する彰義隊(しょうぎたい)の分派を掃討(そうとう)しました。
古河藩(こがはん:現在の茨城県)が最も領地を広げたのは、17世紀中ごろの「土井利勝」(どいとしかつ)が藩主の時代で16万石。
下総国(しもうさのくに:現在の茨城県古河市)に藩庁を置き、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)や武蔵国(むさしのくに:現在の埼玉県)の一部、さらには神戸、大阪、岡山の飛び地までが、その施政範囲とされました。
古くは「許我」(こが)と表記され、奈良時代にはすでに、渡良瀬川の渡し場として栄えていたようで、「万葉集」にも当時の情景が二首詠まれています。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、「源頼朝」の近臣である「下河辺行平」(しもこうべゆきひら)により、「古河城」が築城されました。室町時代の中期には、幕府に反旗を翻した関東足利氏がこれを居城として「古河公方」(こがくぼう)とも称されることになったのです。
古河公方は関東を二分して室町幕府との戦を繰り広げ、幕府による一元的な支配体制を崩す端緒となりました。そのため、これが関東における戦国時代の幕開けであったとも言われているのです。
古河の地が関東支配の拠点とされたのは、まず関東平野の中心部に在したこと、さらには渡良瀬・利根川水系を臨む水上交通の基幹であったこと。この2つの地の利によるところが大きいとされています。
足利衰退のあとには、「後北条氏」が領有していましたが、「豊臣秀吉」の「小田原征伐」でこれが滅びると、関東に国替えとなった「徳川家康」は、前述の地の利から古河を重要視して、嫡男「松平信康」の娘婿にあたる「小笠原秀政」(おがさわらひでまさ)をこの領主としました。秀政は、長きにわたる戦乱によって荒廃していた古河城を修復・拡張。江戸時代に入ってからは、日光街道の主要な宿場町として、繁栄することになります。
家康が神として祀られる「日光東照宮」まで歴代将軍が参詣する際の通り道となったこともあり、幕府からは最重要の藩のひとつと目されて、小笠原氏以降の歴代藩主にも幕府の功労者や縁戚があてられることになったのです。
先述の6代藩主「土井利勝」(どいとしかつ)は、家康の落胤(らくいん:身分の低い女性に産ませた子)との噂もあった人物で、古河城に天守閣を増築したことなどから「小家康」とも呼ばれていました。
当時は「天守=将軍を指す」言葉であったため、あくまでも天守閣ではなく「櫓」(やぐら)と言ってはいましたが、江戸城の天守閣が、1657年(明暦3年)の「明暦の大火」に焼失して以降再建されず、また城の増改築には極めて厳しい目が向けられていた中で、これを築いた土井氏がどれほどの権勢を誇っていたかが窺えます。
土井家4代目の早世により、本来ならば世継ぎ不在でお家断絶となるところでしたが、利家の功績を理由に、分家の「土井利益」(とします)を養子縁組することで、お家存続を許されました。もっともその利益は、家臣の大量解雇などの「悪政」の懲罰として、伊勢鳥羽へと転封されることになるのですが……。
土井家が古河に復帰するのは、それから80年余りあとの江戸中期のことで、以後7代にわたり、幕末まで藩主として定着しました。
明治時代に入ると、古河城は廃城令によりまず建物が壊されます。さらに渡良瀬川の治水事業が行なわれるにあたっては、この一帯が開発対象とされ、石垣からお堀の跡まで徹底的に取り潰されてしまうのです。
なお、これら工事は、「足尾銅山鉱毒事件」における公害被害の拡大を防ぐために、行なわれたとも言われています。
現代も千葉県佐倉市として、その名を残す「佐倉藩」(さくらはん)。現在の千葉県北部から茨城県西部の一帯にあたる同藩は、江戸の東側を守る要衝として徳川一族や譜代大名が代々治めてきました。世間では「老中の城」とも呼ばれ、城下も大いに栄えたと伝えられています。
ただし、いったん幕府内で失脚するとそのたびに佐倉藩主も入れ替わることになり、結果江戸時代のうちに12回ものお家代わりがありました。
室町時代後期に「古河公方」(こがくぼう)と組んだ「千葉輔胤」(ちばすけたね)がこの地を平定すると、以後9代にわたり「印旛浦」(いんばうら:現在の印旛沼)に面した「本佐倉城」(もとさくらじょう)を千葉氏宗家の本拠とします。
戦国時代の末期になると本佐倉城は、関東一帯に君臨した北条氏により相模国「小田原城」の支城とされ、武蔵国「江戸城」に隠居していた「北条氏政」(ほうじょううじまさ)がこれを支配しました。
「徳川家康」が関東に入国すると本佐倉城は破却されましたが、土塁や空堀などは現在までほぼ完全な形で残っており、近年には千葉県の城郭で唯一「本佐倉城跡」として国の史跡に指定。
春には桜の名所として、またゴールデンウィークの前後には菖蒲まつりの舞台としても、多くの市民から親しまれています。
1593年(文禄2年)には、家康の5男にあたる「武田信吉」(たけだのぶよし)が4万石で入封し、これが佐倉藩の始まりとなりました。
1610年(慶長15年)には、老中の「土井利勝」(どいとしかつ)が3万2,000石で入りましたが、幕府での貢献から加増が重ねられ、最大時には14万2,000石にまで至ります。
藩主の入れ替わりこそは激しかったのですが、太平の世に東から江戸を攻めようと言う者もおらず、またいずれの領主も幕府の有力者ぞろいで俸禄に窮することもなかったため、藩政自体は順調そのものでした。
幕末に藩主を務めた「堀田正睦」(ほったまさよし)は蘭学を重んじ、「江戸薬研堀」(えどやげんぼり)で私塾を開いていた医師の「佐藤泰然」(さとうたいぜん)を招聘して佐倉城下に医学塾「順天堂」を開設。これが今も続く「順天堂大学」の始まりです。
ところが、黒船の来航によりそんな状況も一変します。外国事務取扱の老中となった正睦は「日米修好通商条約」締結に向けて奔走し、アメリカ総領事の「タウンゼント・ハリス」との直接交渉で、幕府主導による開国貿易の実施を画策。上洛して条約調印の勅許(ちょっきょ)を得ようとしましたが、攘夷(じょうい)論者だった「孝明天皇」(こうめいてんのう)はこれを却下してしまいました。
そうした動きが大老「井伊直弼」(いいなおすけ)の不興を買い、正睦は老中職から罷免され蟄居の処分を下されます。
正睦のあとを継いだ「堀田正倫」(ほったまさとも)も、「鳥羽・伏見の戦い」ののちに上洛して徳川宗家の存続と「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の助命を嘆願しますが、新政府から拒絶されただけでなく京都に軟禁状態にされました。
藩主不在となった佐倉藩は幕府側の立場にあったため、薩長新政府によりお家断絶の沙汰が下される可能性もあったのですが、家老の「平野縫殿」(ひらのぬい)が新政府軍の要請に従い、鳥羽・伏見の戦いの戦犯とされた幕府方の「大多喜藩」(おおたきはん:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)征伐に出兵したことで、最悪の事態は免れることとなります。
1871年(明治4年)の「廃藩置県」で佐倉県とされ、そののちに印旛県を経て千葉県に編入。また、明治初期には旧佐倉城内に「陸軍歩兵連隊」が設置され、軍都として栄えた時期もありました。
「大坂の役」において「堀直之」(ほりなおゆき)は、兄「直寄」(なおより)の先鋒を務めると、「道明寺の戦い」では敵方の「薄田兼相」(すすきだかねすけ:住吉神社に伝わる[ヒヒ退治]で有名な岩見重太郎[いわみじゅうたろう]と同一人物とされる猛将)を見事討ち取ってみせます(薄田を討った人物については[伊達政宗]配下の[片倉小十郎]などの異説も)。
続く「天王寺の戦い」では、いったん徳川方が敗勢となったものの、この殿(しんがり)を務めた直之の奮闘により盛り返し、徳川軍に勝利をもたらすことにもなりました。
これら数々の働きが認められ1616年(元和2年)、直之は「越後国沼垂郡」(えちごのくにぬたりのこおり:現在の新潟県)に5,500石を与えられます。直之の跡を継いだ「直景」(なおかげ)の代には、関東で1万石を与えられて大名家に。
そうして1698年(元禄11年)、直之から数えて4代目となる「堀直宥」(ほりなおさだ)が関東と越後の領地をまとめる形で越後の沼垂・三島・蒲原(かんばら)三郡内にかけて1万石を与えられ、椎谷(しいや)の地に陣屋を置いて居住して初代藩主となったのが「椎谷藩」(しいやはん:現在の新潟県)の始まりです。
1715年(正徳5年)に、この跡を継いで2代藩主となった「直央」(なおひで/なおひさ)は、城下町を整備するなど藩政の基礎を固め、椎谷城下は北陸街道の宿場町として栄えることになります。
しかし、8代藩主「堀著朝」(ほりあきとも)の頃になると財政が逼迫。このため領民に厳しい御用金や米の納付などを命じました。著朝は病弱であったために実際の政務は分家の「堀直基」(ほりなおもと)が代行していたのですが、その直基は「天明の大飢饉」が起こった際に、それに伴う米価の高騰を当て込んで蔵米を競争入札にかけてしまいます。
今の感覚からすると、窮乏する藩の財政状況を考えればまったく正しい経済活動と言えますが、これに領民達が激怒。「皆が食うや食わずで我慢しているにもかかわらず、藩主の名を借りて大事な貯蔵米を売り飛ばすとは何事だ」と言う訳です。
やったことは「長岡藩」(ながおかはん:現在の新潟県)が後進の教育のために義捐米(ぎえんまい)を売り飛ばした「米百俵」のエピソードと大差ありませんが、長岡藩のそれが美談として後世にまで伝わったのとは裏腹に、椎谷藩ではこれをきっかけに農民達が騒動を起こし、以後数年にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返される「天明義民事件」にまで発展します。
結局この騒動に収まりがつかなくなると幕府の裁定を仰ぐにことになり、幕府は5回に及ぶ評定の結果、1792年(寛政4年)に、藩主・著朝の隠居を命じ、後継には著朝の養子に入る形で「三河西尾藩」(みかわにしおはん:現在の愛知県)藩主「松平乗祐」(まつだいらのりすけ)の7男「堀直起」(ほりなおのり)が擁立されました。
しかし、そのあとも1851年(嘉永4年)に、12代藩主「堀之敏」(ほりゆきとし)の暗殺未遂事件が起きるなど藩政は不安定な状態が続き、13代藩主「堀之美」(ほりゆきよし)のときには新政府軍に恭順の意を示して米と金を供出しながらも、渡した先が管轄外であったとして二重取りされると言う一種の詐欺まがいにも遇っています。
さらに「戊辰戦争」から派生した「北越戦争」においては、両軍の交わるまさに戦地とされて、その領地は甚大な被害を受けることとなりました。戦火により荒れ果てた領地の復興資金として明治新政府に2万両の借金を申込んだものの、これも断られたと言いますから、椎谷藩にとっては実に散々な幕末維新であった訳です。
宍戸藩が領地としていたのは、現在の茨城県笠間市平町のあたり。以前は西茨城郡宍戸町と言う町名があり、宍戸藩の領地でしたが、吸収合併により笠間市に併合。
江戸時代には笠間と宍戸は別の藩であったことから、今も一部住民には「笠間と宍戸は別」との意識があると言われています。
鎌倉時代、「源頼朝」の命により常陸国の守護職を務めた「八田知家」(はったともいえ)。その4男の家政が宍戸姓を名乗り、「宍戸城」を築いたのが始まりで、そののち、この辺りの一大勢力だった佐竹氏の傘下となりましたが、宍戸の名前だけは残されました。
その佐竹氏は、「関ヶ原の戦い」に参戦せず中立の立場を取ると、もとより「徳川家康」との折り合いが悪かったこともあって、1602年(慶長7年)に出羽秋田へ移封。これに代わって、「出羽国」の「秋田実季」(あきたさねすえ)が宍戸5万石を与えられたことで、宍戸藩は誕生しました。
もっとも、この実季も、関ヶ原の戦いの際には、徳川家についたと見せかけながら、実は裏で上杉家と通じていたと言われ、そのため宍戸に「飛ばされた」とする説もあります。事実、1630年(寛永7年)には、内政失敗を理由に、実季は幕府から強制的に藩主の座から下されています。
それでも、そのあとを継いだ嫡子の「秋田俊季」(あきたとしすえ)は、幕府に忠誠を尽くし、1645年(正保2年)には、陸奥国三春藩へ宍戸と同じ5万石で移封。それまでの三春藩は3万石で、そこから加増されたところを見ると、いわゆる「栄転」であったと言われています。これに伴い宍戸藩は廃藩となり、以後40年近くの間は幕府と水戸藩の領地とされていました。
1682年(天和2年)になると、水戸徳川家初代「徳川頼房」(とくがわよりふさ)の7男にあたる「松平頼雄」(まつだいらよりかつ)が、兄の「徳川光圀」(とくがわみつくに)から1万石を与えられる形で宍戸に陣屋を構え、宍戸藩は復活します。つまりは水戸の分家における新屋のようなもので、「水戸組傘下の宍戸組」といった形でした。
この時期同様に、徳川頼房の子ども達が送り込まれた藩としては、長男頼重の「讃岐高松」、4男頼元の「陸奥守山」、5男頼隆の「常陸府中」がありました(宗家の水戸藩は3男の光圀が相続しています)。
なお、宍戸藩においては、陣屋こそ宍戸に構えられていましたが、藩主は江戸に居続けの定府(参勤交代を行なわず、江戸に定住する将軍や藩主、及びそれに仕える者のこと)であり、家臣も水戸藩からの出向で、国元の家臣も、水戸城外に役所を構えて執務していたと言うことから、水戸藩が看板を替えただけの子会社のようなものでした。
それが証拠に、8代藩主となった頼位は、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の指導の下に軍事改革など藩政改革を行なっているのです。
1864年(元治元年)に「筑波山」で、水戸藩士が中心となって挙兵した「天狗党の乱」(てんぐとうのらん)においては、9代藩主の頼徳が幕命により、鎮圧に当たりましたが失敗に終わります。
最大時には1,500人近くもの大集団となっていた「天狗党」に対し、水戸傀儡(みとかいらい:水戸藩の手先となって操られていること)の小藩が敵う訳がなく、そもそも敵も味方もその多くが身内同然の水戸藩の人間なのですから、いくら幕府に言われたところで、本気の戦ができる訳はなかったのです。
結局、天狗党の乱は、「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)率いる幕府軍が制圧することになりましたが、宍戸藩の天狗党に対する同情的な在り方は、幕府からの追及を受けることになり、頼徳は切腹を命じられ、宍戸藩も改易されてしまいました。
現在の茨城県かすみがうら市周辺に存在した小藩で、代々の藩主を務めた本堂家は「源頼朝」の落胤(らくいん:身分・地位のある男性が正妻でない女性に密かに産ませた子ども)を称していました。
もともとこのあたりを治めていた常陸国主の佐竹氏が、1602年(慶長7年)に減転封されたのと入れ替わって、秋田県南部を本拠としていた「本堂茂親」(ほんどうしげちか)が、小田原城攻めでの軍功により志筑8,500石を与えられたのが始まりです。
石高1万に満たないため、正式には大名ではなく、旗本の身分でしたが、幕府からは大名と同列に参勤交代などが義務付けられていました。そのため、財政は厳しく1773年(安永2年)には百姓一揆が起きたりもしましたが、トータルでみれば、善政が敷かれていたと言われています。
江戸時代を通してひとつの家系の支配が続いた数少ない地域でもあり、今でも「志筑小学校」の校章には本堂家の家紋が使用され、また「志筑八幡神社」にも、本堂氏が戦場で使用した采配が奉納されるなど、当家が広く民衆から慕われていた名残が散見されます。
「戊辰戦争」においては、この周辺の諸藩が傍観を決め込んだり、会津と組んで反新政府の姿勢を見せたりする中にあって、志筑藩はいち早く新政府軍に協力しています。その功績が認められ、明治維新になると1万110石にまで加増され、ようやく本堂家は大名に昇格することとなりました。
つまり、厳密な意味で志筑が藩として成立したのは、維新後から廃藩置県で「志筑県」とされるまでのわずかな期間だけであったとも言えるのです。そののち、志筑県は周辺諸県と合併して茨城県に。
志筑藩の出身者としては、幕末に新選組隊士として活躍した「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)と「鈴木三樹三郎」(すずきみきさぶろう:三木三郎とも)の兄弟が知られています。苗字が違うのは、甲子太郎が「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の師匠である「伊東精一」の遺志に従い、その娘を妻にして伊東家を継いだため。
その知見の広さや弁舌の巧みさから、「新選組」では参謀まで任じられた伊東ですが、攘夷佐幕派の新選組にあって、攘夷と言う点では一致しながらも、徐々に勤王討幕思想へとシフト。そのため伊東は1867年(慶応3年)に、弟・三樹三郎ら14人を率いて新選組を離脱。表立っての理由は「孝明天皇の御陵守護の任を得たため、これを拠点に薩長の動向を探る」というものでした。
この時期に伊東は、朝廷に宛てて4通の建白書を提出。その内容は公家を中心にした挙国一致の新政府を提案する「坂本龍馬」とも近い考えのものであり、日本を鎖国から開放することにも、基本賛成の立場であったと言われています。
そうした伊東の行動を裏切りと断じた新選組隊長の「近藤勇」は、己の妾宅に伊東を呼び出し、酔わせた上で新選組の隊員数名によって暗殺させました。兄の死を知った三樹三郎が同志らと共に遺体収容に向かうと、これを阻止する新選組との乱闘が勃発。この窮地を「薩摩藩」に救われ保護されています。
これ以降の三樹三郎は、薩摩藩の下に付き、東征軍の先鋒として新選組を始めとする幕府軍を相手に数々の戦功を収めました。明治以降は、主に警察関係の仕事に従事すると、退官後は故郷の志筑にほど近い茨城県石岡町(現在の石岡市)にて余生を送ったと言われています。
越後国(えちごのくに:新潟県)を領有してきた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、豊臣秀吉の命により会津へ移ったのは、1598年(慶長3年)のこと。
それに替わって同地には、高田(福嶋)、坂戸、村上、新発田に分割して、豊臣方の重臣が配されました。
新発田の地を与えられたのは、「溝口秀勝」(みぞぐちひでかつ)です。織田信長に才能を見出され、「本能寺の変」以降は秀吉の配下となり、1586年(天正14年)には豊臣姓を下賜。
秀勝は、「関ヶ原の戦い」には参戦しませんでしたが、同時期に越後一帯で発生した、上杉旧臣らによる一揆の鎮圧に尽力。
これは、言わば己の身に降りかかった火の粉を払ったものでしたが、それでも徳川方に反発していた上杉家が裏で糸を引いた一揆勢力を征伐したことは、徳川方の東軍に味方する行為とみなされ、この軍功により6万石を与えられて、正式に新発田藩(しばたはん:現在の新潟県新発田市)が成立しました。
当時の領地は、現在の新発田市のみならず越後平野一帯に及ぶ広大なもの。しかし、当時の名を蒲原平野と言ったように、このあたりは水草の生い茂る低湿地帯で農地には適していませんでした。それを干拓や治水工事により、日本を代表する穀倉地帯にまで開拓したのは正しく、新発田藩の功績だったのです。
新発田には代々勤王の伝統があり、「王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓であり、勝敗は問うところではない」との考えは、広く領民にまで浸透していました。
「大政奉還」後、朝廷から10万石以上の諸大名に対して「列侯会議」(れっこうかいぎ)を開くために上洛の勅命が出された際にも、新発田藩は他藩に先駆けてこれに応じ、幼君・直正の名代として江戸詰の家老を派遣。
「戊辰戦争」においても尊王を掲げる新政府寄りの立場を取ろうとしましたが、周辺諸藩がいずれも旧幕府寄りだったことから、その圧力に抗しきれず、やむなく薩長に対抗するために結成された「奥羽越列藩同盟」に加盟することとなったのです。
同盟側は新発田藩の参加を確実なものにしようとして、当時の藩主「溝口直正」(みぞぐちなおまさ)を人質に取ろうと謀りましたが、新発田藩の領民達からの強い抵抗によって、阻止。
いよいよ戦火が迫ると、結局新発田藩は、元々の方針に帰って新政府軍に合流し、参戦を決断します。新発田藩の内応によって、新政府軍の海上部隊は佐渡から急襲。奥羽越列藩同盟は、壊滅的打撃を受けて敗退します。
その一方で、新発田の地は戦火の被害から守られることとなりました。同じ越後の長岡藩では、多くの民が戦火で家を失うことに。田畑を荒らされたことと比べれば、新発田藩のこの選択は正しかったとも言えるのです。
しかし、当時としては裏切りには違いなく、「新発田は裏切り者」との悪感情は、今もなお、新潟県民の中に残っているとも言われます。新発田の人々もそうした誹りを受け続けてきたせいか、どこか排他的で他の市区町村に対して非協力的だとする声もあるのです。
第二次大戦においては、やはり裏切り者のイメージがあったため、新発田連隊は取り分け過酷な戦地へ送られたとする評もありました。
ともあれ溝口氏は、豊臣家臣~外様大名と、常に反主流の立場にありながら、その巧みな舵取りによって、明治時代に至るまで取り潰しに合うこともなく、12代にわたって新発田の地を統治し続けたのです。
千葉県木更津市請西(じょうざい)において、江戸時代末期に成立した請西藩。
初代藩主となる「林忠英」(はやしただふさ)は、松平(三河)家の譜代として、代々番方(ばんかた:将軍や主君の身辺の護衛などを担当した、江戸幕府における武官系の職制区分)を務めてきた旗本の家柄でした。
しかし、1787(天明7年)に、「徳川家斉」(とくがわいえなり)が11代将軍に就任すると、その小姓として仕え、寵愛を受けることになったのです。
家斉は、幕政にもお構いなしに夜な夜な大奥へ入り浸り、浴びるほどに酒を呑んだことから「俗物」と揶揄されましたが、それでも将軍の威光は絶大。忠英は、家督を相続すると、栄進や加増を重ねて、1822年(文政5年)には、それまでの3,000石の旗本から7,000石に。1825年(文政8年)、若年寄に昇進すると、さらに3,000石の加増を受けて計1万石となりました。そして、ついに大名に列するまでに至ったのです。
こうして、望陀郡貝淵村(もうだぐんかいふちむら:現在の木更津市貝淵)に陣屋を構えて、請西藩の前身となる貝淵藩が誕生すると、そのあともなにかに付けて加増を受け、最大1万8,000石までの加増となりました。
しかし、家斉が1841年(天保12年)1月に死去すると、4月には12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)と老中「水野忠邦」(みずのただくに)からの粛清を受けて、8,000石を没収されたうえ、忠英は若年寄を罷免されてしまいます。さらに同年7月には、強制隠居を命じられました。家斉との「不適切な関係」をとがめられたと言う訳です。
1843年(天保14年)、「天保の改革」(てんぽうのかいかく)の一環として行なわれた印旛沼(いんばぬま)における堀割(ほりわり:地面を掘って造った水路)の手伝普請を命じられたことで、さらに藩の財政は逼迫(ひっぱく)します。
1850年(嘉永3年)、忠英の跡を継いだ息子の忠旭(ただあきら)は、陣屋を上総国望陀郡請西村に移し、以後は、「請西藩」と呼ばれることになりました。
貝淵藩から数えて4代目の藩主となった「林忠崇」(はやしただたか)は、忠旭の5男。兄達がいずれも早世し、3代藩主を務めた叔父の忠交(ただかた:忠英の4男。伏見奉行として、寺田屋事件で坂本龍馬捕縛を画策するも失敗)も23歳と若くに亡くなっています。しかし、忠交の息子も幼少であったため、1867年(慶応3年)に、忠崇が家督を継ぐことになったのです。
忠崇は、幼いころから文武に才を見せ、将来は幕府の閣僚にまで出世する器だと評されていました。藩主となった翌年、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において、新政府軍に恭順するか、徹底抗戦するかで藩論は二分されます。そのなかで、上総に転じた旧幕府軍から助力要請を受けると、忠崇はこれに与することを決意。このとき、まだ20歳になる前という若さゆえか自ら脱藩すると、70人の藩士達と共に遊撃隊として、これに参加したのです。
江戸湾を渡って相模湾に上陸し、箱根や伊豆で新政府軍と交戦すると、そのあとは奥州(おうしゅう:現在の宮城県、福島県、岩手県、青森県、秋田県北東部)に転戦するも、戦力や技術力で上回る相手に連戦連敗。そんな中、「徳川宗家が諸侯として存続する」と知らされ、「大義が果たされた」とようやく降伏に至りました。
藩主自らの脱藩は悪質な反逆だとして、1868年(明治元年)に、請西藩は改易。戊辰戦争の結果によって減封された藩は数あれど、請西藩が唯一、改易された藩となったのです。
維新後は下級士族として過ごした忠崇ですが、1893年(明治26年)には旧藩士の嘆願もあって従兄弟の林忠弘(はやしただひろ)が爵位を授かり、以後は日光東照宮などに勤めました。
忠崇が「最後の大名」としての生涯を閉じたのは、1941年(昭和16年)のことで、享年92歳でした。死の直前に辞世の句歌を求められた忠崇は、「(辞世は)明治元年にやった。今はない」と答えたと伝えられています。
戦国時代には、「上杉謙信」の領地として知られた越後国。
謙信を継いだ景勝(かげかつ)が、「豊臣秀吉」の命により、加増のうえで「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)へ移ると、1598年(慶長3年)からは、秀吉の家臣「堀秀治」(ほりひではる)が、越後国を治めることとなりました。
秀吉の死後、同じ五大老であった景勝と、「徳川家康」との間で対立が深まっていきます。1600年(慶長5年)、景勝は、家臣の「直江兼続」(なおえかねつぐ)と共に画策し、越後国内に残っていた上杉の旧臣や僧侶らを蜂起させ、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「上杉遺民一揆」(うえすぎいみんいっき)を起こしたのです。
この一揆において、越後国の領主であった堀家は、反・徳川として豊臣方の西軍に与していた景勝に対抗するため、もとの主君である秀吉の西軍側ではなく、徳川方の東軍に付くことを決意。関ヶ原の戦いの本戦には参加しませんでしたが、越後国内の一揆鎮圧に務めた功績を家康に買われ、戦後も越後の地を所領することを認められたのです。
このことにより、幕藩体制下における越後「高田藩」が成立しました(同名の高田藩は、豊後国[ぶんごのくに:現在の大分県の大部分]、美作国[みまさかのくに:現在の岡山県北東部]にも存在しましたが、越後国の同名藩との関連はありません)。
このとき、上杉時代からの領主の居城とされた山城である「春日山城」(かすがやまじょう:現在の新潟県上越市)を廃し、新たに平城の「福嶋城」(ふくしまじょう:新潟県上越市)を築城して本拠としたことから、高田藩は「福嶋藩」とも呼ばれています。
しかし、堀家は結局は外様大名。1608年(慶長13年)、秀治の死後に政務を取り仕切ってきた「堀直政」(ほりなおまさ)が没し、後継者争いによるお家騒動が起きると、あっさりと改易されてしまったのです。
そして1624年(寛永元年)、「福井藩」(ふくいはん:現在の福井県)の松平(越前)家のトラブルに関連して、その家系の仙千代(せんちよ:のちの松平光長[まつだいらみつなが])が、26万石で新たに高田藩を立藩しました。以後、高田藩は、徳川の親藩や譜代の大名が治めることとなったのです。
光長は幼少であったため、実際の政務は、家臣の「小栗五郎左衛門」(おぐりごろうざえもん)らが中心となって取り仕切りました。また、五郎左衛門の子・美作(みまさか)も、1665年(寛文5年)の大地震後に、様々な開発を行ない、高田藩復興と安定した藩政に尽力しています。
しかし、1674年(延宝2年)、光長の嫡男が早世したことで、跡継ぎを巡るお家騒動が勃発。このとき光長は、すでに60歳とあって、早く後継者を指名しなければなりませんでした。その候補に挙がったのは、光長の異母弟である「永見長良」(ながみながよし)、同じく甥である「永見万徳丸」(ながみまんとくまる)、そして小栗美作の次男・大六(だいろく)の3人。
評議の結果、15歳の万徳丸を世継ぎとすることで決まりましたが、家中では、美作が大六を世継ぎにしようと企んでいるとの疑惑が持ち上がりました。しかし、これは、長年にわたって藩政を仕切ってきた、美作一党を排除するための策略だったのです。
反・美作の藩士達は、自らを藩のために立ち上がった「お為方」(おためがた)と称し、美作の一派を藩主の意に反する「逆意方」(ぎゃくい)とのレッテルを貼ると、光長に美作の悪政を訴え出て、その隠居を要求しました。美作はこれに応じましたが、家中では、「美作が城下から逃げ出そうとしている」とさらに騒ぎが起こります。
このような事態を収拾できなくなった光長は、大老の「酒井忠清」(さかいただきよ)に裁定を依願。酒井は、両派に和解を申し渡しました。
しかし、それでも騒動は収まらず1681年(延宝9年)には、ついに将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)直々の裁定が下されたのです。その内容は、逆意方とお為方の双方に、切腹や遠島(えんとう:江戸幕府や一部の藩において行なわれた刑罰のひとつで、島流しのこと)を科す厳しいもの。
さらに光長も管理能力不足として、領地没収のうえ、蟄居(ちっきょ:自宅などの一定の場所に閉じ込め、謹慎させた刑罰)を命じられています。こうした経緯から、高田の地に対する世間の印象は悪化。これ以降の高田藩は、「懲罰的意味合いの転封地」と見なされることとなりました。
15世紀、室町時代には「尾曳城」(おびきじょう:現在の群馬県)なる山城が築かれたと伝えられ、この地にまつわる最も古い文献としては、「1471年[文明3年]に、上杉軍が赤井家の居城、立林城[館林城]を攻略した」と記した物が確認されています。
戦国時代には、上杉、武田、北条の3家でこの地を巡って争いました。しかし、「小田原征伐」(おだわらせいばつ)後の1590年(天正18年)、「徳川家康」が関東へ入るにあたって、徳川四天王のひとりである「榊原康政」(さかきばらやすまさ)に館林10万石を与え、これが「館林藩」(たてばやしはん:現在の群馬県)の始まりとなったのです。
1643年(寛永20年)、歴々藩主を務めてきた榊原家が陸奥「白河藩」(しらかわはん:現在の福島県)へと移ると、いったん館林藩は廃藩とされ、幕府直轄領となります。
その翌年には、遠江「浜松藩」(はままつはん:現在の静岡県)から来た松平家が入封しましたが、1661年(寛文元年)に、これが下総国佐倉(しもうさのくに・さくら:現在の千葉県佐倉市)に移ると、代わってときの4代将軍・家綱(いえつな)の弟にあたる綱吉(つなよし)が、25万石で館林藩主となりました。
とはいえ、実際に綱吉が館林藩を取り仕切った訳ではありません。綱吉のために給料付きの別荘として館林の地をあてがったということであり、簡単に言えば、お小遣いとして貰ったような物。綱吉は江戸定府の藩主とされ、基本的には、江戸の「神田御殿」(かんだごてん)に居住したままでした。
藩主としての20年の治政のあいだで、綱吉が館林城に宿泊したのは、「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)で執り行なわれた、「家康五十回忌法要」の帰途に4泊したのみ。
徳川本家の4男坊にすぎなかった綱吉には、そもそも直属の家臣もおらず、館林城には、何かことが起きたときのための世話役が、わずか22名置かれていただけだったとも伝えられています。
家綱が急逝し、後継ぎもいなかったことから、綱吉が5代将軍になると、一時的に実子の徳松(とくまつ)に館林藩主の位を譲りましたが、その徳松もわずか4歳で早世。そのため、館林は再び幕府領とされることになったのです。
そののちも館林は、立藩されたり廃藩で幕府領に戻ったりを繰り返し、ひとつの家柄が長く治めることはありませんでした。
また、館林藩は、徳川直系やその重臣らが歴代藩主を務めてきた、幕府と縁の深い藩だった一方で、幕末には、常州「水戸藩」(みとはん:現在の茨城県)と共に、関東における尊王攘夷派の急先鋒となります。
1845年(弘化2年)に、出羽「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)から6万石で入封した「秋元志朝」(あきもとゆきとも)が、「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)と縁戚関係にあったことが、その大きな理由だったのです。
藩主としての志朝は、当初江戸詰めでありながら居城を館林に移し、「安政大震災」(あんせいだいしんさい)による被害からの復興に尽力。藩校を設立して教育にも努めるなど善政を行なったものの、長州藩との関係が幕府からの嫌疑を招き、1864年(元治元年)の「禁門の変」(きんもんのへん)で、強制隠居の処分を下されています。
それでも藩内の討幕ムードが変わることはなく、1868年(明治元年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)でも、新政府軍の一員として「奥州征伐」(おうしゅうせいばつ)に加わり、軍功を挙げました。
1872年(明治5年)の廃藩置県の際には、館林県が置かれ、のちに栃木県に編入。しかし、1876年(明治9年)、右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)の達しにより、群馬県に移されて現在に至っています。
1999~2010年(平成11~22年)頃にかけて、日本全国で行なわれた市区町村の統廃合、いわゆる「平成の大合併」(へいせいのだいがっぺい)において、群馬県内で唯一館林市だけがこれを行なわなかったのも、そうした歴史的経緯が関連していたのかもしれません。
1827年(文政10年)、江戸湾警備の幕命を受けた「水野忠韶」(みずのただてる)は、居所を上総国市原郡椎津村(かずさのくにいちはらぐんしいずむら:現在の千葉県市原市椎津)に移しました。
所領は市原郡と現在の袖ケ浦や木更津を中心とした、望陀郡(もうだぐん)と呼ばれる一帯。これ以前に忠韶は、安房国(あわのくに:現在の千葉県房総半島)の北条藩主で、城主格の大名であったことから、ここでも大名の格付けとなるのです。
新たに作られた陣屋は「鶴牧城」と名付けられ、これが「鶴牧藩」(つるまきはん:現在の千葉県)の始まりとなりました。陣屋の置かれた場所が椎津であるにもかかわらず、それとは異なる鶴牧とされたのは、忠韶の江戸の別邸があった、「早稲田鶴巻町」(わせだつるまきちょう:現在の東京都新宿区)に由来しているため。
ちなみに水野家は、徳川家康の生母「伝通院」(でんづういん:お大の方)の生家であり、分流として鶴牧藩の他にも多くの親藩を出した名門です。
忠韶は、鶴牧に移った翌年に死去しますが、そのあとは養子の「水野忠実」(みずのただざね)が継ぐことになりました。忠実は藩政において、財政再建のために、倹約などの諸政策を講じます。目覚ましい効果は無かったものの、領民達からは「善政の名君」として慕われ、1832(天保3年)に転封(てんぽう:大名の領地を他に移すこと)の話が持ち上がった際には、それを知った領民達が反対の騒動を起こして、撤回されるという一件も起こりました。
1842年(天保13年)に、その忠実も死去。嫡男の「水野忠順」(みずのただより)があとを継ぐと、1868年(明治元年)、鶴牧藩内の市原郡五井村において、「五井村戦争」が起こります。これは、「市川・船橋の戦い」に敗れた幕府軍が、鶴牧の地で体勢を立て直し、房総半島における最後の抵抗を見せた戦い。
この際に、鶴牧藩から幕府軍への援助があったのではないかとの嫌疑が掛けられ、新政府は同年に、水野家の所領であった安房国長狭や、上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などを召し上げます。しかし、代わりに忠順は、上総国市原と望陀郡の小領を与えられるのです。
翌年の版籍奉還後において、忠順は藩知事となりましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県で、鶴牧藩は廃藩とされました。
一方で、忠順は学問の振興にも力を注ぎ、藩士達に文武両道を諭すと共に、「修来館」という藩校も開きます。士族や足軽の子弟が8歳になると、いわば義務教育として、必ず就学。四書五経に始まって、算術から礼儀作法、剣・銃・弓などの各種武術まで。25歳で卒業するまでの間、みっちり教え込まれたのです。こうした幕末の動乱の中、教育レベルとしては、現代に匹敵するか、それ以上とも言えました。
さらに忠順は、学者を動員して、かねてからその内容に不満を抱いていた「史記評林」(しきひょうりん:司馬遷が著した中国最初の歴史書[史記]に対する後世の研究や論評をまとめた物)の改訂を手掛け、30年間の歳月と小藩には分不相応な巨額を投入して、1869年(明治2年)に、「鶴牧版史記評林」を完成。当時の学者達から絶大なる賞賛を受け、明治天皇に御前開講までも行なったのです。
江戸時代の初期、現在の長岡市あたりには「蔵王堂藩」(ざおうどうはん)が存在していましたが、1606年(慶長11年)、2代藩主「堀鶴千代」(ほりつるちよ)が早世したため、お家断絶。「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県上越市)の属領とされました。
しかし、1616年(元和2年)、高田藩主の「松平忠輝」(まつだいらただてる)が「大坂夏の陣」に遅参する不始末によって改易されると、蔵王堂藩時代に、鶴千代の後見を務めていた「堀直寄」(ほりなおより)が8万石で入封。新たに長岡城を築城して自身の居城とし、城下町も蔵王堂城からそちらに移して、長岡藩が立藩されたのです。
1618年(元和4年)、堀直寄が移封となると、これに代わって「徳川家康」の家臣として数々の武功を挙げてきた「牧野忠成」(まきのただなり)が入封。
祖父・成定(なりさだ)の代には、徳川家康の家臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)配下の東三河国衆として徳川軍に属した譜代大名であり、外様の多い越後地域において、言わば見張り番としての役目を委ねられました。
そんな幕府の期待に応えるかのごとく、牧野家は明治の廃藩まで250年にわたって長岡で藩政を敷くことになります。その藩風の基礎となった心構えに、「牛久保之壁書」(うしくぼのへきしょ)、「侍の恥辱十七ヵ条」(さむらいのちじょくじゅうななかじょう)と言う物がありました。
いずれも、三河以来の家風を守るために掲げられた、武士の心構えを記した物。同じく長岡で有名な「米百俵の精神」もこれらに基づいて生まれ、藩士の子息達は、藩校でこれらを叩きこまれたと伝えられています。
【牛久保之壁書】
一、常在戦場の四文字
一、弓矢御法といふこと
一、礼儀廉恥といふこと
一、武家の礼儀作法
一、貧は士(さむらい)の常といふこと
一、士の風俗方外聞に係るといふこと
一、百姓に似るとも、町人に似るなといふこと
一、進退ならぬといふこと
一、鼻は欠くとも、義理は欠くなといふこと
一、腰は立たずとも、一分は立てよといふこと
一、武士の義理、士の一分を立てよといふこと
一、士の魂は清水で洗えといふこと
一、士の魂は陰ひなた無きものといふこと
一、士の切目、折目といふこと
一、何事にも根本といふこと
一、日陰奉公といふこと
一、荷ない奉公といふこと
一、親類は親しみ、朋友は交わり、朋輩中は付合うといふこと、また一町の交わり、他町の付合いといふこと
ところが、これらの心構えを守り続けたが故に、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において明らかに新政府軍が有利となったあとも、長岡藩は、幕府側に殉じることとなったのです。
1867年(慶応3年)5月、新政府軍の軍監であった「土佐藩」(とさはん:現在の高知県)の「岩村精一郎[高俊]」(いわむらせいいちろう[たかとし])は、恭順(きょうじゅん:命令に対して、つつしんで従うこと)工作のため、長岡にほど近い小千谷(おぢや)の慈眼寺(じげんじ)を訪れます。
しかし、藩主の代理として、精一郎を迎えた牧野家家臣「河井継之助」(かわいつぎのすけ)は、「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、旧幕府軍や会津討伐とは言いながら、その本音は私的な制裁や権力奪取にあるのだろう」と、堂々と言い放ったのです。
この直言により交渉は決裂。「北越戦争」(ほくえつせんそう)が開戦となりました。
当初は、継之助の巧みな用兵術もあって互角の戦いとなったものの、新政府軍の物量の前には多勢に無勢。徐々に押されて長岡城を奪われてしまいます。いったんは奇襲により奪還しましたが、継之助は膝に銃弾を受けて負傷。指揮能力の低下により再び長岡城は陥落し、会津へ敗走したのです。
「八十里 腰抜け武士の越す峠」とは、このときの河井の辞世。ようやく会津に逃げ延びたものの、継之助は、膝の傷から破傷風を発症し、間もなく帰らぬ人となりました。
「武田信玄」と「上杉謙信」による「川中島の戦い」の舞台となった長野盆地南部にあたるこの地域。
千曲川と犀川の合流地点から広がる肥えた土壌のおかげで、その当時には越後全土を上回るほどの米収穫高があったと言われています。
「関ヶ原の戦い」のあとに、「織田信長」の家臣として名高い「森可成」の6男・忠政が16万7,000石で入封し、「川中島藩」が成立。その本拠は、信玄が対上杉戦への備えのため「山本勘助」(やまもとかんすけ)に築かせた「海津城」に置かれ、これがのちの「松代城」となりました。松代の名称が広く使われるようになったのは、1616年(元和2年)に「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が12万石で入封してからのことでした。
1622年(元和8年)には、「真田信之」(さなだのぶゆき)が13万石で入封。信之はこれ以前の上田藩主の時代に蓄財した20万両もの大金をもって松代入りし、もともとの米の収穫量も多かったため、この当時は、かなり裕福な藩でした。
なお、真田一族の多くが関ヶ原の戦いで西軍に参じた中、信之は妻が徳川家康の養女だったことから東軍に付いています。また、享年93歳と長命でもありました。
真田家3代目、幸道の時代になると、幕府から様々な普請の手伝いを申し付けられることになり、それら使役によって、信之の遺産は使い果たされてしまいます。
質素倹約を旨とした4代藩主・信弘の下で、一旦は財政を持ち直しましたが、5代藩主・信安の時代の1717年(享保2年)に、松代城下が大火に見舞われると、水害も重なって、復興資金として幕府より1万両を借り受ける「借金藩」となってしまいました。
なお、幕府からの借金によって、「千曲川」の河川改修が行なわれ、これ以後の松代城下は水害に見舞われなくなったのです。
信安は財政再建のため、家臣に対しては給与の半額を借り上げることを、城下の民には年貢の前倒し徴収を要請して実行。しかし、これらは強い反発を招くことになり、1744年(延享元年)には家臣によるストライキという江戸時代においては全国的にも極めて珍しい事態が起きています。
また性急な改革は、農民達からの反発も招き、松代藩内では初となる一揆もこの時期に起こりました。これら財政再建を主導したのは、元赤穂浪士を名乗る「田村半右衛門」なる人物でしたが、1751年(宝暦元年)には、その田村自身が汚職を行なっていたとして、江戸に逃亡したところを捕らえられています。
幕末の1847年(弘化4年)には、善光寺地震にも見舞われ、復興のための借財は10万両にまで膨らみ、さらに、ペリー来航に伴う湾岸警備を命じられると、藩の財政は破綻状態にまで追い込まれました。
そんなこんなと苦しい財政状況にありながら、一貫して重視されていたのが教育で、6代藩主・幸弘は、藩校「文学館」を開設。幕末には倒幕運動の理論的支柱のひとりとなった奇才「佐久間象山」(さくましょうざん)も登用されています。
1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられると、すぐに藩兵を率いて上洛。「禁門の変」が起こると、参内して朝廷の守りに就いています。
明治維新においても、松代藩は早くから倒幕で藩論を一致させ、朝廷から信濃全藩のまとめ役を命じられると共に、「戊辰戦争」では、新政府軍側の一員として多大な軍功を挙げています。
尾張、紀州と並び「徳川御三家」のひとつに数えられる水戸徳川家。
ただし「将軍家に後継ぎが途絶えたときは、尾張家か紀州家から養子を出す」との伝承があったように、水戸家は他の二家よりも格下だったとする説もあります。
実際のところ、大納言位だった駿河徳川家(水戸家は中納言)や、6代将軍・家宣を輩出した甲府徳川家の方が水戸家よりも家格は上とされ、これらが絶家となったあとに、繰り上がって水戸家は御三家に格付けされています。
1602年(慶長7年)、それまで常陸国を治めてきた佐竹家が転封されると、これに代わって水戸城には「徳川家康」の5男、「松平[武田]信吉」が入りました。これを継いだ10男・頼宣は紀州に移って紀州徳川家の藩祖となったため、そのあとこの地に入った11男・頼房以降が「水戸徳川家」と呼ばれています。
「参勤交代」は行なわずに江戸定府(参勤交代を行なわず、江戸に定住する将軍や藩主及びそれに仕える者のこと)とされ、将軍家に万が一のことが起きたときの代役を務めるために備えていたとも言われています。
2代藩主で「水戸黄門」としても知られる「水戸光圀」(みとみつくに)は、「大日本史」の編纂に精力を注ぎ、その流れもあって、以後の水戸藩では尊皇・好学が重んじられるようになりました。
9代藩主・斉昭は、「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)、「藤田東湖」(ふじたとうこ)らの学者を登用し、彼らの著書は藩の改革派のみならず全国の他藩にも大きな影響を与えて尊皇攘夷の思想的基盤にもなりました。事実、幕末の志士達の多くが水戸詣でを行なっています。
斉昭は、藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行なうと共に、教育においては「弘道館」を建設して整備を行なったことで「水戸学」は藩内においても強い影響力を持つことになりました。
その極端なまでの尊王攘夷思想は、幕府から疎まれ、斉昭は長男「慶篤」(よしあつ)に家督を譲った上で、隠居を余儀なくされます。しかし、斉昭を支持する藩士による復権運動が起こると、謹慎を解除され、1853年(嘉永6年)のペリー来航に際しては、海防参与に任じられました。
しかし、ここに至ってなお「交渉すると見せかけて敵将を斬り黒船を乗っ取るべし」と過激な攘夷思想は変わることなく、それもあって大老の「井伊直弼」(いいなおすけ)と激しく対立したことにより、再びの謹慎を命じられました。
この処分に怒った水戸の脱藩藩士達は、「桜田門外の変」で井伊大老を暗殺。その一方で、藩内においては守旧派と改革派が抗争対立を繰り返す内戦状態となり、改革派=天狗党の挙兵にまで至っています。
尊王攘夷思想の根幹を成した、その意味では倒幕の主役とも言える水戸藩ですが、こうした藩内抗争と財政悪化により、幕末の頃には藩としての統制を失っていました。水戸藩の改革派藩士達は、それぞれが我が道を行くとばかりに桜田門外の変、「天狗党の乱」、「弘道館戦争」等々を引き起こし、そうした中で多くの有能な人材を失うことにもなったのです。
「戊辰戦争」においても、藩としてまとまった行動を取ることができず、そのため幕末の政局で主導権を握ることなく、新政府においても主要な人物をほとんど輩出することができませんでした。
水戸藩の内戦状態は、1869年(明治2年)に新政府より停戦が命じられるまで続き、 「薩長土肥」の中に水戸の文字が含まれることも叶わなかったのです。
現在の新潟県新潟市西蒲区峰岡にあった三根山藩は、1634年(寛永11年)に、越後長岡藩の初代藩主「牧野忠成」(まきのただなり)が4男の定成に蒲原郡三根山の新墾田6,000石を与えて分家させたのがその始まりで、領地が1万石に満たないことから、大名ではなく、上級旗本格である旗本寄合席とされてきました。
ただし、幕末に記された「三根山藩文書」では、「先に分家した与板に加えて三根山まで、2つも忠成の1代で諸侯とすることは恐れ多いから、表向きに三根山は6,000石としてきたが、実際には1万1,000石の石高があった」との旨が記述されています(三根山藩の正統性を主張するために話を大げさにしただけで、実際6,000石しかなかったとの説もあり)。
正式に三根山藩として立藩されたのは、幕末の1863年(文久3年)のことで、当時の領主・忠泰が新たに5,000石を開墾して、もとからの6,000石と合わせた計1万1,000石を申告し、これを幕府に認められて大名となりました。
本来、大名への格上げは、簡単に許可されることではありませんでしたが、同年には「薩英戦争」が起こり、長州藩では「高杉晋作」(たかすぎしんさく)が「奇兵隊」(きへいたい)を立ち上げるなど、日本各地に動乱の気配が満ちていて、幕府としては牧野家を大名とすることで恩義を売り、北陸地方の警備などで働かせようとの意図もあったと言われています。
それもあって、「戊辰戦争」の当初には、宗藩(そうはん:宗主的立場にある藩)である長岡藩と共に、幕府寄りの立場を取っていましたが、長岡藩が陥落すると、すぐに方針を転換。新政府側に従うことを表明し、その求めに応じて庄内藩征伐に出兵しています。
それでも、元々が江戸幕府の譜代であったことから新政府からの扱いは悪く、明治に入ってすぐに信濃国伊那への転封を命じられます。これは三根山残留を嘆願したことで差し止めとなりましたが、その直後には藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいという、言いがかりとも言える要求を突き付けられて、藩名を嶺岡藩(みねおかはん)に改名。そののち、「廃藩置県」で嶺岡県となると、同年中には新潟県に併合されました。
北越戊辰戦争においてのこと。これに敗れた長岡藩は、それまでの7万4,000石から2万4,000石に減封され、家臣への俸禄(ほうろく:給料)が足りないのはもちろんのこと、極度の食糧不足にまで陥りました。
そんな宗藩の窮状を助けるために、三根山藩は、百俵ほどの米を送り届けましたが、長岡藩の重臣であった「小林虎三郎」(こばやしとらさぶろう)は、これを藩士に分け与えずに売り払って、藩校の運営費用に回すことを決定。これに抗議する藩士達に対し、小林は「百俵の米も食えばたちまち無くなるが、教育に充てれば明日の万俵、百万俵にもなる」と諭したと言われています。
これがのちに戯曲化され、「小泉純一郎」が総理大臣となった際に、内閣発足時の所信表明演説で引用したことでも知られる「米百俵」の逸話です。