260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである東海・北陸地方の「岡崎藩」(おかざきはん)[愛知県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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5万石 | 三河国 (愛知県) |
岡崎城 | 本多家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 本多家 | 本多康重 |
5.5万石 | 譜代 |
2. 水野家 | 水野忠善 |
6万石 | 譜代 |
3. 松平[松井]家 | 松平康福 |
5.4万石 | 譜代 |
4. 本多家 | 本多忠粛 |
5万石 | 譜代 |
現在の愛知県東部にあたる三河の国を領有した「岡崎藩」(おかざきはん)は、徳川家康生誕の地で、東海道筋の交通の要衝でもあったことから、歴代徳川譜代大名が入封しています。
5万石で入封して初代藩主となった「本多康重」(ほんだやすしげ)は、「長篠の戦い」において、敵方の「武田軍」に左内腿を銃弾で撃たれながらも、怯むことなく戦い続けたとの逸話を残している人物。家康からの信任も厚く、東海道の整備などに尽力しました。
「本多家」4代に続いて、「水野家」、「松平家」がこの地を治め、藩主家が定着したのは、1769年(明和6年)の「本多忠粛」(ほんだただとし)以降のこと。明治時代の「廃藩置県」まで、その治政が続きました。
なお、こちらの本多家は、初代と同じ「三河本多一族」でしたが、その中でも宗家とされるのは「本多平八郎忠勝」(ほんだへいはちろうただかつ)です。忠勝は、「関ヶ原の戦い」を始めに数々の武功を賞された「徳川四天王」のひとりからの直系にあたります。
忠勝は、13歳での初陣から63歳で生涯を閉じるまでの50年間に、57回の戦に臨みながら、かすり傷ひとつ負わなかったと言われ、「家康に過ぎたる物が2つあり。唐の頭に本多平八」と言う世評があったほど。徳川家の三ツ葉葵の家紋も、本多家の立葵にちなんだ物と言われています。
なお、「三河本多一門」は、江戸初期には6つの家系を数え、13家の大名を輩出。これは、数ある譜代の中でもダントツの一大勢力となっていました。
ただし、長く続いて基盤が安定していた譜代家ゆえの弊害か、岡崎藩では組織の硬直化によるトラブルも多く、また領地での施政よりも幕府内政治を重んじる向きもあったようです。
1737年(元文2年)に、水野家の家督を相続して藩主となった「水野忠辰」(みずのただとき)は、腐敗した藩政を立て直そうと、緊縮財政と積極的な人材登用の実現に取り組んだものの、老臣の抵抗が根強く、1749年(寛延2年)、元旦の年賀において3人の家老が病気を理由に欠席。翌2日には、重臣がひとりも出仕しない事態が勃発しました。このため藩内は、武力抗争寸前の事態にまで陥りましたが、いったん忠辰が矛先を収めることで事態は終息。
しかし、これ以降の忠辰は、政治や学問に関心を示さず、もっぱら吉原での遊興に没頭するようになったのです。これを嘆いた生母は、抗議と戒めの自害を果たしましたが、忠辰の遊びは一向に収まらず、挙句には700両(現在の価値に換算すると、約9,100万円)を投じて、吉原の遊女を身請けする始末。
ついに忠辰は、家臣らによって座敷牢に閉じ込められ、迎えた養子が家督を継ぐことになりました。忠辰の幽閉については「病気のため」と報告され、内情を知る幕府も不問としたのです。
京都の「丹波亀山藩」(たんばかめやまはん)と区別するために「伊勢亀山藩」(いせかめやまはん)とも称される、伊勢国に存在した藩のひとつ。
藩主の入れ代わりが非常に激しく、1600年(慶長5年)から、関家→松平(奥平)家→天領→三宅家→本多家→石川家→板倉家→松平(大給)家→板倉家と移り代わり、続く石川家になってようやく定着します。
これは1744年(延享元年)のことで、それ以降は明治の「廃藩置県」まで、11代にわたってこの地を治めることとなりました。
なお、この石川家は「徳川家康」の家臣として名高い「石川数正」(いしかわかずまさ)の直系ではなく、その叔父から分かれた系統です。
石川家から初代亀山藩主となった「石川総慶」(いしかわふさよし)は、もともと備中松山藩を治めていましたが、前藩主の「板倉勝澄」(いたくらかつずみ)と領地交代の形で入封しています。
板倉は、亀山領内での借金4万9,900余両を返済しないまま移封となったため、石川家は、当初からこの借財の返済を負担させられることに。さらには幕府から「朝鮮通信使」の饗応役を任じられたことも重なって、多額の出費を余儀なくされたため、藩の財政は早い段階から窮乏することとなりました。
石川家4代藩主「石川総純」(いしかわふさずみ)は、米の専売や荒地における検地を行なって藩財政再建を目指しましたが、これに反対する百姓一揆が1768年(明和5年)に起こったため、改革は失敗しています。
その一方で、代々の藩主は藩教学奨励に力を尽くし、5代藩主「石川総博」(いしかわふさひろ)は、1790年(寛政2年)に藩校「明倫堂」(のちに[明倫館]と改称)を創設。なお、現在この場所には三重県亀山市立亀山中学校が建てられています。
明倫堂で学んだ中には、天文学者「由良時諶」(ゆらときざね)がおり、1807年(文化4年)の大彗星についての観測記録を残しました。
同彗星については、西欧でも観測されていますが、由良は、それらと遜色ない正確なデータを残しており、当時の日本においてはもちろんのこと、世界レベルで見ても有数の天文学者だったと推察されるのです。由良は、5冊の著書を著したと言われていますが、いずれも現存は確認されていません。
由良は、蘭学や算術にも長け、亀山に伝わる「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)なる世界地図も由良が写した物だと言われています。
なお、藩庁の置かれた亀山城は、東海道の要衝とされ、徳川家康を始めとする歴代将軍が、その本丸を上洛の際の宿として利用。そのため、普段から本丸は将軍家用として空けておいて、城主は二の丸を居城としていたのだと言われています。
現在、その城址は亀山公園の一部として公開されており、多聞櫓や石垣、堀がその遺構として残されているのです。
越前国にあって、現在の福井県嶺北(敦賀市以西を除いた東北部)の中心部を治めた藩。「北ノ荘藩」「福井藩」とも称されます。
「関ヶ原の戦い」のあとの1601年(慶長6年)、徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)が67万石で入封。1604年(慶長9年)に結城姓から松平へと改姓しました。
秀康は幼少時、容姿の醜さから家康に嫌われて認知を得られなかった逸話があります(異説として[双子で生まれたため縁起が悪いとされた]、[側室の子で、正室の顔を立てるため認知しなかった]なども言われるが真相は不明)。
越前藩の人物としては、以下の2藩主が有名となっています。
ひとりは、2代藩主の「松平忠直」(まつだいらただなお)。「菊池寛」(きくちかん)の時代小説「忠直卿行状記」にも取り上げられた人物で、小説上では大幅な脚色がなされていると言われていますが、それでも家中騒動においては、多数の者を斬り捨て、そのため家来が側に寄らない状態にあったと言うから相当な奇人には違いありません。
また、江戸への参勤をさぼったり、始祖である家康の7回忌法要も欠席したりした挙句、豊後に流されています。これら行状は、そもそも「大坂冬の陣・夏の陣」で「真田幸村」(さなだゆきむら)を討ち取るなど多数の武勲を上げたにもかかわらず、恩賞として渡されたのが茶入れと脇差だけで、加増がなかったことに対しての不満から発したものであったとも言われています。
その一方で、名君との誉れも高いのが16代藩主「松平慶永[春嶽]」(まつだいらよしなが[しゅんがく])。
11歳で藩主に就いたときには、すでに漢学や国学に通じたインテリで、洋式大砲や台場の整備で軍備強化を図ると、外国貿易の開拓のため福井に物産総会所を設立しています。
慶永は、維新前夜には薩摩の「島津斉彬」(しまずなりあきら)、土佐の「山内容堂」(やまのうちようどう)、宇和島の「伊達宗城」(だてむねなり)と共に「四賢候」(しけんこう)と称され、「大政奉還」においては中心的な役割を務めました。
「[慶永の]人材コレクターぶりは、三国志の英雄である曹操や織田信長にも似ている」([歴史読本]2012年3月号)と言う評価もありますが、その主だったところとしては、「西郷隆盛」をも感嘆せしめた俊才「橋本左内」(はしもとさない)、そして「坂本龍馬」が「新政府が成った暁には、その財政責任者とすべし」と激賞した「三岡八郎」(みつおかはちろう:のちの由利公正[ゆりきみまさ])らがいます。
慶永は「安政の大獄」において謹慎処分を受け、そのため越前藩は糸魚川から「松平茂昭」(まつだいらもちあき)を藩主に迎え、「戊辰戦争」では薩長新政府軍に加わりました。
「井伊直弼」(いいなおすけ)が「桜田門外の変」で暗殺されたことで復権し、幕政に加わった慶永は、薩長による討幕運動には賛同しませんでしたが、それでも維新後の新政府においては、大蔵卿(現在の財務大臣)など重要なポジションを与えられています。これもひとえにその優秀さの故だと言えます。
ちなみに「明治」の元号も慶永が命名しました。
かつて、大垣は木曽三川を回避して、美濃から上洛を果たすための交通の最重要地とされていました。織田信長がこの地を制する以前には、父・信秀(のぶひで)と「斎藤道三」(さいとうどうざん)との間で激しい争奪戦が繰り広げられてきたのです。
藩として成立したのは、1601年(慶長6年)に上総国(かずさのくに:現在の千葉県)鳴渡(なると)より、徳川家康譜代の家臣「石川康通」(いしかわやすみち)が5万石で入封してからのこと。大垣の名の由来は、牛尾川(現在の水門川)を外堀の代わりとして城の周りに大垣をめぐらしたことによります。
4家8人の藩主の交代を経て、1635年(寛永12年)に、尼崎より「戸田氏鉄」(とだうじがね)が10万石で入封すると、以降12代235年にわたって、この地を治めたのです。
戸田家初代藩主・氏鉄の18年に及ぶ施政は、このあとの世代に受け継がれて、大垣藩(おおがきはん:現在の岐阜県)藩政の基本となりました。主な施策としては、「家臣に対する地方知行制を廃しての俸禄制の採用」、「治水の改善による積極的な新田開発の奨励」が挙げられます。また、氏鉄はこの間に、「島原の乱」にも出征して戦功を挙げました。
さらに、氏鉄は儒学にも精通していて、林家学派の始祖である「林羅山」(はやしらざん)らに師事。自らも「八道集」、「四角文集」、「戸田左門聞書」などを著しました。
こうした氏鉄の影響は大きく、以後、大垣藩は文化振興を奨励していくこととなります。
水戸から養子で入った戸田家7代藩主「戸田氏教」(とだうじのり)の子孫にあたる11代藩主「戸田氏共」(とだうじたか)は、1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」において、新政府軍と戦い、朝敵とされました。
しかし、新政府に召されていた戸田家臣の「小原鉄心」(おはらてっしん)が大垣に帰国すると、氏共を始めとする佐幕派を説得。これにより尊皇派に転じると、「戊辰戦争」では、新政府軍配下・東山軍の先鋒を務めました。
この働きにより、朝敵との指定は解除され、「版籍奉還」において、氏共は大垣知事に任じられます。1884年(明治17年)の「華族令」発布の際には、伯爵に叙せられました。伯爵となった氏共は、「岩倉具視」(いわくらともみ)の娘である妻の極子(きわこ)と共に、社交界デビューを果たします。
幕末期の欧米文化流入を受けて、洋学を志した氏共は、版籍奉還後に5年にわたる米国留学を実現。すでに結婚していた極子も、その間実家に戻り、琴や華道、茶道の諸芸、英語、ダンスの習得に励んだと言います。諸外国の要人を招き、連日連夜ダンスパーティが行なわれた「鹿鳴館」(ろくめいかん)において、欧米文化に通じる氏共はホスト役として活躍。
また、極子もその芸達者ぶりと天性の美貌から、「陸奥宗光」(むつむねみつ)の妻・亮子と並んで、「鹿鳴館の華」と称されました。
この高評が買われて、氏共はオーストリアのウィーンに公使として着任。また、現地において、妻の極子は、大作曲家「ブラームス」を前にして、琴の演奏を行なったとも言われています。
なお、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団で、第一バイオリン奏者を務める「ウィルフリート・和樹・ヘーデンボルグ」は、初代藩主・氏鉄の末裔にあたり、2009年(平成21年)には大垣での里帰り公演も実現させているのです。
戦国時代、若狭の一帯は、「丹羽長秀」(にわながひで)や「浅野長政」、「豊臣秀吉」の一門衆であった「木下勝俊」らが領していました。
初代藩主となったのは、「京極高次」(きょうごくたかつぐ)。近江大津6万石を領していた高次は、「関ヶ原の戦い」に際して東軍として名乗りを上げましたが、居城の「大津城」は、西軍の「立花宗茂」(たちばなむねしげ)と「毛利元康」(もうりもとやす)の大軍勢の襲撃を受けました。高次は、籠城戦で抵抗したものの、天守に大砲を撃ち込まれるなど激しく攻め立てられ、大津城は落城したのです。
それでも、この戦いによって宗茂ら軍勢は関ヶ原の開戦に遅参。これが東軍勝利の要因のひとつであったとして、徳川家康は、高次の戦功を高く評価。若狭一国を与えて、9万2,000石の国持大名としました。
さらに家督を継いだ息子の「京極忠高」(きょうごくただたか)は、「大坂の役」における和議交渉などの軍功により、越前敦賀一体を加増され、若狭から敦賀に至る「小浜藩」(おばまはん)11万3,000石の藩領が確定。
小浜藩の名は、京極氏の居城が小浜にあったことによるもので、現在の福井県小浜市に止まらない広い範囲を治めていたのです。
「代々の藩主は真面目一方の堅物ばかりで、馬鹿殿もいなければ、際立った名君もいない」(ふるさとの藩[朝日出版社])との評もありますが、これは比較的藩政が安定していたからこそであるとも言えます。
忠高が松江藩23万5,000石に加増移封となった1636年(寛永13年)から入封した酒井家は、以後238年にわたりこの地を治めることとなります。
代々の藩主は総じて学問好きで、「解体新書」の訳者である「杉田玄白」と「中川淳庵」(なかがわじゅんあん)が共に小浜藩出身であったのもそうした気風と無縁ではありません。
酒井家12代、14代の当主を務めた「酒井忠義」(さかいただあき)は、1858年(安政5年)に、京都所司代となると、13代将軍・家定の後継争いにおいて、のちに14代・家茂を輩出する南紀派を支持すると共に、慶喜を推す一橋派を弾圧。
さらに「井伊直弼」(いいなおすけ)の配下として、「安政の大獄」を京都において推し進めました。また、「和宮」(かずのみや)の降嫁(こうか)など、公武合体にも尽力し、「寺田屋事件」においては尊王攘夷派の標的にもされています。
1862年(文久2年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が討たれると、これに伴い忠義も失政の責任を問われて隠居に追い込まれ、この際に忠禄(ただとし)と改名しています。
家督を譲られた忠義の娘婿、「酒井忠氏」(さかいただうじ)は、「鳥羽・伏見の戦い」で幕府側に立つも、これに敗れて降伏。この責により忠氏が隠居の処分を受けると、忠禄(忠義)が再登板し、上京から謝罪の敗戦処理に臨むこととなりました。
「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県)は、「徳川家康」の9男・義直(よしなお)を初代とし、「御三家」の筆頭、かつ親藩の中でも最大の藩でした。
もともと義直は、尾張「清洲城」(きよすじょう)の城主として、尾張一円を領していましたが、清洲は土地が狭く、水害を受けやすかったため、海陸の交通の便が良い名古屋に居城を移すこととなったのです。
1616年(元和2年)に、「名古屋城」(なごやじょう)が築かれると、義直は61万9,000石で入封しました。「尾張徳川家」は、16代256年にわたってこの地を治め、「廃藩置県」で「名古屋県」になります。
そののち、「犬山県」(いぬやまけん:現在の愛知県犬山市周辺)と統合されて、「愛知県」に改称。「額田県」(ぬかたけん:現在の愛知県東部)との統合を経て、現在に至ります。
御三家とされながらも、尾張徳川家から将軍になった者はいませんが、これは、「尾張は将軍位を争うべからず」と言う家訓のためです。
その真意は、「まず、尾張徳川の存続を第一に考える」と言うことにあります。さらに、「将軍家にいざということがあった際の代役に備える」との意図もあったようです。
6代藩主「徳川継友」(とくがわつぐとも)は、当時、将軍家と最も近い血筋で、江戸幕府8代将軍の最有力候補と目されていましたが、紀州徳川家の吉宗(よしむね)がその座に就くことになります。
これも、尾張家訓に基づいて、ロビー活動や贈賄などの就任運動を一切行なわなかったためなのです。継友のあとを継いだ「徳川宗春」(とくがわむねはる)は、歴代藩主の中でも最も有名なひとりと言えます。
1730年(享保15年)に、7代藩主となった宗春は、吉宗による「享保の改革」(きょうほうのかいかく:質素倹約と過剰消費の廃止を旨とする緊縮財政政策)とは真逆の藩政を執り行ないました。
例えば、歌舞音曲の奨励。吉宗は、人心堕落の側面からこれを禁止しましたが、宗春は藩主就任と同時にこれを解禁しています。
他にも、吉宗が否定した「豪奢にして快楽に満ちた遊び」を積極的に認め、夜間の外出を解禁するなどしたことにより、名古屋城下には、芝居小屋から遊郭までもがひしめいて、江戸、大坂、京都をしのぐ賑わいをみせたと言います。
宗春は、自著「温知政要」において、その真意を「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる」、「規制を増やしても違反者を増やすだけだ」と記しました。この際、宗春には、幕府へ反発する意図はなく、改革案以外の幕府法令は順守することを藩内に徹底。
尾張藩主に就任した当初には、将軍から「宗」の字を授かって、通春から宗春へと改名していることからも、両者の関係はむしろ良好とも言えます。
しかし、宗春による数々の施政は、結果的に吉宗の逆鱗に触れることとなり、1739年(元文4年)には、隠居謹慎を命じられてしまいました。尾張藩内では、この処分を非難する声があとを絶たなかったと言います。
「加賀藩」(かがはん)は江戸時代、加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)石川郡金沢に藩庁をおいた外様藩。
加賀国、能登国(のとのくに:石川県北部)、越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)3ヵ国の大部分と、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)に102万5,020石を有して「加賀100万石」と称されました。
藩祖は「織田信長」のもとで、「槍の又三」(やりのまたざ)の異名を取った「前田利家」(まえだとしいえ)。1581年(天正9年)に信長より能登一国を与えられ、これにより加賀藩が成立したのです。
利家は五大老として、「豊臣秀吉」亡きあとも豊臣家を支えたことで、「徳川家康」とは一触即発の間柄にありました。
しかし、利家の死後は、嫡子・利長(としなが)と利長の弟・利政(としまさ)が、加賀国を分割統治。「関ヶ原の戦い」においては、兄弟で東西に分かれて戦うことで、どちらが勝っても前田家が存続できるように仕組んだのです。
江戸時代になってからは、徳川将軍家との姻戚関係が強かったことから「松平」(まつだいら)姓と葵紋が与えられ、外様でありながら御三家に準ずる待遇を受けています。
それでも100万石の勢力は、将軍家にとっての脅威に違いなく、幕府は加賀藩が謀反を起こすことのないように目付け役を送り込み、藩主の独裁とならないように合議制による藩政を強いたのです。
そのことに関連して起きたのが、1745年(延享2年)頃より始まった「加賀騒動」。6代藩主「前田吉徳」(まえだよしのり)の寵愛を受けた足軽出身の美少年「大槻伝蔵」(おおつきでんぞう)は、成り上がって一族を繁栄させました。
しかし、これが旧臣達の反発を買ってしまったのです。吉徳の死後に確執が表面化すると、さらに吉徳の跡を継いだ長男・宗辰(むねとき)が、わずか数ヵ月で急逝したため、「伝蔵が吉徳の側室・真如院(しんにょいん)と密通し、真如院の子を藩主にしようと毒殺したのでは?」との噂を立てられました。
真如院はこれを否定しましたが、密通の証拠があったとして、伝蔵は五箇山(ごかやま)に流刑となり、その地で自害。真如院も終身禁固の身となり、間もなく自ら絞殺を望んで亡くなっています。
この加賀騒動は、世間では世継ぎを巡る一大スキャンダルとなり、この顛末を扱った実録本が大人気を博したと伝えられているのです。
しかし、後世の研究では別の見方もなされています。それは、この一件は「大槻失脚」を目的とした、守旧派(しゅきゅうは:従来の考え方や制度を維持しようとする勢力)によるクーデターであったこと。幕府の介入により合議制が採られていた加賀藩でしたが、これに反発して独裁化を進めるために、大槻伝蔵が藩主の藩政改革に努めた説もあるのです。
なお、加賀藩ゆかりの現存する建造物には、東京大学の赤門があります。これは、「徳川家斉」(とくがわいえなり)の21女「溶姫」(やすひめ/ようひめ)が、加賀藩13代藩主「前田斉泰」(まえだなりやす)に輿入れする際、江戸本郷邸の「御守殿」(ごしゅでん)に建てられた物(なお、御守殿とは将軍家の娘に対する敬称で、その居住する奥御殿[おくごてん]についてもそのように称した)。その門構えは、丹色(にいろ:赤系の色)に塗るのが慣例だったのです。
「そのような御守殿がなぜ最高学府に?」との疑問もあるかもしれませんが、その壮麗な門構えは、当時における加賀藩の権勢を、今に示すものと言えます。
戦国時代には、今川氏(いまがわうじ)の支配下にあった遠江国掛川(とおとうみのくに・かけがわ:現在の静岡県掛川市)。
今川氏の衰退後は、「徳川家康」が譜代の「石川家成」(いしかわいえなり)と康通(やすみち)の父子に守らせていました。
しかし、小田原征伐(おだわらせいばつ)あとに、家康が関東に移ると豊臣家の家臣で「内助の功」(ないじょのこう)の逸話でも知られる、「山内一豊」(やまうちかつとよ/かずとよ)が同地に入っています。
豊臣秀吉の死後に家康への接近を図った一豊は、「関ヶ原の戦い」において、自らが居城としていた「掛川城」(かけがわじょう)を、家康に提供することをいち早く表明。その功績により、土佐国(とさくのくに:現在の高知県)へ加増移封されたのです。
「掛川藩」が正式に藩として成立したのは、1601年(慶長6年)、家康の異父弟「松平定勝」(まつだいらさだかつ)が掛川城を与えられて、3万石を領有してからのこと。
しかしそのあと、藩主家は激しく入れ替わり(再登板も含めれば13回)、ようやく落ち着いたのは1746年(延享3年)、「館林藩」(たてばやしはん:現在の群馬県館林市)より「太田資俊」(おおたすけとし:江戸城を造った太田道灌[おおたどうかん]の直系)が入封してからのことでした。短いスパンで藩主が入れ替わった理由は様々で、跡継ぎがおらず改易(かいえき:武士の身分を奪い、その領地や居城などを没収する刑罰)になったケースもあれば、加増移封となったケースもあるのです。
掛川藩初代藩主の松平定勝の長男・定吉(さだよし)は弓術に長け、温厚な性格もあって家臣団からの信頼も厚かったと伝わっています。
そんな定吉が19歳のとき、徳川家康が定勝の屋敷を訪問すると、定吉はその弓術の腕前を見てもらおうと、空に飛翔していた1羽の鷲を射落としました。
しかし、周囲がひとしきり感心する中で、家康の口からは思いがけない言葉が飛び出します。曰く「無駄な殺生だ」、「多くの人がいる前でかような軽率なことをするとは何ごとか。失敗すれば物笑いの種になるではないか!」と。
そんな家康の叱責にショックを受けた定吉は、ときを待たずに自害してしまったのです。それは、「このまま父の跡を継いでも、将軍から嫌われてしまった自分では先行きがない」と考えてのことでした。このとき、定吉のあとを追って多くの家臣も殉死したと言います。
太田家が入る直前の藩主「小笠原長恭」(おがさわらながゆき)は、藩内を横行する盗賊(日本左衛門[にっぽんざえもん:本名は濱島庄兵衛[はまじましょうべえ]と言い、歌舞伎の白波五人男[しらなみごにんおとこ]の日本駄右衛門[にっぽんだえもん]のモデルとなった)を取り締まることなく放置したとして、幕府より懲罰的転封を命じられました。
だからと言って、幕末まで続いた太田家が善政を敷いたかと言うとそうでもなく、5代藩主・資始(すけもと)は、干ばつによる飢饉に備えて「松の木の皮を食用にする」ための「松皮製造法」を制定し、領民からはそっぽを向かれたりもしています。
これに対して6代藩主の資功(すけかず)は、「二宮尊徳」(にのみやたかのり/そんとく)の弟子に当たる「安居院庄七」(あごいんしょうしち)を登用すると、村興しを進めるための「報徳社」(ほうとくしゃ)と言う会社を設立。
これは農村を活性化するための知識を教える専門学校のような物で、こちらは大いに成功し、掛川藩の農業を発展させることとなりました。
「刈谷藩」(かりやはん)は、江戸時代、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)を領有した藩です。
戦国時代に刈谷の地を支配していたのは「水野家」で、「徳川家康」の生母「於大の方」(おだいのかた)の兄にあたる「水野信元」(みずののぶもと)が家督を継ぐと、それまでの「今川家」との関係から離れて、織田氏と同盟を結びました。
しかし信元は、「武田勝頼」(たけだかつより)との内通を疑われ、「織田信長」の命を受けた家康の手で殺害され、一族は離散。一時的に水野家は滅亡します。
しかしそののち、名誉回復となり、信元の弟「忠重」(ただしげ)が信長より再び刈谷の地を与えられ、忠重の子「勝成」(かつなり)が同地に3万石を有したことで刈谷藩が成立するのです。
ところが、そのあとは非常に激しく、藩主家の交代が繰り返されます。水野家以降は→「松平[深溝]家」→「松平[久松]家」→天領(てんりょう:幕府の直轄地)→「稲垣家」→「阿部家」→「本多家」→「三浦家」と移り代わり、1719年(享保4年)に「土井家」が入って以降、ようやく藩主家が定着するのです。
松平(久松)家、「定勝」(さだかつ)の4男「定政」(さだまさ)が、1649年(慶安2年)に2万石で入ったときに事件が勃発します。
定政は、「関ヶ原の戦い」や「大坂冬の陣・夏の陣」以降、多数の大名が減封・改易されたことによって、浪人の数が激増している状況を危惧。
旗本御家人の窮乏を憂える「上申書」を幕府に提出。「刈谷藩は2万石の小藩だが、これを返上して窮乏する旗本御家人に分け与えて欲しい」と願い出て、頭を剃り「能登入道不伯」と号し、息子の「定知」(さだとも)と共に、江戸市内を托鉢して回るようになったのです。
これに対して、時の将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)はまだ数え年で10歳と若く、初めて幼君を将軍に戴いた幕府としては、政情不安を招きかねない大名や旗本の異端な言動には過敏になっていました。
ましてや定政は、家康の異父弟にあたる人物。幕閣としては、これを放置する訳にはいかないと、定政の行動を「狂気の沙汰」と断じて、その所領を没収。刈谷の地は「天領」とされて、定政は宗家の「伊予松山藩」(いよまつやまはん:現在の愛媛県)藩主「松平定行」(まつだいらさだゆき)のもとで、永蟄居となったのです。
しかし、1651年(慶安4年)に定政の懸念が実際のものとなります。不満を溜めた浪人達が江戸幕府を転覆しようとした陰謀事件、「慶安の変」(由井正雪の乱)が発生。皮肉にも、定政の予見の正しさが証明される形となりました。
一方、幕末まで9代にわたって統治した土井家も、その藩政の実情を見ると決して安定していた訳ではありません。歴代藩主においては実子に恵まれないケースが多く、養子を迎えることで、なんとか家系を存続させてきたような状態。
1790年(寛政2年)には、領地の42村で一揆が発生。幕府からの処罰として、半分強の領地を、陸奥「福島藩」(ふくしまはん:現在の福島県)と「村替」(むらがえ)させられたのです。
中世の時代から「十楽の津」(じゅうらくのつ)と呼ばれるなど、交易の拠点の港町として発展してきた桑名(くわな:現在の三重県桑名市)。
織田・豊臣の時代には、「滝川一益」(たきがわかずます/いちます)や「氏家行広」(うじいえゆきひろ)などの有力武将が領知しましたが、「関ヶ原の戦い」での戦功により、徳川四天王のひとり「本多平八郎忠勝」(ほんだへいはちろうただかつ)が10万石を与えられ、上総国・大多喜藩(かずさのくに/かづさのくに・おおきたはん:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)から入部したことで、「桑名藩」(くわなはん)が成立。
忠勝は、現在の三重県北勢部と愛知、岐阜県境の一部を知行し、飛び地として越後国(えちごのくに:現在の佐渡市を除く新潟県全域)の一部も領有することになったのです。
忠勝は、桑名藩において「慶長の町割り」(けいちょうのまちわり)と呼ばれる大規模な区画整理を行ない、これが現在の桑名市街の基礎となっています。
また、東海道宿場としての整備も積極的に行なって、巷間伝わる「猛将」と言うだけではない、「名君」としても力量を発揮しました。
桑名藩は、幕末期においては新選組と縁深かった藩としても知られています。桑名藩主で京都所司代(きょうとしょしだい)を務めた「松平定敬」(まつだいらさだあき)は、新選組を監督した京都守護職「松平容保」(まつだいらかたもり)の実の弟です。
新選組が尊王派志士を襲撃した、1864年(元治元年)の「池田屋騒動」は、この兄弟のときに起きています。なお、この騒動の中では、長州藩士と戦った桑名藩士ひとりが亡くなりました。
また、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)においても、新撰組副長から幕臣となっていた「土方歳三」(ひじかたとしぞう)の率いる軍勢に桑名藩士20人が加わって、「箱館戦争[別名:五稜郭の戦い]」(はこだてせんそう[ごりょうかくのたたかい])まで戦い抜いています。
戊辰戦争の開戦直後、藩内においては、「藩主の定敬が兄・容保と共に幕府を支え、現状も「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)にしたがい江戸で謹慎しているのだから、幕府軍として戦いを続けるのが当然」との意見があった一方で、「すでに形勢有利が明白となった新政府軍にしたがうべき」との声も強くありました。
この二分された意見は一向にまとまる様子がなく、そこで藩の帰趨(きすう:物事が最終的に行き着くところ)を神籤(みくじ)に託すこととなります。
用意された籤には、開城し幕府軍として戦う「開」と、新政府軍にしたがい城を守る「守」の2種類の文字がしたためられました。「鎮国守国神社」(ちんこくしゅこくじんじゃ)において、家老の「酒井孫八郎」(さかいまごはちろう)が斎戒沐浴(さいかいもくよく:神仏に祈るなどの際に、行動や飲食などを慎んで水を浴び、心身を清めること)を行なった上で籤を引くと、そこには開の文字が記されていたのです。
しかし、そのあとも意見の対立は続き、新政府恭順派の家老達は、藩主不在を理由として3代藩主・定猷(さだみち)の遺児である定教(さだのり)を4代藩主・定敬の後継に担ぎ上げます。これに伴って「桑名城」は、新政府軍に明け渡されることとなったのです。
このため国もとへ戻れなくなった定敬は、江戸からいったん桑名藩の領地がある越後の柏崎(かしわざき)に逃れたあとに、会津若松(あいづわかまつ:現在の福島県会津若松市)や箱館、果ては上海まで流浪の生活を送ることとなりました。
そして、路銀(ろぎん:旅に必要な費用)が尽きて横浜へ帰還したところで降伏の意を表すと、1872年(明治5年)に赦免を受けています。
そののち、政府に対して平民になることを願い出た定敬でしたが、これは認められず、1877年(明治10年)に起きた「西南戦争」(せいなんせんそう)では、旧桑名藩士を引き連れ、政府軍として遠征もしているのです。
「菰野藩」(こものはん)は、現在の三重県三重郡菰野町を中心として1万2,000石を知行した藩です。
初代藩主は「土方雄氏」(ひじかたかつうじ)。「豊臣秀吉」に仕えて伊勢国に3,000石を与えられると、1596年(慶長元年)には1万石の大名として諸侯に列することとなります。
しかし秀吉の死後、雄氏の父「土方雄久」(ひじかたかつひさ)が「家康暗殺事件」の容疑をかけられると、これに連座して雄氏も領知没収の上で常陸国に追放され、「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)預かりの身となりました。
なおこの一件は、豊臣一派の弱体化を狙う「徳川家康」と、その軍師である「本多正信」(ほんだまさのぶ)がでっち上げた事件だったと言われています。
しかし「関ヶ原の戦い」の直前になって雄氏は許され、伊勢国から近江国にまたがり所領を与えられると、菰野に陣屋を構えて、これが菰野藩の始まりとなりました。
以降、雄氏は家康に従い、関ヶ原の戦いにおいて東軍に従軍し、1614年(慶長19年)からの「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川方の先陣を務めて武功を挙げています。
雄氏の隠居に伴って家督を相続し、2代藩主となった雄氏長男の「雄高」(かつたか)は、城下町を整備すると、商工業者を集めて産業振興に努めると共に、菰野藩諸法を制定するなど藩政の基礎を築きました。
しかし、以降の藩主が放漫な藩政を続けたために財政は逼迫。7歳にして家督を継いだ7代藩主「雄年」(かつなが)の頃には、藩主が幼いのを良いことに家老や重臣らによる悪政が加速しますが、成長した雄年はそうした状況を打破するために家臣らを追放し、綱紀粛正(こうきしゅくせい:態度を正すこと)を図ります。
さらには実子を廃嫡すると、当時幕府で権勢をふるっていた老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)の6男を養子の「雄貞」(かつさだ)として迎えており、これに藩政を継がせることで幕府との関係を強化して財政援助を得ようとしました。
しかし、結果的にはこのことによって幕府に対する出費はさらに増えてしまい、財政はさらに悪化することとなります。雄貞に家督を譲って以降は、隠居の身となっていた雄年ですが、雄貞が早世すると雄年の甥でまだ幼少だった「義苗」(よしたね)に跡目を継がせて、実際の藩政は雄年自身が握りました。
しかし雄年は、綱紀粛正を図った藩主時代とは異なり、趣味の相撲興行を行なうなど派手な生活を送っていて、結局藩の借金を膨らませることになってしまいます。
雄年の死後に実権を握った義苗は、質素倹約に励み産業振興を図ると共に「臨時準備積立法」を制定。年間225俵の米を1割2分の利息付きで13年間に亘って積み立てることで、1,500両の金利収入を得ています。
これらによって義苗は、雄年の作った9,800両の借金を1,400両にまで削減。このことから義苗は「菰野藩中興の名君」と呼ばれています。
そうした尽力もあって菰野藩では、明治維新まで一度たりとも一揆がなく、また土方家は外様としては珍しく、一度も移封されることなく13代、270年以上に亘ってこの地を治め続けたのです。
「相良藩」(さがらはん)は、江戸中期以降になって、遠江国榛原郡相良(現在の静岡県牧之原市)に置かれた譜代藩です。
相良はかつて、「徳川家康」(とくがわいえやす)が、趣味の鷹狩のため「相良御殿」を造営した地。
江戸前期には、「天領」(てんりょう:江戸幕府の直轄地)や「掛川藩領」とされましたが、1710年(宝永7年)に、「本多忠晴」(ほんだただはる)が1万5,000石で入封したことにより、独立した形で立藩されました。
忠晴は、「徳川四天王」として知られる「本多忠勝」(ほんだただかつ)を祖とする平八郎家から派生した陸奥本多家「忠以」(ただもち)の系列にあたる良血で、文武両道の名君であったと伝えられています。
相良御殿跡地に藩庁を置き、1758年(宝暦8年)には、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が1万石で入封。意次の父「意行」(おきゆき/もとゆき)は、紀州の足軽から旗本にまでなった人物で、徳川吉宗の8代将軍就任に伴って江戸に入り、息子の意次も9代将軍「家重」(いえしげ)の小姓に抜擢されました。
意次は、言語不明瞭だった家重の言葉を聞き分けられるよう腐心したことで、信頼を厚くします。度々の加増を受けて、ついには大名にまで出世。家重の死後も、10代将軍「家治」(いえはる)からの重用を受け、天守閣を築く許可を得て「相良城主」となると共に、度重なる加増により5万7,000石の大名にまで出世しました。
そうして老中にまで取り立てられた意次は、贈収賄が横行する「金権政治」と批判されることも多いですが、それまでの「重農主義」から「重商主義」への転換や、「長崎貿易の制限の緩和」などによる幕府財政の立て直しの功績も大きく、「田沼時代」と呼ばれるほどの権勢を握ったのです。
相良藩政においても、「年貢増徴を戒める」との家訓に従ったことで、領内農民からは年貢が軽いと喜ばれました。
また、東海道藤枝宿から相良に至るまでの街道を整備。これはのちに、「田沼街道」と呼ばれます。さらには、養蚕や製塩などの殖産にも励み、藩の財政を安定させたのです。
しかし、「明和の大火」や「浅間山の大噴火」、「天明の飢饉」などが相次ぐと、幕府の財政悪化と共に、意次の評判も低下。最大の庇護者であった家治の死後は、老中「松平定信」(まつだいらさだのぶ)の粛清に遭い、失脚して、強制的に隠居処分となってしまいます。
さらには、意次の家督を継いだ孫の「田沼意明」(たぬまおきあき)も、陸奥下村藩へ移封され、相良藩は廃藩。天領とされました。
それでも松平定信の死後、1823年(文政6年)には、老中「水野忠成」(みずのただあきら)の推挙と「徳川家斉」(とくがわいえなり)の尽力により、意次の4男「意正」(おきまさ)が、相良に1万石で復帰を許されます。
これにより、1868年(明治元年)に、新政府によって廃藩とされるまで、田沼家による治政が続いたのです。
加賀国江沼郡大聖寺地方を領有した藩。
戦国時代から安土桃山時代にかけては、「豊臣秀吉」に仕え、「小早川秀秋」の家臣から独立大名となった「山口正弘[宗永]」(やまぐちまさひろ[むねなが])が領しましたが、「関ヶ原の戦い」で西軍に与すると、居城の「大聖寺城」(だいしょうじじょう)は、加賀藩「前田利長」の攻撃を受けて陥落。
宗永は自害して、以後大聖寺は加賀藩の帰属となりました。なお一国一城の令により、このとき大聖寺城は取り壊されています。
そののち、1639年(寛永16年)になって加賀3代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が隠居する際、3男の利治に7万石を分封する形で大聖寺藩が成立します。
利治は、鉱山の開発に注力し、領内に金山や銀山、銅山を発見すると共に、この際に藩領の久谷村で良質の陶土が見つかると、藩士「後藤才次郎」(ごとうさいじろう)を有田焼で名高い佐賀の有田村へ技能習得のために派遣。これがのちの九谷焼の生産につながっていきました。
明治期になると、九谷焼は主要な輸出品目とされ、磁器の制作技術がなかったヨーロッパでは「白い金」と呼ばれて黄金を超える価値を誇ったと言われています。1979年(昭和54年)には、この一帯が「九谷磁器窯跡」として国の史跡に指定され、現在は利治と後藤の顕彰碑が建てられています。
3代藩主「前田利直」(まえだとしなお)は、家督を継ぐ以前から5代将軍「徳川綱吉」の寵愛を受け、外様でありながら奥詰となり、譜代と同格の待遇を得ました。
藩主となってからも、綱吉の側近ということで江戸定府(参勤交代を行なわず、江戸に定住する将軍や藩主及びそれに仕える者のこと)となり、「生類憐みの令」の際には、江戸郊外(現在の大久保、中野一帯)16万坪に犬小屋290棟、子犬の養育所459ヵ所、犬の日除け場295棟を造る幕命を受けたのです。
この膨大な経費の捻出に、藩邸の消失という事故も重なって、財政は窮乏。藩主不在の領内では、利直の重用する若手家臣の「村井主殿」(むらいとのも)と先代からの老臣である「神谷守政」との対立が激化しました。
これが修復不可能な状態にまで至ると、宗藩(そうはん:宗主的立場にある藩)である加賀藩の裁定を仰ぐこととなり、結果、村井は公金使い込みの咎により切腹処分に。神谷守政も、その悪政により宗藩に送還されています。
1709年(宝永6年)には、利直の弟で、大聖寺藩から1万石を分封され新田藩主となっていた「前田利昌」(通称・采女利昌)が、「寛永寺」で行なわれた綱吉の法会において、大和柳本藩主「織田秀親」(おだひでちか)を刺殺する事件を起こしました。
法会の席で、前田利昌が織田秀親と共に、朝廷からの使者への御馳走役に任じられた際に、秀親から多数の失礼な言動で恥辱を与えられたことが原因だと言われています。
その結果、利昌は切腹。新田藩は廃藩となり、一時天領とされたのち、大聖寺に戻されることとなりました。
湿地を利用して、同心円状四重の堀(円郭式城郭)を配した、全国的にも珍しい形状を特徴とする「田中城」。
元々は、1537年(天文6年)、「今川家」が築き、当初は「徳之一色城」(とくのいっしきじょう)と呼ばれていました。
1570年(永禄13年)に、「武田信玄」が駿河へ侵攻し攻略。改修し「田中城」と改名したことからはじまります。そののち、1582年(天正10年)に織田信長により武田一族が滅亡。徳川家康が田中城を攻略し、以降、徳川家の城となったのです。
1601年(慶長6年)に、「酒井忠利」(さかいただとし)が現在の静岡県藤枝市を中心とする「田中藩」(たなかはん)の藩主として、田中城に入り立藩。藤枝宿を城下町に組み込むなどして、藩政の確立に取り組みました。
忠利が武蔵国川越へ移封となってから、度々、藩主家が入れ替わりましたが、1730年(享保15年)に、「本多正矩」(ほんだまさのり)が「沼田藩」(ぬまたはん:現在の群馬県)からの領地替えで入封すると、明治維新まで7代139年にわたって、本多家が同地を治めたのです。
東海道の要衝で、その守りを任されただけあって、歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たします。田中藩主になることは、幕政参加への登竜門のひとつであったと言うことができるのです。
本多家の時代に開設された藩校「日知館」(にっちかん)は、水戸藩の「弘道館」(こうどうかん)と共に「武道の二関」と呼ばれ、兵学、弓術、剣術、馬術、砲術、槍術、柔術などを教える武術の総本山として知られました。
また「徳川家康が倒れた場所」としても知られているのです。鷹狩りを趣味とする家康は、周囲を湿地に囲まれて水鳥が多く飛来した田中城をたびたび訪問。
1616年(元和2年)1月21日、記録に残る中では8度目の訪問となったときのこと、家康は田中藩の用意した好物の「鯛の天ぷら」を食べました。真偽は不明ですが、このとき珍しい食し方を教わり、そのおいしさから「大鯛2枚」、「甘鯛3枚」を平らげたとの記録があります。
しかしその夜に、激しい腹痛に襲われた家康は、それからおよそ3ヵ月の間病床に伏し、同年4月17日、駿府城において没しました。
こうした経緯から「家康は鯛の天ぷらにあたって死んだ」と巷間で伝えられてきましたが、食中毒であれば死去までの時間がかかり過ぎています。そのため近年の研究によると、鯛の天ぷらはあくまでもきっかけに過ぎず、当時の家康はすでに末期の胃ガンであったというのが定説となりつつあるのです。
なお田中藩は、飛び地として現在の千葉県柏市の北部を領有していた時期があり、戦前には田中藩の名前に由来する「田中村」が存在しました。
現在の「柏たなか駅」や「柏市立田中中学校」にその名残をみることができます。これは人々が「本多氏」の善政を惜しんで、その名を残したためだとも言われているのです。
「津藩」は、伊勢国安濃郡安濃津(いせのくにあのうぐんあのうつ/あのつ:現在の三重県津市)に置かれた藩です。
伊勢国は、鎌倉時代から「藤原南家」(ふじわらなんけ)の一族である「長野工藤氏」(ながのくどうし)の支配下にありました。しかし、戦国時代になると、南北朝時代に南朝の忠臣であった「北畠氏」(きたばたけし)の末裔「北畠具教」(きたばたけとものり)が、勢力を伸ばすようになったのです。
1567~1568年(永禄10~11年)前後より進められた「織田信長」の伊勢侵攻に際しては、北畠、及び長野工藤の両氏で対抗しましたが敗北。そして、信長の弟「信包」(のぶかね)が長野工藤家の養子に入る形で、伊勢安濃津の地を治めることとなりました。
そののち、信包が秀吉の命により近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)へ移ると、秀吉側近の「富田知信」(とみたとものぶ)が5万石で「津城」(別名:安濃津城)へ入城。その死後に家督を継いだ知信の息子「信高」(のぶたか)は、「徳川家康」に接近を図り、「関ヶ原の戦い」では東軍に与しました。しかし、西軍の攻撃に屈した信高は津城を明け渡し、剃髪して高野山(こうやさん)へ逃れています。
関ヶ原の戦いのあと、信高は家康によって藩主への復帰を果たしました。そして1608年(慶長13年)、伊予「宇和島藩」(うわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)へ移封となっています。
信高と入れ替わりに、伊予「今治藩」(いまばりはん:現在の愛媛県今治市)藩主だった「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が、伊賀(いが:現在の三重県西部)1国10万石と伊勢国安濃郡・一志郡(いちしぐん:現在の津市)2郡の10万石、そして「今治城」(いまばりじょう)周辺にあった越智郡(おちぐん)2万石を飛び地とした、計22万石で入封。
これ以降津藩では、1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)まで、藤堂家による治政が行なわれたのです。
高虎は、「浅井長政」(あざいながまさ)の足軽から始まって、仕官先を転々としながら秀吉、家康らからの信任を得て、大名までに上り詰めた才人。一時期出家して高野山に入ったものの、その有能さを惜しんだ秀吉が還俗(げんぞく:1度出家して僧侶になった者が、再び俗人に戻ること)させたほどでした。
10代藩主の「高兌」(たかさわ)は名君の誉れ高く、藩政刷新の範を提示。86万両に上る藩債を処理するために倹約生活を励行し、自身も率先して木綿を着用するなど全般的な生活費を削減。
その一方で、90歳以上になる高齢者への養老米の給付や善行者への表彰、孤児や独居老人の救済、子だくさんな生活困窮家庭への養育費補助などの施策を次々に実施。この仁愛主義に溢れた善政により領民からは大いに慕われ、高兌が病に伏した際には、多くの人々がその回復を寺社仏閣に祈願したと伝えられています。
津藩主14人中4人が、分家であり同藩の支藩であった「久居藩」(ひさいはん:現在の三重県旧・久居市、合併により津市)で藩主の経験を積んでから津藩主になっていました。これは分家を使った、津藩独自の「人材育成システム」とも言えるのです。
1868年(慶応4年/明治元年)の「鳥羽・伏見の戦い」で当初津藩は、「薩摩(さつま:現在の鹿児島県鹿児島市)、長州(ちょうしゅう:現在の山口県萩市)と会津(あいづ:現在の福島県会津若松市)、桑名(くわな:三重県桑名市)の私闘にはかかわらない」と中立の姿勢を取り、淀川(よどがわ)の台場の守備に就いていました。
川を挟んで同じく台場を守る旧幕府軍は、津藩を味方と考えていましたが、旧幕府軍攻撃の勅命が下ると、津藩はいっせいに砲撃を開始。これにより旧幕府軍は総崩れとなり、勝敗が決定したのです。
旧幕府軍の将兵達は、何度も主君を替えながら戦国時代を渡り歩いた藩祖・藤堂高虎を引き合いに出して、「藩祖の薫陶(くんとう:品格や人徳の力で人を感化し、立派な人間になるように導くこと)著しい」、「裏切り上手」、「藤堂の犬侍」などと、津藩のことを皮肉っています。そしてこの裏切り行為は、津藩の汚名として、後世にまで語り継がれることになりました。
ここで取り上げる「鳥羽藩」(とばはん)は、現在の三重県南東部・志摩半島に位置した地域を治めた藩のことであり、「鳥羽・伏見の戦い」の京都市南区・上鳥羽とは別です。
初代藩主は、戦国時代に織田水軍の将を務めた「九鬼嘉隆」(くきよしたか)。当時、最強を謳われた毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船で打ち破ったことで、その勇名を天下に轟かせました。
「関ヶ原の戦い」で、嘉隆は西軍として参戦。東軍に与(くみ)した子の守隆(もりたか)と分かれて戦いましたが、これは父子の間に諍(いさか)いがあった訳ではなく、どちらが敗れても九鬼家が存続できるようにと嘉隆が図った作戦だったのです。
東軍の勝利後、守隆は、「徳川家康」に父の助命を嘆願して認められましたが、これを伝える使者が到着する前に、嘉隆は自害してしまいました。
これは、家臣の「豊田五郎右衛門」が九鬼家の存続のためにと考えた上で促した策でしたが、父の死を知った守隆は激怒。五郎右衛門をノコギリ挽きで斬首して、晒し首に処してしまいます。守隆の死後には、跡目争いが勃発。幕府の裁定により、九鬼家は分裂のうえ、移封とされました。
代わって入った内藤家も、3代藩主・忠勝(ただかつ)が4代将軍・家綱(いえつな)の法会の席で、丹後「宮津藩」(みやづはん:現在の京都府)藩主の「永井尚長」(ながいなおなが)を殺害したことで切腹・改易となります。
内藤と永井は、江戸の屋敷が隣り合っていたことから、いわゆるご近所トラブルがあり、もともと犬猿の仲だったのです。
「大法会」(だいほうえ:大規模な法会)の前日、老中筆頭より「内藤家は僧に食事を振る舞うこと」と書状が発せられましたが、これを永井が握り潰します。当日になって、食事の無いことを僧が騒ぎ立てたため、面目を潰された内藤忠勝が永井尚長を切り付けてしまったという訳でした。
このあとは、天領を経て、次々と藩主が入れ替わります。落ち着いたのは、1725年(享保10年)に、「稲垣昭賢」(いながきてるたか)が入封してからのことです。以降は、稲垣家が代々この地を治めることとなりました。
1841年(天保12年)には、時の農政学者「佐藤信淵」(さとうのぶひろ)が、鳥羽藩の財政を調査した「鳥羽領経緯記」の中で、「鳥羽港は日本総国に於て実に海路の要枢なり」と記述。鳥羽港は、文政年間の港の番付表「国々港くらべ」においても関脇に位置付けられていて、このあたりにかつての「九鬼水軍」(くきすいぐん)の名残が感じられます。
幕末、鳥羽・伏見の戦いでは、藩兵が幕府方に加わったことで、新政府軍は江戸滞在中だった藩主の「稲垣長行」(いながきながゆき)の討伐を企図しましたが、長行が弟の長敬(ながひろ)に家督を譲って謹慎。戦闘に参加した部隊長らは永禁固、さらには軍資金として1万5,000両を提供する完全降伏の姿勢を見せたことで、許しを受けています。
1639年(寛永16年)、「加賀藩」(かがはん:現在の富山県、石川県)3代藩主の「前田利常」(まえだとしつね)が隠居する際、次男の「利次」(としつぐ)に婦員郡百塚(ねいぐんひゃくづか)の地10万石を分封することを幕府に願い出て、これが認められたことにより「富山藩」(とやまはん:現在の富山県)が成立しました。
名前は富山ですが、その領知は神通川流域に留まり、つまり領地は現在の富山県の中央部だけで両端は加賀藩に属していたことになります。
利次が城の修築、城下町や領内交通網の整備、新田の開発などを推進して藩の基礎を固めると、その次男で2代藩主となった「正甫」(まさとし)は、自身が病弱だったことから薬学、本草学、医術を奨励。
1690年(元禄3年)のこと。ある大名が江戸城内で突然腹痛を起こした際、そこに居合わせた正甫が自ら開発に携わった合薬「反魂丹」(はんごんたん)を飲ませたところ、腹痛はピタリと治まったそうです。居並ぶ諸大名はその効果に驚いて、即座に正甫に反魂丹を大量注文し、これがいわゆる「富山の薬売り」の起源となったとする伝承もあります。
そののちは藩を挙げて「反魂丹役所」を設置し、特産となった富山売薬の保護と統制に力を入れました。売薬による収入は、度重なる水害と、加賀から押し付けられる形で引き受けた家臣団の高額俸禄によって、常に逼迫していた藩財政に大きく寄与することになったのです。そんな正甫の功績をたたえた銅像が、現在も富山城址公園に建っています。
また、3代藩主「前田利興」(まえだとしおき)の時代には、今も名物として知られる「マス寿司」が誕生しました。
当時の富山城下においては人形浄瑠璃(軽躁芝居と称されていた)が大人気を博していて、1766年(明和3年)には、「清水定舞台」なる常設舞台で、3年間の人形浄瑠璃の興行許可が出されたとの記録があります。
8代藩主「前田利謙」(まえだとしのり)が妹を伴って人形芝居「竹田からくり」を見物するために、一般客の入場を禁じたお触れも残されているとのこと。
また、最近では2009年(平成21年)にも、富山藩で代々「十村役」(大庄屋)を務めていた岡崎家の蔵書に、「義太夫節」(ぎだゆうぶし)の詞章が書かれた版本が数多く含まれていたことが発見されていて、同家当主がこれを稽古していたことがうかがえます。
2015年(平成27年)には、現在の東京大学本郷キャンパス内にある富山藩江戸藩邸を発掘調査した際、100を超す地下室の存在が発見されたことでも話題となりました。その一部は、火災の際の荷物の緊急避難用であったと見られているのですが、それだけにしては数が多過ぎるため、いったい何の目的であったのか、調査が続けられています。
15世紀に築かれ、城主不明だとされていたものの、「今川氏」が築城したとも言われる「曳馬城」(ひくまじょう)。
1570年(元亀元年)に、「徳川家康」(とくがわいえやす)が居城し増改築をした上で、「曳馬=馬を引く」では敗戦の意味となり縁起が悪いとの理由から、名前を「浜松城」(はままつじょう)と改めました。かつてこの地にあった地元豪族の荘園「浜松荘」が、その由来となっています。
「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)では、「武田信玄」(たけだしんげん)に大敗した家康が、命からがら逃げ帰り、一か八かで浜松城の城門を開け放つ戦略「空城の計」(くうじょうのけい)を行なうと、追手の「武田軍」はそのただならぬ様子を警戒して、引き返したと言われています。
1586年(天正14年)に、家康が居城を駿府に移してからは、豊臣家の重臣「堀尾氏」が城主となり、1601年(慶長6年)には、徳川譜代の「松平忠頼」(まつだいらただより)が5万石で入封して、「浜松藩」(はままつはん:現在の静岡県)が立藩されました。しかし、以後も激しく藩主は交代し、江戸256年の間に、12家22名を数えたのです。
ただしこの交代の多くは、藩主が幕閣として取り上げられたことによるもので、浜松城は別名「出世城」とも呼ばれていたと言われています。
そんななかでも、露骨な出世目的で浜松藩主となったのが、のちの老中「水野忠邦」(みずのただくに)。忠邦は、1812年(文化9年)に、「唐津藩」(からつはん:現在の佐賀県)の藩主となりましたが、その5年後には、同藩が長期にわたって長崎警備の任務を負うことから、それが出世の弊害になると判断して、幕府に浜松への転封を願い出てこれを実現したのです。
いくら浜松藩が幕府の任が少ないとはいえ、唐津藩25万3,000石から浜松藩15万3,000石への減封はあまりに異例のこと。
忠邦個人にとっては出世の道でしたでしょうが、家臣の俸禄に影響することは必至であり、抗議のため家老の自死があったと言われています。
またこのとき、唐津領の一部が天領に召されていて、これが忠邦から幕府への賄賂であったとも言われているのです。
老中になってからの忠邦は、「天保の改革」1830年~1844年(天保元年から天保15年)を行ないましたが、厳しい改革は庶民の怒りを買って「水野は叩くに[忠邦]持ってこいの木魚だ」と、寺院から持ち出した木魚を打ち鳴らしながら歌う様子があちらこちらで見られました。
そうして改革が失敗に終わり失脚すると、暴徒化した江戸市民が水野の屋敷を襲撃したのだとも言われています。「為政者として必要なのは思いやりの心であることを、水野の人生は教えてくれるのである」※「歴史読本」2014年(平成26年)1月号。
浜松藩主は忠邦の長男「忠精」(ただきよ)に継がれましたが、1845年(弘化2年)には、父の失脚に伴い、「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)へと懲罰的移封となりました。なお、このとき水野家は、領民からの借金を返さないまま移ろうとしたために、激怒した領民達による大規模一揆が勃発。次の領主となった「井上正春」(いのうえまさはる)の調停により、なんとか収まりました。
1868年(明治元年)、井上家2代藩主「井上正直」(いのうえまさなお)は、徳川宗家16代当主「徳川家達」(とくがわいえさと)が、駿河・遠江・三河を領する「駿府藩」(すんぷはん:現在の静岡県)の藩主になったことにより、上総「鶴舞藩」(つるまいはん:現在の千葉県)に移封。これにより浜松藩の名は消えることとなったのです。