260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである中国・四国地方の「高松藩」(たかまつはん)[香川県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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12万石 | 讃岐國 (香川県) |
高松城 | 松平[水戸]家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 生駒家 | 生駒親正 |
17.3万石 | 外様 |
2. 松平[水戸]家 | 松平頼重 |
12万石 | 親藩・御連枝 |
「豊臣秀吉」が四国平定後、「生駒親正」(いこまちかまさ)は、讃岐国(現在の香川県)17万1,800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与しました。
「関ヶ原の戦い」において、親正は西軍に付きましたが、嫡男「一正」が東軍に与したため、本領安堵。
親正は一正に家督を譲って隠居し、一正のあとは正俊が襲封(しゅうほう:諸侯が領地を受け継ぐこと)。正俊は、津藩主「藤堂高虎」(とうどうたかとら)の娘を正室としたのです。
1621年(元和7年)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が跡を継ぎましたが、若年であったため、外祖父の藤堂高虎が後見となり、高虎は藤堂家家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせました。
1625年(寛永2年)、小法師は元服して「高俊」を名乗ります。高虎は、生駒家一門の家老「生駒将監」(いこましょうげん)、「帯刀」(たてわき)父子の力を抑える目的で、藤堂家の家臣「前野助左衛門」と「石崎若狭」を家老に加えさせました。
1630年(寛永7年)、高虎が死去し、藤堂家は息子の「高次」が家督を継ぎ、生駒家の後見もそのまま引き継ぐことになると、外様である前野と石崎は、高次の意向を背景に権勢を振るいだします。
1633年(寛永10年)に、生駒家一門の家老・将監が亡くなると、前野と石崎は勢いづき、高俊は生来暗愚であったため、藩内は大混乱。家中は帯刀派と前野・石崎派に分断されました。
帯刀は藤堂家に対して、前野と石崎の専横(せんおう:わがままで横暴な振る舞い)を繰り返し提訴。前野と石崎は、ことの顛末を幕府に訴えましたが、幕府は帯刀派に対しては、主人に対して忠心あるとして諸大名家へお預け、前野・石崎派に対しては、審議中に病死した前野助左衛門を除き、石崎若狭をはじめとした4人は切腹、主だった者達も死罪となったのです。
そして高俊に対しては、家中不取り締まりを理由に城地を没収、出羽矢島1万石に転封されました。これを「生駒騒動」と呼びます。
この騒動で伊予国3藩が分割統治となり、1642年(寛永19年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)の長男「松平頼重」(まつだいらよりしげ)が12万石で入封、高松藩が誕生しました。頼重は、西国諸藩の動静を監察する役目を幕府より与えられたと言われています。
頼重は入封すると、1644年(寛永21年)、「矢延平六」(やのべへいろく)に命じて高松城下に本格的な上水道の敷設事業を行ない、溜池を造成するなど、水利が悪い土地を整備。塩田開発も奨励し、藩財政は安定していましたが、幕末期に財政は逼迫してしまいました。
5代藩主「頼恭」(よりたか)は、「平賀源内」(ひらがげんない)を起用して、城下の「栗林荘」(現在の栗林公園)に薬草園を造りました。
また、医師の「向山周慶」(さきやましゅうけい)に製糖技術を学ばせて白糖の製造を可能にし、讃岐和三盆糖の製造技術が確立。こういった業績により、頼恭は、高松藩中興の藩主として称えられています。
幕末期は、宗家である水戸藩が尊皇に傾きましたが、藩主「頼聡」(よりとし)の正室・千代が「井伊直弼」(いいなおすけ)の娘という立場から苦しい立場に。
1868年(慶応4年)「鳥羽・伏見の戦い」では、旧幕府軍であったため、朝敵となってしまいます。高松藩の庇護を受けていた京都の「興正寺」は高松に使者を出し、責任者を処罰し新政府に恭順の姿勢を見せることを進言。藩主と前藩主が謹慎し、高松城は無血開城されたのです。
のちに新政府への軍資金12万両の献上と引き換えに宥免(ゆうめん:罰を軽くするなどして罪を許すこと)されました。
1600年(慶長5年)、豊臣時代に伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)で7万石を領した戦国武将「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、「関ヶ原の戦い」での活躍により、20万石を加増。今治市内にあった国分山城に移り、初代「今治藩」(いまばりはん:現在の愛媛県)の藩主となりました。
ところが国分山城は、中世の山城で、城下町の造営が不便。そのため2年後今治浦にて、近世城郭と城下町の建設に着手し、1604年(慶長9年)、今治城の普請(土木工事)が完成。これが、現在の今治市街地となる城と城下町の礎となるのです。
1608年(慶長13年)、高虎は「伊勢国」(いせのくに:現在の三重県大半)、「伊賀国」(いがのくに:現在の三重県北西部)にて22万石を加増されて領地替えとなり、「津藩」(つはん:現在の三重県)へ転出となりました。
越智郡2万石が残されていたため、養子の「高吉」(たかよし)が城主となり、この地に残りましたが、1635年(寛永12年)、伊賀国名張に高吉が領地替えとなり、藤堂家の統治が終わります。同年、「伊勢桑名藩」(いせくわなはん:現在の三重県桑名市の一部)より、「松平定行」(まつだいらさだゆき)が「伊予松山藩」(いよまつやまはん:現在の愛媛県松山市)15万石に転封となり、同時にその弟「定房」(さだふさ)が、伊勢長島7,000石より3万石に加増され、今治に入ります。定房は、1665年(寛文5年)に、「江戸城大御留守居役」に任ぜられたことにより、役料として「武蔵国」、「下総国」、「常陸国」から合わせて1万石を加増され、4万石となったのです。
2代藩主「定時」(さだとき)は遺言として、嗣子「定陳」(さだのぶ)に定陳の弟「定直」(さだなお)に対して関東領地のうち5,000石を分知するよう残したことにより、石高は3万5,000石となりました。1698年(元禄11年)には、関東領地5,000石が収公となり、伊予国内の宇摩郡5,000石を代替として与えられています。
そのあと、久松松平家が維新まで統治。「塩」と「白木綿」が名産で、藩の財政を支えた産業として挙げられます。塩田開発を積極的に行ない、白木綿の生産を奨励したのです。なお、木綿織の技術は、現在でも評判の「今治タオル」に受け継がれています。
7代藩主「定剛」(さだよし)は、農業生産の安定化や地域格差の是正に尽力し、1805年(文化2年)、藩校の前身となる講書場を構えました。1807年(文化4年)には、講書場を拡充し藩校「克明館」(こくめいかん)としたのです。
江戸前期には安定した藩政でしたが、後期は大規模な災害が重なって、次第に窮乏。そのような中で、最後の藩主10代「定法」(さだのり)は、西洋式の法制を整備。軍備を洋式に改革し沿岸に砲台を建造するなど開明的な人物で、時勢を見極めようと京に駐在し、幕府・勤王派の間の仲介などを行ないました。1865年(慶応元年)の「第二次長州征伐」では、幕府軍敗退を契機に、将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)に中止を進言しながら、情勢を見極めた上で、朝廷側に付くことになるのです。
「鳥羽・伏見の戦い」では、新政府軍として参戦。いち早く京に兵を進め、御所の警護を行ない、そのまま藩兵の一部は官軍として甲府、江戸、奥州へと転戦しました。これは今治藩の宗家であり隣藩でもある伊予松山藩が、将軍家の親族であるがために、佐幕を通したのとは相反する行動でした。
1868年(明治元年)、大政官布告により松平氏を返上し、久松姓に復姓。1871年(明治4年)には、廃藩置県により今治県となり、松山県、石鉄県を経て愛媛県に編入されます。1884年(明治17年)、子爵として久松家は華族に列したのです。
伊予国(現在の愛媛県)の大半を所領にした親藩。藩庁は松山城に置かれました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍・徳川氏に与した「加藤嘉明」(かとうよしあき)が20万石で立藩。
1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩42万石に加転封され、同年、加藤に代わって出羽国上山藩より「蒲生忠知」(がもうただとも)が24万石で入封しましたが、跡継ぎが無く死去したため、蒲生氏は断絶。1635年(寛永12年)、伊勢国桑名藩より松平定行が15万石で入封し、久松松平氏による藩が維新まで続きました。
伊予松山藩の江戸藩邸は、幕府から預かりを命じられていた赤穂浪士10名が1703年(元禄16年)2月に切腹した地でもあります。
気候は温暖、地味(ちみ:土壌)も肥え、海産物にも恵まれ、松平定行が広島から牡蠣を移植したり、製塩業を起こしたりと殖産に力を入れました。しかし、干ばつや洪水に見舞われることが多く、財政を豊かにするまでには至らず、特に5代藩主・定英の1732年(享保17年)に起きた「享保の大飢饉」では、領民の餓死者は3,500人に達したのです。甚大な被害を受けたものの、この餓死者の中に藩士がひとりもいなかったため、定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ、謹慎処分が下されたのです。
江戸後期になると、繊維製品や瓦生産などがようやく利益を出すようになり、財政は持ち直したかに見えましたが、12代藩主・勝善が1784年(天明4年)に落雷で焼失した松山城天守を1854年(安政元年)に再建するなど、財政難を脱出することはできなかったと言われています。
4代藩主・定直は俳句好きで、それが藩士達にも広まり領内での俳諧が盛んになりました。この文化的土壌が、明治になって「正岡子規」(まさおかしき)や「高浜虚子」(たかはまきょし)を輩出する要因になったと言えます。
幕末は、親藩のため幕府方に付き「長州征伐」では先鋒を任されましたが、その出兵により藩の財政はさらに悪化。「第二次長州征伐」では、防備の薄い周防大島を攻撃して住民への略奪・暴行・虐殺をしたため、萩藩の恨みをかい高杉晋作に反撃をされています。
そのあと、鳥羽・伏見の戦いでは14代藩主・定昭が幕府方として大坂を警備していたところ、「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が江戸に引き上げたと知り、定昭達も帰国。この戦いにより朝敵として追討されることとなりました。
一時期は籠城して抗う姿勢を見せており、城内では先代・勝成の「恭順論」と藩主・定昭の「抗戦論」が対立。様々な思惑が交差するなか藩論を統一すると、萩藩の攻撃を受ける前に城を明け渡し、最後は高知藩に占領されました。このため新政府に対しては15万両を捻出して献上、藩主・定昭は蟄居して先代藩主・勝成を再勤させ、重臣達の蟄居・更迭などを条件にようやく赦され、松山城は返還されたのです。
そのあと、明治政府の命により「松平」の姓から旧姓である「久松」に復しました。なお、17代藩主・定武は銀行勤務などを経て、1951年(昭和26年)に愛媛県知事に就任。
江戸にあった伊予松山藩邸は、1924年(大正13年)まで「松方正義」(まつかたまさよし)公爵が住居として使っていましたが、1932年(昭和7年)より駐日イタリア大使館の敷地となっています。
「伊予吉田藩」(いよよしだはん)は、伊予国宇和郡(いよのくにうわぐん:現在の愛媛県宇和島市吉田周辺)を領した「宇和島藩」(うわじまはん)の支藩です。
宇和島藩の初代藩主「伊達秀宗」(だてひでむね)の死後、1657年(明暦3年)に5男・宗純(むねずみ)が3万石を分知されて立藩。三河国の「吉田藩」(よしだはん:現在の愛知県)と区別するため、伊予吉田藩と呼ばれました。3万石分知の経緯については諸説ありますが、秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が没するまで支出していた隠居料3万石を、宗純のために分知したと一般的には知られています。
しかし、一方では2人の兄が早逝し、突然世継ぎとなった兄・宗利(むねとし:秀宗の3男)を妬んだ宗純が、陸奥「仙台藩」(せんだいはん:現在の宮城県)分家の「伊達宗勝」(だてむねかつ:政宗の10男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺書を偽造した説もあるのです。
当時の秀宗の病状は非常に重く、筆を執ることもままならない状態であったとして、宗利は仙台藩2代藩主「伊達忠宗」(だてただむね)に、疑念を呈する書簡を送っており、ついには彦根藩主「井伊直孝」(いいなおたか)の仲裁が入り、3万石の分知はなんとか果たされましたが、以後、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って、激しく対立することとなります。両藩の確執は、ある騒動を機に、仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続きました。
騒動とは、宗純が病に倒れた際、たまたま領内に「土佐藩」(とさはん:現在の高知県)の浪人「山田仲左衛門」が医者として滞在していたため、陣屋に呼び、宗純の診察をさせたところ、たちまち病が全快したことに起因します。このできごとにより、文武にも通ずる仲左衛門を高く評価した宗純は、100石を知行、さらに200石を加増し重用。そののち、仲左衛門は宗純を説き、財政改革と称して高禄の譜代重臣達の改易を繰り返させるなどしたため、仲左衛門と譜代勢力が反目し、家中は混乱を極めました。
そして騒動は、仲左衛門の暗殺未遂から本家筋の仙台藩への直訴へと発展していくことになり、最後は仲左衛門が仙台藩へお預けとなったことで、ようやく事態は収拾したのです。これを「山田騒動」と呼びます。
事件の処理に宇和島藩が深く関与することで、伊予吉田藩と宇和島藩は和解。宇和島藩はこのことをきっかけに、さらに一歩踏み込んで、伊予吉田藩への干渉を強めたとも言われています。事実、7代藩主・宗翰(むねもと)は宇和島藩主・村寿(むらなが)の子であり、また、8代藩主・宗孝(むねたか)も宇和島藩主・宗城(むねなり)の実弟で、いずれも養子として藩主を継いでおり、名実ともに支藩となったと考えられる節があるのです。
伊予吉田藩は、享保の大飢饉によって大被害を受け、さらに幕府の公役負担などにより財政が著しく逼迫します。したがって、重税を強き、製紙の専売化などを行ないましたが、これに領民が反発。1793年(寛政5年)に「武左衛門一揆」が起こります。
これは、伊予吉田藩における最大の一揆でした。結果、伊予吉田藩は製紙の専売を取りやめることになり、1794年(寛政6年)には、藩校「時観堂」を創設し、「森退堂」を登用したのです。
幕末においては、8代藩主・宗孝が、実兄である宇和島藩8代藩主・宗城と不仲だったことから佐幕派として行動し、1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」でも幕府方として行動したため、罪を問われかけます。しかし、兄の仲裁により、家督を甥で婿養子の宗敬(むねよし)に譲ることを条件に新政府より許されたのでした。
1608年(慶長13年)、伊勢津藩5万石の藩主「富田信高」(とみたのぶたか)が、「徳川秀忠」から宇和郡10万1,900石を与えられて宇和島藩が立藩。
ところが、1613年(慶長18年)、信高の正室の兄弟である「坂崎直盛」(さかざきなおもり)が甥の「宇喜多左門」(うきたさもん)と対立。寵愛していた美童をめぐる争いであり、直盛が家臣に命じて美童を斬り捨てる事件が起き、その直盛の家臣を左門が斬って逐電(ちくでん:逃げて行方をくらますこと)し、叔母にあたる信高の正室を頼って信高に庇護されます。直盛は左門の引渡しを求め、大御所・徳川家康と将軍・秀忠に訴え、家康・秀忠同席の前で直盛が勝訴した結果、信高は改易(かいえき:武士の身分を剥奪して屋敷・所領などを没収すること)となりました。
1614年(慶長19年)、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島10万石を与えられ、1615年(慶長20年)、「宇和島城」に入城し伊達家が統治を開始。こちらをもって、藩の始まりとする説もあります。
秀宗は、「独眼竜」と称された仙台藩主「伊達政宗」の庶長子(しょちょうし:側室等の正室でない女性から生まれた長男)であり、当初は政宗の世子(せいし:跡継ぎの子)でした。しかし、政宗と正室「愛姫」との間に「忠宗」(ただむね)が生まれたことで立場が微妙に。そこで政宗は、秀宗の身が成り立つよう徳川家に嘆願したところ、幕府は「大坂冬の陣」での政宗の戦功と秀宗の忠義を大いに評価し、宇和島藩を与えたのです。
こうして宇和島藩伊達家は、仙台藩の支藩ではなく、新規に国主格大名として取り立てられました。2代将軍・秀忠は、「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ようにと下知(げじ:上から下へ指図をすること)したと言われていますが、外様勢力の中でも大国であった伊達家を東西で分断する意図は明白だったと言えます。
宇和島藩は、秀宗が入封するまで短期間に領主、藩主がめまぐるしく代わっていたため、藩は疲弊し、入封当初の藩政は前途多難で財政も行き詰まっていました。秀宗は宇和島入封にあたり、政宗から創業資金を黄金3万両(6万両説あり)借用していましたが、1617年(元和3年)頃には返済について藩論が紛糾。
かつて政宗に仕え、政宗より秀宗への目付を任され、さらには徳川家との調整役も兼任していた藩惣奉行「山家公頼」(やんべきんより)は、「政宗隠居料」の名目で、毎年3万石を仙台伊達藩に返済することとし、1618年(元和4年)には宇和島城下の北口に仙台藩の役所を置いたのです。そのあと18年間、1635年(寛永12年)まで創業資金の返済にあたりました。
ただし、政宗は1636年(寛永13年)に死去するまで隠居しておらず、この措置は事実上、宇和島藩領を仙台藩に分知したようなもので、これにより、宇和島藩士の多くが減俸を余儀なくされたのです。
さらに秀宗は浪費癖もあったようで、山家公頼は一向に改まらない秀宗の浪費を宗家の政宗に報告し、政宗より諫状(かんじょう:過ちを改めるよう申し付ける書状)を出させています。
のちにこういった遺恨が、藩を揺るがす事件へと発展していくこととなったのです。
1620年(元和6年)、宇和島藩は、幕命により「大坂城」の石垣工事を担当することに。山家公頼と同じく、伊達政宗より命を受け秀宗に付けられていた侍大将の「桜田元親」(さくらだもとちか)は、山家と共に普請奉行として大坂に赴きました。
その際、工事の進捗報告について齟齬(そご:食い違い)が生じ、山家の施策であった政宗隠居料により、減俸を余儀なくされた反山家派の中心人物・桜田の讒言(さんげん:事実を曲げ、人を貶めるために悪口を言うこと)で、山家は弁明のため宇和島に帰国して謹慎。
すると、秀宗の命令を受けた桜田一派により山家とその息子ら一族は殺害されたのです。事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当。これがのちに「和霊騒動」(われいそうどう)と呼ばれた事件。そのあと、桜田元親も変死、宇和島を大地震や飢饉が襲い、秀宗の嫡子も相次いで早世するなど、山家公頼の祟りと恐れられます。1653年(承応2年)には、山家公頼の祟りを抑えるため「和霊神社」(われいじんじゃ)が建立されました。
幕末期の8代藩主「伊達宗城」(だてむねなり)は、前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策を実行。「戊辰戦争」では新政府軍参謀兼務に任命されましたが、徳川慶喜が朝敵になると薩長の陰謀であるとして「山内容堂」(やまのうちようどう)と共に、議定(ぎじょう:明治時代初期における政府の官職)を辞任したのち、非戦中立の立場を採りました。
この伊達宗城こそ、のちに「幕末の四賢侯」として名を轟かせた名君のひとりでした。
「大洲藩」(おおすはん)は現在の愛媛県大洲市、伊予市近辺を領した外様藩。
「関ヶ原の戦い」後も「藤堂高虎」の領地で、1608年(慶長13年)に、高虎は伊勢国津藩に転封となりましたが、大洲は高虎預かりの地のままでした。同年9月になって、淡路国「洲本藩」(すもとはん:現在の兵庫県)より「賎ヶ岳七本槍」のひとり、「脇坂安治」(わきざかやすはる)が5万3,000石で入封し、立藩するに至ります。
ところが、2代藩主「安元」が、1617年(元和3年)に信濃国「飯田藩」(いいだはん:現在の長野県)に転封となり、「加藤貞泰」(かとうさだやす)が同年、伯耆国「米子藩」(よなごはん:現在の鳥取県)より6万石で入封。
1623年(元和9年)、跡目の届け出をしないまま貞泰が急死したことにより、長男「泰興」(やすおき)が将軍・徳川秀忠に御目見し相続を許されます。その際、弟の「泰但」(やすただ:のちの直泰[なおやす])は幕府より1万石分知の内諾を得て「新谷藩」(にいやはん:現在の愛媛県)を成立しましたが、泰興はこれを認めようとしなかったため、そのあとしばらく対立しました。結局、1639年(寛永16年)に、正式に藩内分知となることで決着します。
1642年(寛永19年)に陣屋が新谷に完成。藩内分知は本来、陪臣(ばいしん:家臣の家臣を指した呼称。また「家来」とも言う)の扱いですが、新谷藩だけは幕府より大名と認められた唯一の例でした。
加藤家には代々、好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とします。
初期の大洲藩からは陽明学者「中江藤樹」(なかえとうじゅ)が、さらに江戸後期においては蘭医「シーボルト」に師事した医師「三瀬諸淵」(みせもろぶち)、国学者「矢野玄道」(やのはるみち)など、有名学者を数多く輩出しました。
大洲和紙、砥部焼(とべやき)、蝋が名産で、おだやかな気候、肱川(ひじかわ)の清流に恵まれ、地味ではありますが安定した藩政に終始します。
紙は古くから大洲の名産でしたが、「大洲和紙」と呼ばれる半紙は、1688~1704年(元禄年間)に「宗昌禅定門」(しゅうしょうぜんじょうもん)俗名:善之進(ぜんのしん)が越前奉書の技術を導入したことから確立され、そののちの藩の主要産業として財源の一翼を担いました。現在でも大洲和紙は、薄くて強く、漉きむらがないと評判で、書道用紙として書家から愛用されています。
幕末期になると、いち早く西洋兵制を取り入れ、他の藩よりも尊皇思想に傾倒し、藩論は早くから勤王で一致していました。「坂本龍馬」が運用し沈没衝突事件で有名になった「蒸気船いろは丸」を所有していたのはこの藩で、船舶は海援隊に貸し出されていた物です。
少数ではありましたが、勤王藩として1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、警備する攝津西宮へ長州藩兵を隠密に上陸させ、戊辰戦争でも武成隊による甲府城警備や奥羽討伐など、少数ながらも新政府側に与し活躍。明治天皇の東京行幸(事実上の遷都)においては、行幸行列の前衛を務めています。
1871年(明治4年)、廃藩置県により旧大洲藩領を管下とする大洲県が設置され、加藤家は華族に列しました。同年11月の第1次府県統合で大洲県が廃止され、旧宇和島県、旧吉田県、旧新谷県と合併して宇和島県となります。そののち、神山県を経て愛媛県に編入されました。
1884年(明治17年)、華族令により、大洲加藤家は子爵を授爵されます。
「岡山藩」(おかやまはん)は、備前国と備中国の一部(現在の岡山県の大半)を領した外様大藩です。
最初に入封したのは豊臣秀吉の甥で、毛利一族の養子になった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)。「関ヶ原の戦い」での東軍への寝返りの代償に、徳川家康から与えられました。
しかし、その僅か2年後に、秀秋は狂死。跡目がいなかったため、改易(かいえき:身分剥奪、領地没収)となったのです。
そののち、1603年(慶長8年)「姫路藩」(ひめじはん:現在の兵庫県)藩主「池田輝政」(いけだてるまさ)の2男「池田忠継」(いけだただつぐ)が、28万石で岡山に入封。1613年(慶長18年)には10万石の加増を受け、38万石となりましたが、1615年(元和元年)に忠継が無嗣子で没したため、弟の淡路国由良城主「忠雄」(ただかつ)が、31万5,000石で入封します。
しかし、1632年(寛永9年)忠雄が没し、嫡子「光仲」(みつなか)が3歳で藩主に。そこで、山陽道の重要な拠点である岡山を、幼少の身に任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えになりました。
池田氏、なかでも、忠継・忠雄が優遇された背景には、家康の娘「督姫」(とくひめ)が、輝政に嫁いでおり、その子が忠継・忠雄であったことが大きかったようです。
代わって、「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)の「池田家宗家」と領地を交換する形で、従兄弟の「池田光政」(いけだみつまさ)が岡山藩主となり、そのまま維新まで池田家宗家が藩主を務めました。
光政は、姫路藩の2代藩主「池田利隆」(いけだとしたか)の長男。母は2代将軍「秀忠」の養女で「榊原康政」(さかきばらやすまさ)の娘「鶴姫」(つるひめ)です。
光政は儒教を信奉し、陽明学者「熊沢蕃山」(くまざわはんざん)を招聘。1641年(寛永18年)、全国初の藩校「花畠教場」(はなばたけきょうじょう)を開校しました。なお、花畠教場については学校ではなく「会」であり、最初の藩校は1664年(寛文4年)の「石山仮学館」であるという説もあります。
1669年(寛文9年)には「岡山藩藩学」(おかやまはんはんがく)が開設。さらに1670年(寛文10年)には、日本最古の庶民の学校「閑谷学校」(しずたにがっこう)も開かれ、教育の充実と質素倹約を旨とする、「備前風」と言われる政治姿勢を作り上げました。
土木事業では、「津田永忠」(つだながただ)を登用。干拓などの新田開発や治水工事を積極的に推し進め、また産業振興も大いに奨励します。このような実績を重ねたため、光政は水戸藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)、会津藩主「保科正之」(ほしなまさゆき)と並び、江戸時代初期の「三名君」(さんめいくん)として賞賛されているのです。
2代藩主「綱政」(つなまさ)は、引き続き津田永忠を登用し、児島湾で大がかりな干拓を行ない、洪水対策としては百間川や倉安川の治水工事なども推し進めました。
そして1700年(元禄13年)には、「偕楽園」(かいらくえん:現在の茨城県)、「兼六園」(けんろくえん:現在の石川県)と共に、「日本三名園」とされる大名庭園「後楽園」(こうらくえん:現在の岡山県岡山市)を完成させています。
江戸中期までは、専売の塩や瀬戸内の海産物などに支えられて、経済は好調を維持し続けましたが、江戸後期は経済が悪化して、1856年(安政3年)には大規模な一揆が起こったほどです。
幕末期の9代藩主「茂政」(もちまさ)は、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の9男で将軍「慶喜」(よしのぶ)の実弟であったため、尊皇と佐幕の中間的な「尊攘翼覇」(そんじょうよくは)という思想を持ち続けました。
「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、慶喜に追討令が出たことから、茂政は隠居。養子の「章政」(あきまさ)に家督を譲ります。最後の藩主・章政は、戊辰戦争において新政府軍に与し、藩軍を関東・奥羽・箱館に送りました。そうしたなか「神戸事件」(こうべじけん)が起き、対応に苦慮したのです。
「西条藩」(さいじょうはん)は、伊予国新居郡(いよのくににいぐん:現在の愛媛県西条市周辺)を領していた、「紀州藩」(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市)の支藩。
1636年(寛永13年)、伊勢国・神戸藩(いせのくに・かんべはん:現在の三重県鈴鹿市神戸)5万石の領主であった「一柳直盛」(ひとつやなぎなおもり)が、1万8,000石の加増を得て西条に転封。
これにより西条藩が立藩されましたが、入封の途中に直盛が大坂で没してしまいました。この時点ですでに次男・直家(なおいえ)には、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)加東郡(かとうぐん)内で5,000石を分与されていたため、遺領は6万3,000石となり、3人の息子によって分割されることとなったのです。
直盛の長男・直重(なおしげ)は、3万石を相続して西条藩主になり、次男・直家は2万3,000石(伊予・川之江藩[いよ・かわのえはん:現在の愛媛県四国中央市])と、すでに譲られていた5,000石(播磨・小野藩[はりま・おのはん:現在の兵庫県小野市])を合わせて2万8,000石、3男・直頼(なおより)は1万石(伊予・小松藩[いよ・こまつはん:現在の愛媛県西条市小松町])と分けられ、それぞれに大名となりました。
なお、伊予川之江藩は、1642年(寛永19年)には藩主・直家が病死し、直家自身には嫡子がおらず、養子を迎えて家督を継がせようとしましたが、末期養子の禁に抵触すると言う理由で認められなかったのです。そのため、伊予の領地は幕府に没収され「公儀御料」(こうぎごりょう:江戸幕府の直轄地)となり、わずか6年で消滅します。
しかし、幸いにも、直家の娘と養子・直次(なおつぐ)との結婚は許されたため、播磨小野藩のほうは、廃藩置県まで存続しました。
直重の子・直興(なおおき)は、弟の直照(なおてる)に5,000石を分与し、西条藩は2万5,000石になりましたが、1665年(寛文5年)、直輿は失政と職務怠慢を理由に改易され、西条藩は一時、公儀御料になっています。
5年の空白ののちに、1670年(寛文10年)、紀伊国紀州藩初代藩主「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の3男「松平頼純」(まつだいらよりずみ)が、西条藩を紀州藩の支藩として、3万石で入封。これは、紀州徳川家が絶えた場合の備えでした。
1711年(正徳元年)、頼純の跡を継いで「松平頼致」(まつだいらよりよし)が藩主となります。しかし、1716年(正徳6年)、紀州徳川宗家の紀州藩主「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が江戸幕府の将軍となったため、頼致が宗家の家督を継ぐこととなり、「徳川宗直」(とくがわむねなお)と名を改め、紀州藩6代藩主となったのです。
西条藩は、頼致の弟である「松平頼渡」(まつだいらよりただ)が継いで3代藩主となりました。頼渡は、儒学者の「山井崑崙」(やまのいこんろん)を登用して文学の奨励を行なったり、「天野喜四郎」(あまのきしろう)らを招き、多喜浜塩田(たきはまえんでん)などの開発に尽力したりしています。なお松平家は、「定府」(じょうふ)と呼ばれる参勤交代を行なわない大名です。
この藩を一躍有名にした事件が、1694年(元禄7年)に起きた「高田馬場の決闘」(たかたのばばのけっとう)。藩士の「菅野六郎左衛門」(すがのろくろうざえもん)と「村上庄左衛門」(むらかみしょうざえもん)が高田馬場で果し合いを行ない、「堀部武庸」(ほりべたけつね:通称・安兵衛[やすべえ])の助太刀で評判になった一件です。
この決闘には虚実入り乱れ、様々な逸話が誕生しています。江戸市中の瓦版では、安兵衞の活躍が「十八人斬り」として評判を呼んだのです。安兵衛の評判を聞き付けた「赤穂藩」(あこうはん:現在の兵庫県赤穂市)浅野家(あさのけ)の家臣「堀部金丸」(ほりべかねまる)が安兵衛との養子縁組を望み、主君の「浅野長矩」(あさのながのり)も養子縁組の許可を出します。そして1702年(元禄15年)、赤穂浪士としての安兵衛による、吉良邸への討ち入りにつながるのです。
松平家は、徳川家の親藩でありながら、維新の際はいち早く新政府に恭順し、官軍として「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)に参加しました。1869年(明治2年)の版籍奉還と同時に藩主「松平頼英」(まつだいらよりひで)は藩知事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で免官され、東京府へ移っています。
「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)の藩祖は「毛利輝元」(もうりてるもと)であり、「関ヶ原の戦い」で西軍総大将を務め、家康と敵対しています。敗戦後、輝元の領国は安堵されたものの、8ヵ国から2ヵ国にまで減封されました。
幕末に至るまで、その財政が窮乏に瀕していた長州藩。税収を上げることで、その打開策としましたが、極端な税収強化が農民の反発を呼び、大一揆が勃発します。そこで藩主・敬親/慶親(たかちか/よしちか)は、切り札として「村田清風」(むらたせいふう)を起用したのです。
清風による藩政改革では、対民衆政策のみならず、藩による事業も展開。その政策が功を奏して積極的な富国強兵を推進することができ、武器鋳造にも力を入れ、財政と軍事面で強固なものになっていったのです。
しかし、海に面する長州藩は、欧米列強の船が海上を通過するたびに、危機感を抱いていました。力を持たなければ藩の未来はない、という確固たる信念のもと、長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所に、京都で政局に影響を与える存在になったのです。
また、長州藩士「吉田松陰」(よしだしょういん)の私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)など多くの才能ある藩士を輩出し、これが倒幕運動につながっていきます。そして、「孝明天皇」(こうめいてんのう)も攘夷派であったことから、天皇の命を得て、幕府の対抗勢力として戦うことになりました。
しかし、孝明天皇への批判が相次ぐと、天皇は手の平を返し、長州征伐の勅命を下します。一転して朝敵(ちょうてき:天皇、及び朝廷に敵対する勢力)となってしまった長州藩は、巻き返しを図るも負け続けることになり、久坂玄瑞など将来有望な人材を亡くす結果となりました。
その後、幕閣(ばっかく:大老や老中など、幕府の最高首脳部)が長州再征討を命じましたが、その理由は、まず長州藩の息の根を止め、それから「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)を倒し、幕府の安泰を図ったためだと伝えられています。
長州藩では、その藩校として「明倫館」(めいりんかん)が有名です。日本三大学府のひとつと言われており、「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの「木戸孝允」[きどたかよし])や吉田松陰など、名だたる人材がこの藩校の出身です。
長州藩は、幕末には討幕運動、及び明治維新の中心となり、明治新政府に政治家が多数輩出しています。薩長による討幕運動の推進によって、1867年(慶応3年)、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を行ない、江戸幕府は崩壊しました。そして王政復古が行なわれると、長州藩は、薩摩藩と共に明治政府の中核となったのです。
1868~1869年(慶応4/明治元~2年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、その局地戦となる「上野戦争」(うえのせんそう)などで、長州藩士の「大村益次郎」(おおむらますじろう)が活躍しています。
1869年(明治2年)、版籍奉還(はんせきほうかん)によって藩名を「山口藩」(やまぐちはん)に改称。また、戊辰戦争で名を馳せた奇兵隊などの諸隊は、度重なる局地戦で5,000名ほどにまで膨れ上がっていましたが、戦争が終わるとそれだけの軍事力は不必要になっていました。さらには、大所帯となった奇兵隊を維持するだけの財源が不足していたこともあり、約半数にまで隊員を減らして、常備軍として再編を行なったのです。そのため、強制的に脱退させられた兵士達が立てこもる事態になり、それを制圧したのが木戸孝允。長州藩の最後が、同藩による戦いであったというのも悲惨な結末だと言えます。
1871年(明治4年)、山口藩は支藩の「徳山藩」(とくやまはん:現在の山口県周南市)と合併。同年8月29日の廃藩置県(はいはんちけん)で山口藩は廃止され、「山口県」となりました。毛利家当主・元徳(もとのり)は藩知事を解任されたあと東京へ移り住み、「第十五国立銀行」頭取や貴族院議員などを歴任。1884年(明治17年)には、公爵に列せられています。
美作国西北条郡(みまさかのくにさいほくじょうぐん)、現在の岡山県津山市周辺を領し、小豆島の一部も飛び地として領していました。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」が終わり、美作国は「備前岡山藩」(びぜんおかやまはん:現在の岡山県)藩主の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が領していましたが、1602年(慶長7年)、跡継ぎがいない状況で死去し、廃絶となってしまいます。
翌年、「信濃川中島藩」(しなのかわなかじまはん:現在の長野県)より「森可成」(もりよしなり)の子「忠政」(ただまさ)が美作1国18万6,500石で入封し「津山藩」(つやまはん:現在の岡山県)となりました。この地は、従来「鶴山」(つるやま)と呼ばれていましたが、忠政により「津山」となります。
1697年(元禄10年)、4代藩主「森長成」(もりながなり)が死去したため、末期養子として2代藩主「長継」(ながつぐ)の12男で、叔父にあたる家老「関衆之」(せきあつゆき)のもとに養子に出されていた「衆利」(あつとし)が迎えられました。ところが、衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中の伊勢で幕政を批判して発狂します。これにより幕府は、美作津山藩を召し上げることとなりますが、長継が隠居の身ながら健在で跡継ぎも多くいたため、長継に「備中国西江原藩」(びっちゅうのくににしえはらはん)2万石の再襲を許し、家名存続を認めました。
この措置によって支藩の「津山新田藩」(つやましんでんはん:現在の岡山県)1万5,000石を「播磨国三日月藩」(はりまのくにみかづきはん:現在の兵庫県佐用郡)1万5,000石に、「宮川藩」(みやがわはん:現在の滋賀県長浜市)1万8,700石を「備中国新見藩」(びっちゅうのくににいみはん:現在の岡山県新見市)1万8,000石にそれぞれ転封。
1698年(元禄11年)、「結城秀康」(ゆうきひでやす)を祖とする越前松平家宗家の「松平宣富」(まつだいらのぶとみ)が10万石で入部したことで親藩となります。それ以後、廃藩置県まで松平氏の治める地となったのです。
1721年(享保6年)に家督を継いだ「浅五郎」(あさごろう)が11歳で夭折。御家門であるため改易こそ免れたものの、石高は半減され5万石となり、藩の格式も下がってしまいました。その後、8代藩主に11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の14男である「斉民」(なりたみ)を迎えたことにより、石高を10万石に戻します。
松平氏の統治期は政情が不安定であり、入部した年には「元禄一揆」(高倉騒動)があり、1726年(享保11年)には「山中一揆」、幕末期には「改政一揆」と歴史に残る大きな一揆が頻発しました。5代藩主「松平康哉」(やすちか)は、名君と呼ばれた「上杉治憲」(うえすぎはるのり)や「細川重賢」(ほそかわしげかた)らに倣い、「大村庄助」(おおむらしょうすけ)や「飯室武中」(いいむろたけなか)など家柄にとらわれない有能な人材を登用し、藩政にあたらせ、一定の成功を収めます。しかし、1783年(天明3年)の「天明の大飢饉」による米価高騰のあおりで領内では「打ちこわし」が起きるなど、決してすべてが上手くいったわけではありません。
なお、康哉の時代である1765年(明和2年)に藩校「修道館」(しゅうどうかん)が設けられ、教育改革にも力を注ぐことで、学問の盛んな藩としても知られていました。
幕末から明治にかけては、藩医だった宇田川家・箕作家(みつくりけ)から優れた洋学者を輩出し、日本の近代科学発展の礎を築きます。法律家「津田真道」(つだまみち)は「皇紀紀元」(こうききげん)を確立したことで知られ、内閣総理大臣となった「平沼騏一郎」(ひらぬまきいちろう)もこの藩の出身です。
最後の藩主である9代藩主「松平慶倫」(まつだいらよしとも)は、1855年(安政2年)、斉民の隠居により家督を相続。1863年(文久3年)には国事周旋の内勅を受け上京し、朝廷と幕府との調停にあたり、8月18日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥を行ないます。1871年(明治4年)、廃藩置県により津山県となり、北条県を経て岡山県に編入されました。
「徳島藩」(とくしまはん:現在の徳島県)は、阿波と淡路両国を領した大藩で、「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)が1585年(天正13年)に「豊臣秀吉」によって、阿波に封ぜられたことにより始まります。
蜂須賀氏の祖は、「織田信長」に仕えて秀吉の与力となった「蜂須賀小六」(はちすかころく)です。
「大坂夏の陣」に参陣した「蜂須賀至鎮」(はちすかよししげ)の戦功により、淡路国7万石を加増され、これにより阿波・淡路2国25万石の徳島藩が成立しました。
吉野川流域に産する阿波藍は、藩最大の国産品で全国に市場をもち、1804年(文化元年)のピーク時には27万6,000俵を産出。藩経済を大きく支えていましたが、実際には阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると40数万石になるとも言われています。阿波の特産である藍作が最盛期を迎えるのは、五代藩主「綱矩」(つなのり)の時代、1688年(元禄元年)以降です。
藩の政策として、「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)の時代より重農主義を採り、特に藍作地域に対しての勧農政策を実施していました。1625年(寛永2年)に、藍方役所を設置。藍玉は阿波の特産品となり、元禄期以降は江戸にも及ぶ規模の特産品となっていきます。
ここに目を付けた十代藩主「重喜」(しげよし)は、徳島の阿波商人から、1766年(明和3年)に藍玉の他国への販売を藩の専売制とし、藍玉の相場を握ることに成功。それまで権利を握っていた大坂の問屋たちは幕府に訴え出ますが、ここでも徳島藩が勝つことになります。ただし、重農主義を採ってきたそれまでの藩政策は、商業主義の発展、貨幣の普及に伴い、財政の悪化につながっていくこととなりました。
藩財政を好転させるため、特産の藍を専売制にし、税増収を図っていましたが、これは、小規模小作人を切り捨てるという政策となり、これに藍作人たちが反対。1756年(宝暦6年)、蜂起(ほうき:大勢の者が一斉に行動を起こすこと)に及ぶこととなり「藍騒動」という事態に発展し、改革が頓挫していきます。
また、重喜は、財政改革にとどまらず、藩内における人事改革にも着手。それまで門閥により、高禄者だけが高位に上ることとなり、藩政の沈滞を起こしていたのですが、身分の低い低禄者も高位に就けるように改革を断行します。しかし、この改革も家老「山田織部真恒」(やまだおりべさねつね)などの旧来の高位者たちの猛烈な反対により頓挫してしまいました。
その後も重喜は改革に着手しましたが、この前後の阿波は水害や日照りなど天災が続き、士民の不平不満は高まり、その怒りの矛先が重喜の改革に向かってしまいます。重喜の改革は、決して無謀なものではなかったのですが、どうにも人望に問題がありました。現在で言うパワハラ系上司のようで、説得するより強行するというタイプだったのです。
1871年(明治4年)、廃藩置県により、徳島藩は徳島県となります。その後には、名東県(阿波国・讃岐国・淡路国)を経て、一旦は高知県に編入されるものの淡路島は兵庫県に編入。そして、1880年(明治13年)に、徳島県として再び分離されました。
土佐藩は、戦国時代末期には長宗我部氏が統治していました。
「土佐の出来人」として名高い戦国大名「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)の代には、四国を統一する勢いも見せましたが、「豊臣秀吉」に敗れ、土佐一国の統治となります。
その後、元親の四男、長宗我部氏22代当主「長宗我部盛親」(もりちか)は、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」において西軍に味方し改易に。この合戦において、徳川氏に味方した遠江掛川城主「山内一豊」(やまうちかずとよ)が、土佐国20万2,600石を与えられ、以降、明治時代まで山内氏が治めることとなったのです。
土佐には、面白い逸話が残っており、ここでご紹介します。
サムライのハラキリを最初に見た外国人は、フランス人だと言われています。1868年(慶応4年)正月、泉州堺の街は、「鳥羽・伏見の戦い」における幕府軍の敗走で、大混乱に陥っていました。
無政府状態と化した堺の鎮撫の命(暴動などを鎮めて民衆を安心させよという命令)を受けたのが、土佐藩六番隊隊長「箕浦猪之吉」(みのうらいのきち)でした。これに八番隊隊長「西村佐平治」が合流。箕浦、西村両隊の活躍で、堺の街もようやく秩序を取り戻しつつありましたが、そこへもってきて、また難問がふりかかってきたのです。
フランス兵の一部が大坂に上陸し、酒にまかせて婦女をからかうなどの狼藉の限りを尽くし始めたのでした。
箕浦、西村による再三の退却要請にもかかわらず、フランス兵の傍若無人ぶりは収まる様子もありません。あろうことか、隙を見て道に立ててあった土佐藩の軍旗を面白半分に奪い取り、港の方へ逃げて行ったのです。これに激高した土佐藩士は、ついに抜刀、フランス兵も拳銃で応戦しましたが、結果的にフランス側に11名の死者を出してしまいました。
当然ながら、これは外交問題に発展し、フランス側は抜刀した者全員の処罰を要求。開国間もない日本、しかも「戊辰戦争」の最中で、明治政府の主力の兵は関東に集中しており、とてもフランスと一戦を交える状況にはありません。これに対し、土佐藩は事件に関与した隊士22名の処断を受諾、その代わり、フランス側の立ち会いのもと、古式に則った切腹で行なうことを伝達したのです。
切腹の場は、堺妙国寺と決まりました。トップバッターは箕浦隊長。もろ肌を脱ぎ短刀一閃、フランス兵をにらみつけ「わが切腹を見よ」と叫ぶなり、みごと腹十文字に掻っ捌き果てたと言われています。このとき、箕浦は自分の腹に手を突っ込み、はらわたを掴んでフランス使臣たちの足元に投げつけたとも。さらに隊士の自刃は続きました。時は粉雪散る二月。血だまりにぬめるはらわたからは、湯気が舞い上がったのです。
壮絶なハラキリの図と、隊士の気迫に恐れをなしたフランス使臣はみな蒼白となり、気分が悪くなる者が続出しましたが、席を立つことは許されません。軍艦長「アベル・デュプティ・トゥアール」から切腹中止の声が上がったのは12人目の「橋詰愛平」(はしづめあいへい)がまさに切っ先を腹に立てようとしたところ。結果として自刃は11人で終わりました。くしくもフランス側の死亡者と同数だったのでした。
山内氏は、1884年(明治17年)、華族令により、侯爵に叙任されました。
「関ヶ原の戦い」後、池田氏によって「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)として立藩。
藩庁は因幡(いなば)の「鳥取城」に置き、「久松山城」(きゅうしょうざんじょう)とも呼ばれています。
「池田輝政」(いけだてるまさ)と「徳川家康」の二女「督姫」(とくひめ)の間に生まれた「忠雄」(ただかつ)の家系であることから国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられることとなりました。
因幡・伯耆国(ほうきのくに)の2国を領し、因幡国内に藩庁が置かれ、伯耆国内では米子に城が置かれ、城代家老として荒尾氏が委任統治。また、因幡国内には「鹿奴藩」(しかのはん)と「若桜藩」(わかさはん)の支藩を置きました。
鳥取藩としての藩政改革は、請免制(うけめんせい:その年の豊凶に関係なく、年々定まった免で年貢を課す制度)の立て直し、藩校「尚徳館」(しょうとくかん)の創設、殖産商工政策などの3本柱です。中でも殖産政策は、鉄、綿、木綿などが代表的と言えます。
先頃、鳥取藩家臣「城戸左久馬」(きどさくま)の手紙が発見され、当時の様子が詳細に分かるようになりました。1817年(文化14年)、徳川家との関係は11代将軍「家斉」(いえなり)の子「乙五郎」(おとごろう)を迎えることによってさらに深くなる一方、池田家の血筋にこだわる武士たちからは、乙五郎が跡継ぎとなることへの反発も強かったと言い、城戸の手紙は当時の藩邸の様子を「屋敷が殺気立っていた」と表現しています。
12代藩主「池田慶徳」(いけだよしのり)は15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の兄で、尊王という微妙な立場を取ることになりました。
慶喜追討令が出ると慶徳は、待罪書(まちざいしょ)を提出し隠退を申し出ますが、山陰道鎮撫使(さんいんどうちんぶし)「西園寺公望」(さいおんじきんもち)の仲介もあって復職再勤が許されます。
一時は「薩長土肥因」(さっちょうどひいん)と称されるほど雄藩として注目を集めましたが、藩内では常に尊攘派(そんじょうは)の改革一派と、佐幕派(さばくは)の守旧一派の二極が存在し、藩の実権をめぐって抗争を成していました。
1863年(文久3年)には、京都「本圀寺」(ほんごくじ)で尊王派藩士によって親幕派重臣の暗殺事件が発生。翌年の「禁門の変」(きんもんのへん)で親しい関係にあった「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになりましたが、1868年(明治元年)の「鳥羽・伏見の戦い」、「戊辰戦争」では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦しました。
明治初年には、新田開発により内高(実際の石高)は41万7,000石に達します。1871年(明治4年)の廃藩置県で鳥取県となり、1876年(明治9年)島根県に一時合併されましたが、1881年(明治14年)に鳥取県として再置されました。
また、「近松門左衛門」(ちかまつもんざえもん)の人形浄瑠璃「堀川波鼓」(ほりかわなみのつづみ)は、鳥取藩で現実に起こった事件である、鳥取藩台所役人「大蔵彦八郎」の妻・たねと、京の鼓打「宮井伝右衛門」の密通を主題にしています。
石見国(いわみのくに:現在の島根県西部)は、毛利家の領地でしたが、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に敗れ、周防国(すおうのくに:現在の山口県東南部)と長門国(ながとのくに:現在の山口県西部)の二国へ減封となったために、石見は徳川の直轄領となります。
その後、「津和野藩」(つわのはん:現在の島根県)に「坂崎直盛」(さかざきなおもり)が入ると、坂崎家の管理下に移りました。
1619年(元和5年)、伊勢「松坂藩」(まつざかはん:現在の三重県)より、「古田重治」が石見国の一部、5万4,000石を与えられて入封したことで、「浜田藩」(はまだはん:現在の島根県)が成立します。藩庁が置かれた「浜田城」は、以前は吉川家(きっかわけ)なども陣屋を置いたとされる鴨山(かもやま)に古田氏が築城しました。しかし、築城に際して、鴨という名は城地にふさわしくないという理由で、地名は鴨山から亀山に改められたのです。これにより、城の別称は「亀山城」とも言います。
しかし、2代藩主「古田重恒」(ふるたしげつね)が、1648年(慶安元年)に重臣を斬殺する「古田騒動」を起こし、嗣子(しし:跡継ぎ)もいなかったため、改易されました。
その後、「浅野長治」と「亀井茲政」(かめいこれまさ)が浜田藩を管理しましたが、譜代藩として、1649年(慶安2年)に播磨「山崎藩」(やまさきはん:現在の兵庫県)より、松平[松井]家の「松平康映」(まつだいらやすてる)が5万石で入封。
1759年(宝暦9年)の5代藩主「松平康福」(まつだいらやすよし)のとき、下総「古河藩」(こがはん:現在の茨城県)に転封。
代わって、同地の「本多忠勝」の嫡流である「本多忠敞」(ほんだただひさ)が5万石で入封されますが、これは一族の「本多忠央」(ほんだただなか)が、前年に「郡上騒動」による連座で改易されており、本家もそれに付随して左遷された結果です。1769年(明和6年)、3代藩主「本多忠粛」(ほんだただとし)のとき、三河「岡崎藩」(おかざきはん:現在の愛知県)へ移封されました。
これにより、古河藩から岡崎藩に転封されていた康福が、再度、5万5,400石で再封することとなります。なお、康福は老中としての精勤を賞され、1万石の加増を受けました。
再封後の3代藩主「松平康任」(まつだいらやすとう)の代に、城下の御用商人が朝鮮の鬱陵島(うるるんとう)を拠点として、李氏朝鮮や清、東南アジアとの密貿易を行なっていましたが、藩主がそれを黙認していたことを「間宮林蔵」が告発。康任は老中を罷免され、蟄居(ちっきょ)となります。これは、「竹島事件」と呼ばれ、このため康任は強制隠居となり、4代藩主・康爵(やすたか)は、1836年(天保7年)に陸奥「棚倉藩」(たなくらはん:現在の福島県)へ懲罰的な転封となったのです。
同年、上野「館林藩」(たてばやしはん:現在の群馬県)より、6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)の弟・清武を祖とする松平[越智]家の「松平斉厚」(まつだいらなりあつ)が6万1,000石で入封。石州和紙などの特産品はありましたが、藩財政は苦しく、度重なる改革を断行したにもかかわらず、最後まで藩財政を立て直すことはできませんでした。
水戸徳川家から、養子に入った4代藩主「松平武聰」(まつだいらたけあきら)は、1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」のとき、浜田口を担当しましたが、武聰は病いに臥しており、指揮を取ることができず、「大村益次郎」が率いる長州軍にことごとく撃破されます。
浜田の街に長州軍が入ると、武聰は戦わずして「松江城」(まつえじょう:現在の島根県)へ逃げました。その際、浜田の城下街は焼き払われ、浜田城も灰燼(かいじん)に帰します。武聰は、その後、美作国(みまさかのくに)の飛び地(鶴田領)へ逃れ、この地で「鶴田藩」(たづたはん:現在の岡山県)を興し、「明治維新」を迎えました。
浜田は、「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)が占領し続け、1869年(明治2年)の「版籍奉還」により、同じく長州藩の占領下にあった隣接する旧幕府の石見銀山領と共に「大森県」となります。1871年(明治4年)には、県庁が浜田へ移転され、「浜田県」となり、最終的には島根県に編入されました。
備中国上房郡、現在の岡山県高梁市周辺を領していた譜代藩「備中松山藩」(びっちゅうまつやまはん)。
1617年(元和3年)、因幡国「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)6万石より「池田長幸」(いけだながよし)が、6万5,000石で入封し立藩しました。ところが、1641年(寛永18年)、2代藩主「長常」(ながつね)が無嗣子で死去したため、廃絶してしまうのです。
1642年(寛永19年)に、成羽藩(なりわはん:現在の岡山県)より「水谷勝隆」(みずのやかつたか)が5万石で入封。備中松山藩の政治・経済の基礎、及び松山城の城郭普請などは、この水谷家の時代にほぼ完成したと言っていいでしょう。3代目藩主「勝美」(かつよし)が無嗣子のため、末期養子として「勝晴」(かつはる)を迎えましたが、1693年(元禄6年)に遺領を継ぐ前に死去。勝美の弟「勝時」(かつとき)を立てましたが受け入れられず、3,000石の旗本に減封となったのです。
このとき、松山城の受け渡しには、『忠臣蔵』で有名な赤穂藩主「浅野長矩」(あさのながのり)が任ぜられ、長矩の名代として浅野家家老「大石良雄」(おおいしよしお:通称内蔵助[くらのすけ])が、次の藩主「安藤氏」が来るまでの1年半、備中松山城を管理しました。
なお、城の明け渡しにあたっては、大石は単身で松山城に入り、水谷家家老「鶴見内蔵助」(つるみくらのすけ)と対談に臨み、無血開城にこぎつけたのです。大石と鶴見の名が同じ「内蔵助」であったことから、「両内蔵助の対決」として評判になりました。
水谷氏除封後、1695年(元禄8年)に、上野国「高崎藩」(たかさきはん:現在の群馬県)より「安藤重博」(あんどうしげひろ)が6万5,000石で入封。しかし、その子「信友」(のぶとも)は寺社奉行に任ぜられ、1711年(正徳元年)、美濃国「加納藩」(かのうはん:現在の岐阜県)に転封となってしまいます。
代わりに、山城国「淀藩」(よどはん:現在の京都府)の「石川総慶」(いしかわふさよし)が6万石で入封しますが、1744年(延享元年)に、伊勢国「亀山藩」(かめやまはん:現在の三重県)に転封。入れ代わるように、その亀山藩から「板倉勝澄」(いたくらかつずみ)が5万石で入封し、以後維新まで「板倉家」の所領となったのです。
板倉家の前半期の治世は、高梁川の水運を軸とした製塩事業が盛んで、財政は比較的に安定していました。しかし、後半期、次第に悪化の一途をたどります。
1849年(嘉永2年)に家督を継いだ7代藩主「勝静」(かつきよ)は、農商出身の陽明学者「山田方谷」(やまだほうこく)を抜擢し、方谷の助言のもと財政緊縮、殖産興業に成功。軍制改革も推し進め、成果を得ます。
勝静は幕政も担っており、1862年(文久2年)には老中に昇格、「東禅寺事件」(とうぜんじじけん)に対処し、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の上洛にも随行しました。老中職を一時解かれましたが、1865年(慶応元年)に老中に再任。15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)からも厚い信任を受けました。
しかし、この立場が仇となり、「鳥羽・伏見の戦い」から1週間後には、「備中松山藩」追討令が朝廷から出されます。勝静の方も忠義により旧幕府軍に与し、以後の「戊辰戦争」では旧幕府方として「箱館」まで転戦しました。こうした勝静の行動が、新政府の態度をより硬化させたのです。
危機感を覚えた方谷らの説得を受けて、1869年(明治2年)に勝静は降伏。長男「勝全」(かつまた)と共に、上野国「安中藩」(あんなかはん:現在の群馬県)で禁錮刑に服します。さらに、備中松山藩も石高を2万石に減封。ただ、5代藩主「勝晙」(かつあき)の甥にあたる「勝弼」(かつすけ)の家督相続は認められました。
その後、藩名は「伊予松山藩」(いよまつやまはん:現在の愛媛県)との混同を避けるためとして、「高梁藩」(たかはしはん)と改称されることになります。そして、1871年(明治4年)の「廃藩置県」により高梁県となり、深津県、小田県を経て、「岡山県」に編入されたのです。
江戸時代、安芸国(あきのくに)の広島地方を領有した、広島藩(ひろしまはん:現在の広島県)。
「関ヶ原の戦い」のあと、120万5,000石の「毛利輝元」(もうりてるもと)が長門・萩へ移封され、代って「福島正則」(ふくしままさのり)が、尾張・清洲から49万8,000石で入封して立藩し、「芸州藩」(げいしゅうはん)とも呼ばれました。
正則は、洪水で崩壊した広島城の石垣を無断改修したとの理由で、1619年(元和5年)に、信濃国の川中島藩(かわなかじまはん:現在の長野県)に転封。代わって「浅野長晟」(あさのながあきら)が紀伊藩(きいはん:現在の和歌山県)から入封しました。
浅野氏の祖は、「豊臣五奉行」の一人、「浅野長政」(あさのながまさ)。浅野氏は、瀬戸内海航路の要衝として、木材・鉄・紙などの専売を敷くなど、藩財政の強化と財政の立て直しを図りました。瀬戸内海に面した沿海部では、塩、木綿、畳表、牡蠣(かき)、海苔(のり)を生産。これらは、現在でも有名な特産物として受け継がれています。
「吉良刃傷事件」で大事件を引き起こした、赤穂藩主「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)と呼ばれる「浅野長矩」(あさのながのり)は、広島藩主「浅野綱長」(あさのつななが)の一族。綱長はこの事件を知るや、連座(れんざ:連帯責任で処罰されること)を恐れ、赤穂浅野家の家老「大石内蔵助」(おおいしくらのすけ)に穏便に済ませるよう説得するものの、「赤穂浪士事件」が勃発してしまいます。
しかし、これが世間で英雄視されると、すぐにこれを宣伝に利用するという老獪(ろうかい)な側面を見せました。
江戸時代中期になると、財政は悪化に転じ、第5代藩主「吉長」(よしなが)は、家老から実権を奪還。親政を試みたものの、有能な人材登用や郡制改革である「郡方新格」による藩政改革は反発を招き、1717年(享保2年)3月に大規模な一揆に遭い、失敗します。
しかし、第11代藩主「長訓」(ながみち)は、先代からの藩政改革を受け継ぎ、1862年(文久2年)、「辻将曹」(つじしょうそう)を家老に抜擢して、「文久の改革」を行ないました。
藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化。軍備を近代化し、成功します。2度の「長州征伐」には、広島が征長軍の基地となり混乱しましたが、このとき、長訓は和平に向けて、長幕間の周旋に努めたとされているのです。
1867(慶応3年)には、「土佐藩」(とさはん:現在の高知県)と共に、幕府に「大政奉還」を働きかけ実現しますが、一方で、「薩長倒幕派」とも盟約を結ぶという複雑な動きをみせました。そういった日和見的な立場が、藩としての不信を招き、維新の主流から排除されることになったのです。
ほぼ藩として存在していた間、効果的な藩政改革を行なうことができず、「農民一揆」の対応など、後手後手に回った消極策ばかり。藩の財政は窮乏を極め続け、「廃藩置県」を迎えることとなりました。
現在の島根県安来市広瀬町周辺を領有した「松江藩支藩」(まつえはんしはん)。
この地域は、平安時代末期から鎌倉時代初期に、武将「佐々木義清」(ささきよしきよ)が、「月山富田城」に入城してから、山陰地方の政治・経済の中心地になっていました。
戦国時代は、山陰地方の覇者「尼子氏」(あまごし)が本拠を構え、170年にも及ぶ尼子氏6代の盛衰の舞台となった場所。尼子氏は中国地方の覇権をめぐって周辺諸国と争い、「尼子経久」(あまごつねひさ)の時代に出雲の基盤を作り上げたのです。
尼子氏の居城・月山富田城は天然の地形を利用した、当時最も難攻不落と呼ばれた要塞城。その後、この城をめぐって数々の攻防戦が行なわれ、最終的には尼子氏は「毛利氏」に滅ぼされ、月山富田城は毛利氏の所有となりました。
その後、1600年(慶長5年)以降、毛利氏は周防・長門の2国に減封となり、「堀尾氏」が城主に。しかし、「堀尾忠晴」(ほりおただはる)が松江城に移ったことで、廃城となったのです。
のちにこの地を治める「松平近栄」(まつだいらちかよし)は、松江藩の初代藩主「松平直政」(まつだいらなおまさ)の次男。そもそも近栄は、叔父「直良」(なおよし)の娘婿となり、その相続者になると目されていました。しかし、直良に実子の「直明」(なおあきら)が誕生。これにより、1666年(寛文6年)に、松江藩2代藩主の兄「綱隆」(つなたか)から新田3万石を分与されて、「広瀬藩」(ひろせはん:現在の島根県)を立藩したのです。
当初、松江藩から蔵米が支給。藩政については、文武両道の名君と評され、領民のことをよく考えた善政であったと言われています。
ところが、1682年(天和2年)に近栄は、親族の「高田藩」(たかだはん:現在の大分県)の家中で「越後騒動」が起こると、「姫路藩」(ひめじはん:現在の兵庫県)藩主の「松平直矩」(まつだいらなおのり)と共に、調停役に奔走。しかし、これが将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の勘気に触れることとなり、閉門(へいもん:逼塞よりも重く、蟄居よりも軽い罰)という処分が下ります。さらに知行を半減され、1万5,000石となってしまったのです。
その後、1684年(貞享元年)に、能義郡のうち32村、飯石郡の24村の封地が与えられ、1686年(貞享3年)に5,000石、1694年(元禄7年)に1万石を加増されて、もとの3万石に復活。以後10代、205年間在封しました。
居城は、陣屋(じんや:徳川幕府直轄の建物)でしたが、1850年(嘉永3年)、8代藩主「直寛」(なおひろ)は、1841年(天保12年)に譜代衆取締役となり、功績を立てたことで城主格となったのです。藩政は、おおむね宗藩(そうはん)である松江藩に準じていました。
9代藩主「直諒」(なおよし)は、俳諧、絵画、書道を嗜むなど、多趣味で政治・経済的にも有能な人物。製糸業や製油業、和紙、鋳物、陶器、織物(広瀬絣)などを奨励するなど、善政をしいた名君でした。
10代藩主「直巳」(なおおき)は、1861年(文久元年)、兄「直諒」の死去に伴い、その養子として家督を継ぎます。しかし、兄のような才能には恵まれず、幕末期の政局に耐えられるような人物ではなかったため、藩政は混乱。けれども、家老「岩崎広勤」の手腕により、「医学所」や「洋学所」を設置するなど、人材育成に励みました。
直巳は、1869年(明治2年)の「版籍奉還」で広瀬藩知事となりましたが、1871年(明治4年)の「廃藩置県」で東京に移住。1876年(明治9年)、養子の「直平」(なおひら:松江藩主松平定安の四男)に家督を譲りました。
毛利氏などの有力外様大名に対する「西国の鎮衛」としての役割を幕府によって与えられ、明治維新まで大きな影響力を持つ譜代大名が、歴代配置されています。
江戸時代初期には「福島正則」(ふくしままさのり)によって、安芸国(あきのくに:現在の広島県西半部)と共に49万8,000石で領有されていました。
しかし正則が、「広島城無断修築」の咎により、1619年(元和5年)に改易されると、領地は分割され、安芸、及び備後(びんご:現在の広島県東部)北部・西部は42万石で「浅野長晟」(あさのながあきら)が、備後南部には「徳川家康」の従兄弟で「大坂の陣」で武勲を立てた「水野勝成」(みずのかつなり)が、大和国「郡山藩」(やまとのくに・こおりやまはん:現在の奈良県大和郡山市)6万石から4万石の加増を受けて、10万石で入封することになったのです。
勝成は、すぐに「福山城」と城下町の建設に着手し、福山城は1622年(元和8年)に完成。さらに新田開発や灌漑事業、産業育成を行なうなど藩政の基礎を築き、1626年(寛永3年)、勝成は「従四位下」(じゅしいげ)に昇進。これにより藩領は、相模国愛甲郡厚木村(さがみのくにあいこうぐんあつぎむら:現在の神奈川県厚木市)に飛び地1,000石の加増を受け、計10万1,000石となりました。
1697年(元禄10年)、4代藩主・勝種(かつたね)の急死により、5代藩主・勝岑(かつみね)がわずか2歳で跡を継ぎます。しかし、1698年(元禄11年)に勝岑も死去すると、水野家は改易となってしまったのです。
水野家の断絶により、福山藩の藩領は天領となりました。なお、勝成の曾孫「水野勝長」(みずのかつなが)が能登国「西谷藩」(のとのくに・にしやちはん:現在の石川県七尾市)に1万石で取り立てられ、家名は存続しています。
1700年(元禄13年)、出羽国「山形藩」(でわのくに・やまがたはん:現在の山形県山形市)の「松平忠雅」(まつだいらただまさ)が福山藩に10万石で入封することが決定。受領から9年後の1709年(宝永6年)に、忠雅が福山に入るも、その1年後の1710年(宝永7年)に、伊勢国「桑名藩」(いせのくに・くわなはん:現在の三重県桑名市)に転封となってしまいました。
その後、「阿部正邦」(あべまさくに)が、下野国「宇都宮藩」(しもつけのくに・うつのみやはん:現在の栃木県宇都宮市)から10万石で入封。それから廃藩置県までの161年間、阿部氏が在封したのです。
阿部氏は、代々幕閣(ばっかく:大老や老中など、江戸幕府の最高首脳部)の中枢を目指し、老中を4人、大坂城代を一人輩出しています。そのため、阿部氏歴代藩主は領内に在住することは稀で、他の大名より多くの経費を必要とし、財政は次第に悪化することとなり、領民による一揆を度々招きました。
阿部氏は教育には熱心で、1786年(天明6年)、4代藩主・正倫(まさとも)が藩校「弘道館」(こうどうかん)を開いています。そして、7代藩主・正弘(まさひろ)は1853年(嘉永6年)に、福山と江戸に新たに藩校「誠之館」(せいしかん)を開き、幕末までに「菅茶山」(かんちゃざん/さざん)や「頼山陽」(らいさんよう)をはじめとする、多くの人物が輩出したのです。
また正弘は、25歳で老中首座に就任しており、ペリー来航からの「日米和親条約」の締結など、一連の流れにかかわっています。
1864年(元治元年)、長州征伐に向けて9代藩主・正方(まさかた)が広島に進軍するも、幕府と長州軍の和睦が成立したために引き返したのです。
その後、1866年(慶応2年)には第2次長州征伐に参加。石見国益田(いわみのくに・ますだ:現在の島根県益田市)において、「大村益次郎」(おおむらますじろう)率いる長州軍と戦い敗走。福山藩にとっては、「島原の乱」以来、実に230年ぶりの戦いでありました。しかし、この出兵が財政を直撃し、福山藩は破綻状態に陥ったのです。
大政奉還(たいせいほうかん)のあと、長州軍が福山城に迫ってきました。藩主・正方が、その直前に病死しており、藩の首脳であった儒学者の「関藤藤陰」(せきとうとういん)や、家老「三浦義建」(みうらよしたつ)の奔走で、なんとか長州軍が福山藩の恭順(きょうじゅん:命令に対して、かしこまって従う態度を取ること)を認め、撤兵しています。
西国外様大名の抑えを担った福山藩でしたが、このあとは新政府軍の尖兵(せんぺい:前身部隊の前方や、退却部隊の最後尾など敵軍に近いところで偵察や警戒にあたる小部隊)として、「榎本武揚」(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍と戦うという皮肉な結果となったのです。
「松江藩」(まつえはん:現在の島根県松江市)は、出雲国(いずものくに:現在の島根県東部)を領した親藩。
松江藩が成立する以前は毛利氏の領地で、一族の吉川家(きっかわけ)が、尼子氏(あまごし)の居城としていた「月山富田城」(がっさんとんだじょう)を政庁として、出雲と壱岐(いき:現在の長崎県壱岐市)の2ヵ国を統治していました。
中国地方8ヵ国を有していた毛利氏でしたが、「関ヶ原の戦い」以後、周防(すおう:現在の山口県東南半分)・長門(ながと:山口県西半分)2ヵ国に減封。
それに伴い、吉川家も岩国(現在の山口県岩国市)に移ったため、遠江国浜松(とおとうみのくに・はままつ:現在の静岡県浜松市)で12万石の大名だった「堀尾忠氏」(ほりおただうじ)が、1599年(慶長4年)に隠居して、越前国府中(えちぜんのくにふちゅう:現在の福井県越前市)に5万石の隠居料を得ていた父「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)と共に、出雲・壱岐2ヵ国24万石で入封することに。そして、出雲「富田藩」(いづもとだはん:現在の島根県松江市殿町)を立藩しました。
しかし、1604年(慶長9年)、27歳で忠氏が早世。あとを継ぐ忠晴がまだ5歳であったため、忠晴の祖父・吉晴がその後見として藩主に返り咲きます。吉晴は、「松江城」を築城して城下町の建設を行ない、1611年(慶長16年)、月山富田城から松江城に居城を移し、松江藩が成立したのです。
その後は京極氏を経て、1638年(寛永15年)、「結城秀康」(ゆうきひでやす)の3男「松平直政」(まつだいらなおまさ)が18万6,000石で信濃「松本藩」(しなの・まつもとはん:現在の長野県松本市)より転封。以後出雲一国は、松平(越前)家が領するようになり、同時に「公儀御料」(こうぎごりょう:江戸幕府の直轄地)となった隠岐(おき:現在の島根県隠岐郡)1万4,000石も預かることになったのです。
藩の財政は、年貢米だけでは立ち行かず、早くから専売制を敷き、木綿や朝鮮人参、古代から続いてきた製鉄、馬などを統制。
しかし、それでも洪水や蝗害(こうがい:トノサマバッタやイナゴなどが大量発生することにより起こる災害)などが頻発し、楽な藩財政ではありませんでした。
「不昧」(ふまい:道理に詳しく聡明であり、利欲などに心がくらまされないこと)と号した7代藩主「松平治郷」(まつだいらはるさと)は特に有名な藩主で、先代・宗衍(むねのぶ)の代より藩政改革を行なっていた家老「朝日丹波」(あさひたんば)を引き続き起用。出費を抑えつつ農業政策や治水工事を行ない、特産品を多く栽培することで借金を返し、8万両の蓄財ができるまでになったのです。
すると治郷は、かねての趣味であった茶道に傾倒し「不昧流」を創設。高価な茶道具を買い漁りました。治郷が茶道名器の蒐集(しゅうしゅう)で作り上げた目録である「雲州蔵帳」(うんしゅうくらちょう)や著書「古今名物類聚」(ここんめいぶつるいじゅう)、そして「瀬戸陶器濫觴」(せととうきらんしょう)上中下巻は、現在でも茶道研究の貴重な資料です。
この茶道文化の発展により松江の街は京都、奈良、金沢と並び称される和菓子の名所であり、出雲地方では茶や和菓子に留まらず、治郷が好んだ庭園や工芸品などを、今もなお「不昧公好み」と呼んでいます。
最後の藩主となった10代「松平定安」(まつだいらさだやす)は、先代藩主の「松平斉貴」(まつだいらなりたけ:隠居後、斉斎[なりとき]に改名)が暗愚であったために強制隠居させられ、そのあとを受けて、婿養子として家督を継いだ人物。文武を奨励し西洋学校の創設、フランス人を招いて砲術や西洋医術の導入など、先見の明のある藩主でした。
そして定安は、1866年(慶応2年)、第二次長州征伐で「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)に敗れた石見「浜田藩」(いわみ・はまだはん:現在の島根県浜田市)藩主「松平武聰」(まつだいらたけあきら)を保護しています。しかし、このことにより長州藩が迫ってくると、1867年(慶応3年)、定安は幕府に無断で、長州藩と単独講和を結ばざるを得なくなってしまったのです。
また、1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、新政府軍に与しています。
なお、預かり地となっていた隠岐では、江戸時代の中期から食糧難が常態化。無為無策であった松江藩に対する不信感が高まったことが、1868年(慶応4年)に起こる「隠岐騒動」へつながったのです。その結果、隠岐では自治政府が発足しましたが、1868年(明治元年)、「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)の管理下に置かれました。
丸亀藩は、讃岐国・丸亀に藩庁を置いた外様藩。高松藩主・生駒氏が、1640年(寛永17年)に改易となったあと、讃岐国西部を領す藩として立藩されました。
藩主は翌1641年(寛永18年)に、「山崎家治」が西讃岐に5万石余で入封しましたが、3代藩主・治頼が幼くして病没したため、代わって1658年(万治元年)に京極氏が入封し、播磨国と近江国の一部を加え6万1,000石余りを領したのです。
「京極高中」(きょうごくたかなか)は、1713年(正徳3年)、讃岐丸亀藩主・京極家5代目。1790年(寛政2年)、備荒貯蓄米の法を制定・実施し、1794年(寛政6年)には、藩校「正明館」の規模を拡張しました。1806年(文化3年)には、丸亀港に船泊所の福島湛甫を築くなどの功績があります。
天保年間には、港が整備され、「伊勢神宮」への「お陰参り」に次ぐ庶民の憧れだと言われた「金比羅参詣」などの拠点となり、繁栄。東国や大坂など畿内から、讃州金比羅船と染め出してある船に乗った参詣者は、3~5泊後に丸亀港に上陸し、丸亀街道を通って「金刀比羅宮」にお参りすることになるのです。
また、金比羅参りの土産として団扇が制作され、「伊予竹に土佐紙はりて阿波(あお)ぐれば讃岐団扇で四国(至極)涼し」と歌われたほどに丸亀の名産品となり、現在まで受け継がれています。
1866年(慶応2年)、芝居にもなった「大坂屋騒動」が勃発。この騒動では、藩御用商「大坂屋与吉郎」と、あこぎな商いを手がけた卯兵衛と弥兵衛の番頭に対し、下級藩士は快しとせず、覆面の士、数名が大坂屋を急襲放火、藩の金庫から略奪しました。
一味は遂に不明のまま、斬奸状(ざんかんじょう:悪者を斬り殺すにあたってその理由を記した文書)を執筆した医師「高橋春城」を投獄するにとどまり、幕末藩政の弱体化が窺える事態となったのです。
丸亀藩では、「田岡凌雲」(たおかりょううん)、「土肥大作」(どひだいさく)などの勤王の志士を輩出しており、その影響から藩論は次第に勤王論に傾倒していきました。
6代藩主「京極高朗」(きょうごくたかあきら)は、文学的才能にも秀でており、江戸藩邸内に藩校「集義館」を開校するなど、知識欲は旺盛でしたが、また一方、大の相撲好きでも知られ、大相撲方という役職までつくってしまうほど。江戸詰のある日、「回向院」(えこういん)での相撲観戦であまりの興奮熱狂ぶりに大名としてあるまじき行為と、幕府から相撲観戦を禁止されたというほどでした。
丸亀藩は、1871年(明治4年)の「廃藩置県」により、丸亀県を経て香川県に編入。また、支藩である多度津藩は、倉敷県、名東県を経て香川県に編入されました。