九州地方の藩

高瀬藩(たかせはん)[熊本県] /ホームメイト

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260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである九州地方の「高瀬藩」(たかせはん)[熊本県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。

高瀬藩の概要と歴史

細川家

細川家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
3.5万石 肥後国
(熊本県)
高瀬陣屋 細川家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 細川家

細川利重
細川利昌
細川利恭
細川利寛
細川利致
細川利庸
細川利国
細川利愛
細川利用
細川利永

3.5万石 外様

熊本藩の一支藩であったが、九州の近代化を加速させた

熊本藩の一支藩であったが、九州の近代化を加速させた

もとは「熊本新田藩」(くまもとしんでんはん)と呼ばれ、細川家の治める「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)の支藩でした。

細川家の本姓は源氏であり、清和源氏の名門・足利氏の支流です。南北朝時代には「足利尊氏」に従って発展し、室町幕府管領家に列する有力守護大名でもありました。祖先をたどれば、「応仁の乱」で東軍の総大将を務めた「細川勝元」(ほそかわかつもと)もいます。

熊本藩2代藩主「細川光利」(ほそかわみつとし)の次男「細川利重」(ほそかわとししげ)が、1666年(寛文6年)に、熊本藩主だった兄「綱利」(つなとし)から3万5,000石を分与されて立藩。

立藩とはいえ知行地は持たない、江戸に創設された熊本藩の支藩でした。そのため、貢祖(こうそ)は熊本藩が代行しており、参勤交代を行なわず、藩主と家臣が江戸に常駐する「定府大名」だったのです。

初代藩主である利重は、江戸郊外、現在の戸越公園周辺に領地と下屋敷を持っていました。この下屋敷内の泉水を水源として、1663年(寛文3年)、玉川上水から屋敷まで長大な水路を開削。これが「戸越水路」(とごしすいろ)と呼ばれ、現在の「戸越銀座商店街」の下を流れていたと言われています。

明治維新動乱さなかの1868年(明治元年)春、「鳥羽・伏見の戦い」のあとに、本藩である熊本藩の勧めもあって、支藩は江戸を引き払うこととなりました。

10代藩主「利永」(としなが)を筆頭に、熊本新田藩一行は江戸から肥後高瀬町へ移り住み、商家や寺院に分宿。7月に玉名郡高瀬町の奉行役宅を仮の藩庁とし、藩名が「高瀬藩」(たかせはん:現在の熊本県)へと改称されました。

正式な藩庁は、1870年(明治3年)に、玉名郡岩崎村に建設されましたが、同年9月、版籍奉還に際して藩は維持できたものの、知藩事の任命がなく、同じく熊本藩の支藩であった「宇土藩」(うとはん:現在の熊本県)とともに熊本藩に合併されることとなります。そののち、藩主・利永は東京居住、藩士は熊本藩への所属換えとなり、そのため、高瀬藩という名称はわずか3年使用されただけとなりました。

しかし、約300家族700人が、維新を前に江戸から移住してきたことの意味は大きく、遠く九州の地に、当時最先端であった江戸文化がもたらされたのですから、文化・教育の成長度は加速したと言えます。高瀬藩校を受け継ぎ、1870年(明治3年)には、旧藩士達が自主的に運営する「自明堂」(じめいどう)を設立。1872年(明治5年)には学制により、いち早く小学校として認められました。

女子美術大学の創立者で、美術教育を通して女子の社会的地位の向上に尽くした「横井玉子」や、その甥で英文学者の「戸川秋骨」(とがわしゅうこつ)をはじめ、旧藩士とその子孫からは、わが国の近代化に貢献した人物が多数輩出。玉名の町には今も旧藩士邸があり、当時の文化が遺されています。

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刀剣に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらのページでは「主な江戸100藩(家紋)」のひとつである「高瀬藩」(たかせはん)[熊本県]についてご紹介します。
260年続いた江戸時代には、全国各地に約300近くの藩が存在していました。「主な江戸100藩(家紋)」では、「北海道・東北地方」「関東・甲信越地方」「東海・北陸地方」「関西地方」「中国・四国地方」「九州地方」と6つの地域ごとに、それぞれの主要な藩のデータやエピソードを掲載。各藩の石高や居城、歴代藩主などを掲載しています。
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熊本藩(くまもとはん)

熊本藩(くまもとはん)

加藤清正」は、1582年(天正10年)「本能寺の変」のあと、「山崎の戦い」を経て、「明智光秀」を降した「羽柴[豊臣]秀吉」と「柴田勝家」が織田信長没後の織田家の跡目を争った、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で、「七本槍」と呼ばれる武功を立てました。

さらに、「熊本城」、「名古屋城」、「江戸城」などの築城にも携わります。「朝鮮出兵」では、兵糧尽きた籠城戦を戦い抜いたうえに、虎まで狩り、関ヶ原の戦いの勲功により、肥後熊本に52万石を得て、初代藩主となったのです。

清正の逸話は、枚挙に暇もありませんが、農閑期の民に給金を払って土木・治水事業にも尽力し、いまも熊本県内には実用に使われる遺構が多数あります。治政と武の両方に長けた人物で、当地ではいまも「清正公(せいしょこ)さん」と尊敬される武将です。また、もとは「隈本」であった地名を「熊本のほうが勇ましい」という理由で、「熊本」と改めたという逸話も残っています。

その不遇は、秀吉没後の徳川時代に秀吉の嫡男・秀頼(ひでより)をいかに生き延びさせるかに心血を注いだため、徳川家康からすれば、扱いづらい人物との印象を拭いきれなかった一点です。関ヶ原の戦い後の京都「二条城」で、秀頼を家康に謁見させた帰路、五十齢にして急死。死因は、性病ともハンセン病とも毒殺とも言われています。

熊本城天守閣

熊本城天守閣

清正の嫡子が短命だったため、わずか11歳だった3男・忠広が2代藩主となります。江戸幕府は家督相続に対し、9ヵ条からなる掟書(おきてがき)を示し、支城であった「水俣城」、「宇土城」、「矢部城」などが廃止となり、のちの「一国一城制」によって、最終的には、熊本城と「麦島城」だけが存続することとなりました。

藤堂高虎」が後見人となった際、重臣達に所領の自治を任せたこともあって、領内の統制がきかなくなります。1632年(寛永9年)、徳川家康の孫である「徳川忠長」(通称:駿河大納言)が引き起こした「駿河大納言事件」の連座にて改易され、1万石を与えられて東北・出羽国丸岡に移転させられました。

同年に、「豊前小倉藩」(ぶぜんこくらはん:現在の福岡県)より「細川忠利」が54万石で入り、細川家の統治となります。忠利は、晩年の「宮本武蔵」を「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)に迎え入れたり、「島原の乱」にて武功を挙げたりと藩主として活躍しました。

続く3代藩主・綱利は、「赤穂浪士討ち入り事件」の「大石良雄」らの切腹を任された人物です。8代・重賢(しげかた)は、1755年(宝暦5年)に、「横井小楠」や「井上毅」(いのうえこわし)、「北里柴三郎」を輩出した藩校「時習館」を創設し、翌年には、藩医学校「再春館」も創設しています。時習館は、当時から「体罰否定」思想の精神を明文化しており、のちの学校教育にも大きな影響を与えました。

熊本藩の藩財政は、他藩と同じく窮乏状態でしたが、江戸時代を通じて百姓一揆がなく、領民は安全で豊かな暮らしを送ったと言われています。最後の藩主となった12代・護久(もりひさ)は、1884年(明治17年)に、侯爵に叙任されました。

熊本藩(くまもとはん)

久留米藩(くるめはん)

久留米藩(くるめはん)

「久留米藩」(くるめはん)は、現在の福岡県久留米市に藩庁を置いた藩であり、平安時代末期より、豊臣秀吉の「九州征伐」までの約400年を、藤原北家の流れをくむ草野氏一族が統治していました。

そののち、豊臣政権下から有馬氏の立藩までに、「毛利秀包」(もうりひでかね)、「田中吉政」(たなかよしまさ)が統治し、「有馬豊氏」(ありまとようじ)により立藩となります。

久留米藩には、個性豊かな藩主達がいました。2代藩主「有馬忠頼」(ありまただより)は非道で有名で、あるとき側仕えの小姓が忠頼の機嫌を損ねたところ、忠頼はその小姓を柱に縛り付け、日本刀でその股間を斬り付けたと言います。小姓は家にて養生している際に、兄にそのことを話し、憤った兄と2人、兄弟で主君を討つと決めたのです。

機会は参勤途中の船内で巡ってきます。兄弟で忠頼の洗顔の世話をすることになり、兄が持っている盥(たらい)に忠頼が首を垂れるやいなや、弟が抜刀し、無言のままに忠頼の首を切り落としました。そのまま兄弟は忠頼の首を持って海へ逃走し、2度と見つからなかったと伝えられています。その際に、そばにいた忠頼の長男「松千代」(まつちよ:4歳)も巻き添えを食って死亡。忠頼亡きあと、久留米藩には後継ぎがおらず、藩内で身代わりにできる4歳の男子を見付け出し、後継ぎとすることになりました。

久留米城跡

久留米城跡

子どもは3代「頼利」(よりとし)として成長したのですが、やがて毒殺の憂き目にあいます。わずか17歳のことでした。頼利の血筋を知る家臣が毒殺したのだと言われています。

頼利は先代と違い、大変穏やかな人柄で家臣に慕われていました。大事な香炉を家臣が割ってしまった際にも笑って許したそうです。頼利が急死した際には、聞き付けた藩邸の家臣達が全員で殿中に詰め、頼利の容態を案じたという逸話も残っています。

頼利には「糸姫」(いとひめ)という妻がおり、まだ16歳でした。嫁いでわずか4ヵ月で夫を亡くした糸姫は、跡目の4代藩主に嫁ぐことを勧める家臣達を抑え、「みじか夜の月は枕に残れども消えにし人の影はとまらず」と残すと髪を落として仏門に下り、一生を終えたと言います。

幕末となり、「戊辰戦争」が始まると新政府軍側として参戦。しかし、1871年(明治4年)、新政府軍の「開国和親」に不満を持つ久留米藩内の攘夷派が、攘夷派の公卿、「愛宕通旭」(おたぎみちてる)と「外山光輔」(とやまみつすけ)が明治政府転覆を謀った「二卿事件」(にきょうじけん)と呼ばれるクーデター未遂事件に関与したとして、明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠されます。

1884年(明治17年)、華族令の公布によって、最後の藩主である11代「頼咸」(よりしげ)の子、「頼万」(よりつむ)は伯爵となりました。

久留米藩(くるめはん)

小倉藩(こくらはん)

小倉藩(こくらはん)

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の家臣「森勝信」(もりかつのぶ)が、九州征伐や「肥後国人一揆」などで武功を挙げ、秀吉より「豊前国小倉」(ぶぜんのくにこくら:現在の福岡県北九州市小倉)の6万石を与えられ、「小倉城」(こくらじょう)を築城したのが始めと言われています。

このとき勝信は、秀吉より「森」の名を「毛利」に変えるよう命じられ、以後は「毛利壱岐守」(もうりいきのかみ)を称し、毛利姓となりました。

子息は、「大坂の陣」で活躍した「毛利勝永」(もうりかつなが)。勝永の妻は、大坂の陣で勝永の大坂城入りを励まし、1887年(明治20年)に刊行された「婦女鑑」にて、戦前の「銃後の守り」(じゅうごのまもり:軍隊に入らず間接的に参加した一般市民)の手本として取り上げられた賢女です。

そののち、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属した「細川忠興」(ほそかわただおき)と、東軍として抗戦し続けた父「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)が、その功により、転入。豊後国杵築(ぶんごのくにきつき:現在の大分県杵築市)の18万石から、豊前一国と豊後国の国東郡・速見郡を合わせた、39万9,000石を大幅加増され、「小倉藩」(こくらはん:現在の福岡県)が立藩されました。

小倉城

小倉城

小倉藩と言えば、1612年(慶長17年)に「佐々木小次郎」(ささきこじろう)と「宮本武蔵」(みやもとむさし)の決闘が行なわれた、「巌流島」(がんりゅうじま:現在の山口県)を領していたことでも有名です。この巌流島の決闘が行なわれたのが、細川氏の藩主時代でした。

ところが、2代藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)は、1632年(寛永9年)熊本藩2代藩主「加藤清正」の3男である「加藤忠広」(かとうただひろ)の改易に伴い、54万石を加増され、熊本藩に移封となります。

そこで同年、「徳川家康」の外曾孫にあたる「小笠原忠真」(おがさわらただざね)が、「明石藩」(あかしはん:現在の兵庫県)から移封され、豊前北部15万石を領し、小倉藩主となったのです。以後、西国譜代大名の筆頭となり、「九州探題」のような役割として西国外様大名の抑えを担うこととなりました。

また、巌流島の決闘以降、宮本武蔵も小倉藩に留まり、子息「伊織」(いおり)と共に「島原の乱」などで活躍。小倉藩筆頭家老の職を世襲し続けたのです。

1758年(宝暦8年)には、4代藩主「小笠原忠総」(おがさわらただふさ)が、城内に藩士の文武教練場「思永斎」(しえいさい)を設け、教育の普及に努めます。これが、1870年(明治3年)に開校される藩校「育徳館」(いくとくかん)の前身となりました。

1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」では、小倉藩は小倉口の先鋒として参戦。長州軍により門司が制圧されると、小倉城に火を放ち撤退します。一時は小倉城を奪還しますが、長州側の兵力が増強されると次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われ、一部の領地は1869年(明治2年)まで、長州軍に占領されることとなりました。

1884年(明治17年)の「華族令」により、小笠原家は伯爵に列せられています。

小倉藩(こくらはん)

佐賀藩(さがはん)

佐賀藩(さがはん)

「佐賀藩」(さがはん:現在の佐賀県)は、「肥前国」(ひぜんのくに)の佐賀郡にあった藩であり、明治維新を主導した「薩長土肥」のひとつです。

もとは、肥前一帯を支配していた九州地域の守護大名「少弐氏」(しょうにし)の支配下でした。そののち、仏門から還俗し、九州の有力大名を数々破り、豊後(ぶんご)の「大友氏」(おおともし)、薩摩大隅(さつまおおすみ)の「島津氏」と並ぶ一大勢力を築き上げ、「肥前の熊」の異名を取るまでになった戦国大名「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が下克上を成したころが起源となります。

しかし、隆信は、1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)により、島津・有馬連合軍に敗北し、敗死しました。そののち、隆信の遺児である「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)の補佐として、重臣であった「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が実権を握り、「鍋島藩」(なべしまはん)とも呼ばれた、佐賀藩を形成していくこととなります。

徳川政権となり、鍋島氏の統治が確立しました。しかし、事実上「蓮池藩」(はすのいけはん)・「小城藩」(おぎはん)・「鹿島藩」(かしまはん)と言う三支藩、「白石」・「川久保」・「村田」・「久保田」と言う鍋島の庶流、もとの君主である龍造寺の分家などの自治領が数多くあり、佐賀藩の実質的な知行高は、6万石程度であったと言われています。

佐賀城跡

佐賀城跡

なお、佐賀藩と言えば、佐賀藩士「山本常朝」(やまもとつねとも)が武士としての心得を口述させ、現代でもハリウッド映画「ゴースト・ドッグ」のモチーフとして描かれた「葉隠」が有名です。

そして、鍋島氏統治時代の藩主として、この人をおいては語れない藩主がひとりいます。佐賀藩鍋島氏10代藩主にして、「佐賀七賢人」のひとりと言われる「鍋島直正[閑叟]」(なべしまなおまさ[かんそう])です。

ゼンマイ仕掛けのからくり人形をはじめ、万年時計(時計は数日で止まるのが当たり前の時代に、1度ゼンマイを巻けば、1年間も動いた)、蒸気船・蒸気車の雛形やアームストロング砲、自転車、精米機、写真機など数々の発明品を生み出した「田中[芝浦]製作所」(のちの東芝・重電部門)の創業者「田中久重」(たなかひさしげ)を世に出すキッカケを作りました。

直正の大名行列が通ったあとには、ぺんぺん草一本生えていないと言われ、雑草までも粥に入れて家臣に食べさせる倹約で蓄財。地場産業に力を入れて、藩財政の健全化に成功しました。直正は、天然痘の治療に、オランダから「牛痘ワクチン」を輸入するなど、新種の技術を積極的に取り入れました。

また、「二重鎖国政策」(国の鎖国に加えて、他藩に情報を漏らさない)を執り、隣国、久留米藩の鼈甲(べっこう)細工師の子息であり、「東洋のエジソン」と呼ばれた田中久重(当時54歳)を「精煉方」(せいれんかた)として任命。極秘裡に日本最強クラスの洋式陸海軍を整えていくこととなったのです。久重の発明であったアームストロング砲が無ければ、「江戸城無血開城」は成らなかったと言われています。

1869年(明治2年)、「蝦夷開拓総督」となった直正は、佐賀藩から人民を進んで移住させました。ちなみに、本人は赴任せず、「岩倉具視」(いわくらともみ)と共に大納言に任命されています。

また、久重は「東芝」の前身「田中製作所」(息子の2代目・久重のときに芝浦製作所)を開業しました。他にも、直正は、満州の開拓やオーストラリアでの鉱山開拓などを提言しており、他の藩主よりも先見の明に長け、「島津斉彬」(しまづなりあきら)と並んで「幕末の名君」と呼ばれたのです。

佐賀藩(さがはん)

薩摩藩(さつまはん)

薩摩藩(さつまはん)

2018年度(平成30年度)にNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公ともなった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)。

実は西郷隆盛の真の顔は誰も知りません。有名なお抱え外人画家「キヨッソーネ」による肖像画は、想像画に過ぎないのです。

太い眉にギョロ目、団子鼻というのがキヨッソーネ画で定着した西郷隆盛のビジュアル・イメージですが、これは単に薩摩風美男の特徴を象徴的に戯画化した物だと言われています。もっとも、西郷家は代々、島津の殿様に仕えるお小姓衆の家柄ですので、実際の西郷もそれなりの美童であったことは想像に難しくありません。

お小姓衆は身分こそ高くないのですが、殿様に直接侍ることができました。そういった関係だからこそ、西郷は主君島津斉彬から様々な薫陶を受けることができましたし、斉彬も早くから西郷の才覚に目をかけるようになったとも言えます。

武士階級における男色趣味、いわゆる衆道も江戸中期には一旦廃れますが、その「美風」を維新まで頑なに守り通したのが他ならぬ「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)なのです。

鹿児島城(鶴丸城)の大手門「御楼門」

鹿児島城(鶴丸城)の大手門「御楼門」

薩摩武士には、「郷中」(ごちゅう)と言う特殊な教育的少年組織の制度がありました。郷中のうち、元服前の7~14歳までを「稚児」と呼び、15~25歳くらいまでの非妻帯者の青年を「二才」(にせ)と呼びます。

二才は、教育係として読み書きから武士の心得、「示現流」(じげんりゅう)の稽古まで、稚児の諸般の面倒を見ると同時に、たびたび親密な関係を結びました。

郷中に可愛い稚児がいると、わざわざ化粧を施し、二才が傘を差して、他の郷中の連中に見せびらかしに行ったと「本富安四郎」(ほんぷやすしろう)の「薩摩見聞記」に記されています。また、掌中の稚児が他の郷中の者に取られないよう、二才が交代で寝ずの番をすることも珍しくなかったそうです。

西郷どんも若い頃、郷中同士の喧嘩(稚児の取り合いが原因だったかは不明)で刀傷を受けています。ちなみに、西郷は元服後も乞われて二才組にしばし留まりましたが、盟友であり、のちに征韓論で袂を別つことになる「大久保利通」(おおくぼとしみち)も郷中時代、西郷どんの稚児だったのです。

余談ですが、薩摩藩の郷中によく似た、「什」(じゅう)と言う教育システムを持つのが「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)。ここでは藩校「日新館」(にっしんかん)に入学する前の6~9歳の藩士の子弟が10人単位でつどい、「什長」と呼ばれる年長者を中心に武士の心得を学びました。「什」とは掟の意味でもあり、その固い掟のひとつが徹底的な女人忌避。つまり「戊辰戦争」とは、ハードコアな男集団同士の戦争という局面もあった訳です。
※参考「氏家幹人」(うじいえみきと)「武士道とエロス」

西郷隆盛

西郷隆盛

明治維新後は、維新の原動力ともなった「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)と共に、「長州閥」、「薩摩閥」として、日本政治に多大なる影響を与えることとなります。

薩摩藩(さつまはん)

島原藩(しまばらはん)

島原藩(しまばらはん)

島原藩は、肥前国の島原周辺を統治した藩であり、初期は豊臣政権と密接な関係を持った「日野江城」に藩庁が置かれていました。

戦国大名でキリシタン大名としても有名だった「有馬晴信」(ありまはるのぶ)が治めていましたが、1612年(慶長17年)、キリスト禁教令の一因ともなる「岡本大八事件」により、甲斐国に幽閉の上、切腹に処されます。そののち、嫡男「直純」が家督を継ぎましたが、1614年(慶長19年)に日向国に転封となりました。

1616年(元和2年)、有馬氏に代わり、島原に入った「松倉重政」が、手狭となった日野江城から島原に居城を移すため築城を開始し、1624年(寛永元年)に島原城が完成。

3万7,000人が蜂起した日本最大の農民一揆である「島原の乱」。その首謀者「天草四郎」の名はあまりに有名ですが、出自は定かではありません。彼はある種のカリスマ性を持ち、幕府側が城に侵入しようと掘った穴に火を投げ込んだり、年貢の取り立てを減らしたりという懐柔の手紙に対し、饅頭や果物を送り返すことで食料の余裕を示し、降伏しない意を伝えるなど、その戦略、心理的な戦いは巧妙でした。

島原城

島原城

一部では、天草四郎は「豊臣秀頼」の息子であったという説も根強くあり、天草四郎が所持していたひょうたんの馬印が、秀頼の持つ物と一致することなどがその根拠となっています。

しかし、現在では、益田姓であったことから、小西行長の家臣「益田甚兵衛」の子という説が有力です。

さらに、島原の乱では一人の内通者を除いて城内の者は皆殺しにされたと言われていますが、天草四郎は城の地下通路から海へ逃げおおせ、フィリピンで生き延びたと言われる伝説もあります。

幕府の記録には「天草四郎の首を原城三の丸の大手門前や長崎出島の正面入り口前にさらした」とありますが、肝心の幕府は、その顔を把握していませんでした。同記録にはまた、城内に天草四郎と「背格好の似た少年の首が複数集まった」とあり、人質となっていた天草四郎の母・マルタにそれらを見せ、彼女がある生首を見て泣き崩れたのを見て四郎の首と断定したと言われています。

天草四郎

天草四郎

しかし、マルタはのちに「四郎は南蛮かルソン(フィリピン)に逃げた」とも話していることから、生首を見て泣き崩れたのは息子が逃げたことを隠し通す演技だったとも考えられるのです。

この「首複数説」から、天草四郎は実在した特定人物ではなく、乱を首謀した大人達がでっちあげたという説もあります。まさに島原は、近世でありながら、「聖徳太子」並みに謎深い人物を輩出した地なのです。

そして、島原の乱後は、徳川家譜代大名が治め、幕末を迎えることとなりました。

島原藩(しまばらはん)

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)

1587年(天正15年)「豊臣秀吉」の九州征伐の際、対馬国(現在の長崎県)を統治していた「宗氏」(そうし)は、豊臣政権への臣従をいち早く決めたことで、本領を安堵されます。

1590年(天正18年)に、初代藩主「宗義智」(そうよしとし)が従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)対馬守(つしまのかみ)に任ぜられました。

以降、幕末まで宗氏の支配となったのが「対馬府中藩」(つしまふちゅうはん:現在の長崎県、及び佐賀県)なのです。

長崎の離島「対馬」。歴史的に、朝鮮半島とのかかわりは深く、現在も観光客の多くが韓国人です。

対馬と朝鮮半島がもっとも交流の深かったのが江戸時代。秀吉の「朝鮮出兵」のあと、断絶していた日朝国交を回復するために、江戸幕府は朝鮮側に「通信使」の派遣を打診し、朝鮮もこれを了承したことで、交流が再スタートします。その通信使を、日本で出迎える場となったのが、対馬であり、その最高責任者が藩主の宗家でした。

現在、韓国の教科書では、「日本は朝鮮の進んだ文物を求めて、通信使の派遣を要請してきた」と自民族の対日優位性を強調していますが、実態は江戸幕府への朝貢(ちょうこう:外国人が来朝して、朝廷に貢物を差し上げること)の意味合いが強かったようです。

将軍の代替わりごとに通信使が来日しているところを見ても、それは明らかでしょう。そもそも、通信使とは、後世の歴史家が学術用語として定着させた言葉であり、江戸幕府は彼らを「朝鮮来聘使」(ちょうせんらいへんし)と呼んでいました。「来聘使」とは、「貢ぎ物を持ってくる使者」という意味です。

金石城跡

金石城跡

通信使自体は、その行動を見ても「進んだ文物を運んでくる紳士」とはとても言い難い人物でした。

ロウソクを食べ物と間違って食べてしまったり(つまり、朝鮮にはロウソクが無かったということ)、町人の鶏を盗んで喧嘩になったり、あるいは宿の壁に鼻汁を擦り付ける、階段で排便する、女中を孕ませるなど、彼らの狼藉(ろうぜき)の記録は日本各地に残っています。

随行の待役を果たしていた府中対馬藩の役人も、彼らの「お行儀」には大いに手を焼いたようです。季節外れの野菜料理を所望するので、それを断ると、通信使から唾を吐きかけられた対馬藩士もいたと言います。

1764年(明和元年)には、いわれなき打擲(ちょうちゃく:殴ること)に堪忍袋の緒が切れた通訳役「鈴木伝蔵」が通信使「崔天崇」(チェ・チョンジュン)を槍で刺殺する事件も起こりました。

朝鮮側としては、第11次朝鮮通信使の一員として来日した「金仁謙」(キム・インギョム)の旅行記「日東壮遊歌」が第1級の記録となっています。この中で金仁謙は、たびたび倭人(わじん:日本人)を「犬にも等しい輩」と蔑みながらも、大坂京都、江戸の街並みのきらびやかさに感嘆し、物欲しそうな目で眺めまわる姿を隠そうとしません。

現代の韓国人の日本に対する屈折した視点と相通ずる物が見え、興味深い記録となっています。なお、第12次通信使は、対馬に留め置きとなったため、江戸に来往した通信使は、金仁謙の第11次が最後です。

1871年(明治4年)、「廃藩置県」によって「厳原県」(いづはらけん)となり、対馬国は消滅。

また、1884年(明治17年)に、宗家16代当主「宗義達」(そうよしあきら)は、朝鮮外交担当者としての功績を鑑みられ、伯爵に叙任されました。

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)

中津藩(なかつはん)

中津藩(なかつはん)

「中津藩」(なかつはん:現在の大分県中津市)の歴史は、1587年(天正15年)、「豊臣秀吉」による九州征伐のあと、「黒田孝高/官兵衛」(くろだよしたか/かんべえ)に豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部、及び大分県北部)6郡12万3,000石が与えられたことから始まります。

のちに「関ヶ原の戦い」の戦功により、嫡男「黒田長政」(くろだながまさ)が52万3,100石の加増を受け、「福岡藩」(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)に移封となりました。

長政に代わって、「細川忠興」(ほそかわただおき)が丹後「宮津藩」(たんご・みやづはん:現在の京都府宮津市)より入封し、中津藩が成立することとなります。1602年(慶長7年)に、忠興が藩庁を「小倉城」(こぐらじょう:現在の福岡県北九州市)に移したことにより、藩名は一時期「小倉藩」(こくらはん)となりました。

それまでの藩庁であった「中津城」は支城となり、城代が置かれることに。そして、細川氏は2代藩主「忠利」(ただとし)の時代に、肥後「熊本藩」(ひご・くまもとはん:現在の熊本県熊本市)に移封となっています。

同年に、譜代大名として、茶人としても名高い「小笠原忠真」(おがさわらただざね)が小倉城に入って小倉藩主となり、支城であった中津城には、その甥である「小笠原長次」(おがさわらながつぐ)が播磨「龍野藩」(はりま・たつのはん:現在の兵庫県たつの市)より8万石で入封。再び中津城が藩庁となり、中津藩として稼働していくこととなりました。

中津城

中津城

その後、中津藩の藩主は、小笠原氏が5代、同じく譜代大名である「奥平氏」(おくだいらし)が9代にわたって続いています。

中津藩出身の著名人には、「緒方洪庵」(おがたこうあん)の「適塾」(てきじゅく:のちの大阪大学)で学んだあと22歳という最年少で塾頭にまでなり、「慶應義塾大学」の創始者としても有名な「福澤諭吉」(ふくざわゆきち)がいます。

中津藩の下級武士の子息であった諭吉は、上級武士の子らから極端な差別を受けて育ちました。そしてそのことが、彼の平等思想に強く影響したと言われているのです。

1796年(寛政8年)、奥平家5代藩主「奥平昌高」(おくだいらまさたか)が藩校「進脩館」(しんしゅうかん)を設立。上士(じょうし:上級藩士のこと)の子弟は必ず入学させ、その他の志願者にも入学を許可し、のちには町人の子弟も入学させました。

この進脩館に、のちに慶應義塾3代塾長となる「小幡篤次郎」(おばたとくじろう)も入学。のちに福沢諭吉の片腕として見出され、「中津藩江戸藩邸」で開設された「慶應義塾」で教育にあたっています。これにより、藩校「進脩館」は、慶應義塾の源流であるとされることもあるのです(なお、慶應義塾自体は、これを正式とはしていない)。

この他にも中津藩は、教育や人材育成に尽力。例えば、中津藩の藩医であり、「解体新書」(かいたいしんしょ)で有名な「前野良沢」(まえのりょうたく)や、自由民権運動にも参加した「増田宗太郎」(ますだそうたろう)などがおり、明治維新後の思想界にも多大なる影響を与えています。

最後の藩主となる「奥平昌邁」(おくだいらまさゆき)は、明治維新後、それまでの家格至上主義的な登用法を打破して選挙制を取るなど、優れた藩主でしたが、1884年(明治17年)に30歳で死去。昌邁は、江戸後期の3大名君と謳われた、伊予「宇和島藩」(いよ・うわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)藩主「伊達宗城」(だてむねなり)の4男であり、養子として奥平家に入った人物でした。

中津藩(なかつはん)

人吉藩(ひとよしはん)

人吉藩(ひとよしはん)

源頼朝」(みなもとのよりとも)に、肥後球磨郡人吉(ひごくまぐんひとよし)の領有を認められて以来、豪族・相良氏が治めた地域。

戦国時代は、島津傘下に入って乱世をかいくぐります。初代藩主となる「相良長毎」(さがらながつね)は、「関ヶ原の戦い」で西軍に付いたものの、老臣「犬童頼兄」(いんどうよりもり)が東軍に内通を約したおかげで、無事2万2,000石の所領を安堵されて立藩しました。この「人吉藩」(ひとよしはん:現在の熊本県)は、「相良藩」(さがらはん)とも言います。

立藩に貢献した犬童頼兄は相良姓を授かるも、次第に横暴なふるまいを重ねるようになりました。2代藩主「頼寛」(よりひろ)によって頼兄は幕府に訴えられ、「小田原藩」(おだわらはん:現在の神奈川県)へ送られることになります。一方、頼兄の養子「頼昌」(よりまさ)は義父の処分を知って、藩主からの使いを殺したうえ、一族と共に屋敷に篭もって藩主側と抗戦。一族全員121名が戦死、または自害するという「お下の乱」(おしものらん)を起こします。

人吉城跡(石垣)

人吉城跡(石垣)

また、藩主がらみではありませんがこの4年後に、300石取りの上士「村上顕武」(むらかみあきたけ)一族の先祖供養法要に、顕武の養子とその兄が乱入し一族約70名を惨殺する「村上一族鏖殺事件」(むらかみいちぞくおうさつじけん)も起きました。

さらに、8代藩主「頼央」(よりひさ)が、先代「頼峯」(よりみね)時代の水害による藩政逼迫のあおりを受けて、鉄砲で暗殺されるという前代未聞の事件が発生。しかし、都から遠く九州山中の出来事であったため、銃殺と言っても子どもの竹鉄砲であったとされ、お家取り潰しを免れ、秋月家から養子を迎えて存続していきます。

その後も、椎茸山の入山権をめぐり1841年(天保12年)に起こった「茸山騒動」や、幕末には勤王派と佐幕の洋式派が対立した1865年(慶応元年)の「丑歳騒動」(うしのとしそうどう)と、騒動の絶えない藩でした。

最後の藩主となる15代「相良頼基」(さがらよりもと)は、「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)と共に「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)攻めに加わり、1869年(明治2年)、版籍奉還により藩知事となります。

人吉藩(ひとよしはん)

福岡藩(ふくおかはん)

福岡藩(ふくおかはん)

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」の功績により、52万3,000石、筑前(ちくぜん:現在の福岡県北西部)一国を与えられ、「中津藩」(なかつはん:現在の大分県中津市)より移った「黒田長政」(くろだながまさ)を初代藩主として、「福岡藩」(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)が立藩となりました。

福岡藩は「黒田藩」(くろだはん)とも呼ばれ、「福島正則」(ふくしままさのり)から差し出された大盃を福岡藩士「母里友信」(もりとものぶ)が飲み干し、「天下三名槍」のひとつ「日本号」(にほんごう)を飲み獲ったという逸話を歌った「黒田節」(くろだぶし)でも有名な藩です。

2代藩主・忠之(ただゆき)のとき、「伊達騒動」、「加賀騒動」と並び、「江戸3大お家騒動」に数えられる「黒田騒動」が勃発。長男である忠之の資質を疑問視した長政が、3男・長興(ながおき)に家督を譲ることを決意し、その旨を書いた書状を忠之に送りました。

すると、忠之の後見人であった「栗山大膳/利章」(くりやまだいぜん/としあきら)が、父「栗山善助/利安」(くりやまぜんすけ/としやす)と共に、一時は長政を諌めます。しかし、長政亡きあとの1632年(寛永9年)に大膳は、忠之と疎遠になる際、幕府にそむく意志のない忠之に関して、「謀反の兆しあり」という虚偽の書状を「江戸城」へ送り付けたのです。

福岡城の「下之橋御門」

福岡城の「下之橋御門」

この事件は江戸歌舞伎でも上演され、「森鴎外」(もりおうがい)も短編小説にし、日活映画にもなっています。この栗山大膳をモデルにした舞台や映画の内容は、大膳をかばう美談に仕立てられたもの。

「黒田忠之」は臣下の意見を聞かず、新参者の「倉八十太夫」(くらはちじゅうだゆう)を重用し、禁制になっていた造船を行なうなど専横(せんおう:横暴で好き勝手に振舞うこと)を尽くしたため、福岡藩そのものが幕府から取り潰しにされる恐れがありました。そこで先代からの忠臣・栗山大膳は、自身が罪を被ることで忠之の失政を隠蔽し、黒田家を救ったのだと描かれているのです。

結果、大膳は「盛岡藩」(もりおかはん:現在の岩手県盛岡市。「南部藩」[なんぶはん]とも)へ配流となりましたが、「罪人扱いされることなく、生涯150人の扶持を与えられた」と、伝記にも残っています。

しかし、忠之の祖父・官兵衛(かんべえ)や長政の苦労を知らない温室育ちの御曹司とは言え、その子孫である忠之が横暴で無能であったとは、やはり創作の産物です。

文豪・森鴎外の著作を開けば、忠之について、「生得(しょうとく:生まれつき)聡明な人だけに、老臣等に掣肘(せいちゅう:脇から他人に干渉して、自由な行動を妨害すること)せられずに、獨力(どくりょく:自分ひとりだけの力)で國政を取り捌いて見たかった」(「栗山大膳」[「森鴎外全集第四巻(筑摩書房・1959年刊)」より])と類推が可能。事実、大膳が去ったあとは、忠之は善政を行なったとされています。

1870年(明治3年)には、「松方正義」(まつかたまさよし)が福岡藩士による太政官札偽造事件を告発。その後の明治政府による調査の結果、12代藩主であった「黒田長知」(くろだながとも)が、知藩事を解任されました。

この際、見せしめとして事件にかかわった大参事の「立花増美」(たちばなますみ)と「矢野安雄」(やのやすお)、権大参事「小河愛四郎」(おごう/おがわあいしろう)、小参事の「徳永織人」(とくながおりと)と「三隅伝八」(みすみでんぱち)の5名が実行犯として処刑。そして、10人以上が閉門や流罪などの刑を科されているのです。

また、この事件により、薩摩藩士であった松方正義は、明治政府で出世街道を進み、第4代・第6代の総理大臣を歴任しています。

1884年(明治17年)、長知の子「黒田長成」(くろだながしげ)は「華族令」(かぞくれい)により侯爵となり、華族に列しました。

福岡藩(ふくおかはん)

府内藩(ふないはん)

府内藩(ふないはん)

豊後府内(ぶんごふない:現在の大分県大分市)は、鎌倉時代より豊後国をおさめた守護大名大友家が支配する地でした。

大友氏は、三上山の大百足(おおむかで)退治、そして「平将門」(たいらのまさかど)を討った、有名な「俵藤太」(たわらのとうた)こと、「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)の流れを汲むと言われています。

キリシタン大名としても有名な、大友家21代当主「大友義鎮(宗麟)」(おおともよししげ[そうりん])の時代には、九州6ヵ国を支配する大大名となりました。しかし、その後は勢力を拡大する島津氏に破れ、「豊臣秀吉」の庇護を頼り、豊後一国を治めるにとどまります。

義鎮の嫡男、大友家22代当主「義統」(よしむね)の代、1593年(文禄2年)の「文禄の役」にて、救援を要請した「小西行長」(こにしゆきなが)軍を見捨てたという罪で、秀吉の逆鱗に触れ、領地は没収。

その後、秀吉配下による統治を経て、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において、西軍に与しながら最終的に東軍に寝返り、東軍勝利に貢献したと賞された「竹中重利」(たけなかしげとし)が、豊後高田1万石から、府内2万石に加増され立藩することとなります。

竹中重利は、秀吉配下で軍師を務めた「竹中半兵衛重治」(たけなかはんべえしげはる)の親族です。また、竹中半兵衛は「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と、羽柴麾下(はしばきか)の「両兵衛」として讃えられた名軍師でもありました。

府内城

府内城

「府内竹中藩」(ふないたけなかはん:現在の大分県)2代藩主「重義」(しげよし)は、ご法度であった密貿易を疑われ、1634年(寛永11年)に切腹となり、改易、断絶となっています。

その後、「日根野吉明」(ひねのよしあき)が入りますが、無嗣改易(跡継ぎがいないため家が取り潰しになること)となり、代わって、「松平忠昭」(まつだいらただあき/ただてる)が、「豊後高松藩」(ぶんごたかまつはん:現在の大分県)より入り、統治することとなりました。

「府内藩」(ふないはん:現在の大分県)5代藩主「近形」(ちかのり)の時代、父である4代藩主「近貞」(ちかさだ)の代に破綻した財政を立て直すため、倹約令を発し、産業奨励や藩札発行など、藩政改革を断行しましたが、大洪水や大地震が続き、幕府との道路問題での逼塞処分(門を閉ざして昼間の出入りを許さない、武士への刑罰のひとつ)もあり失敗しています。

「銭瓶峠」(ぜにがめとうげ)と呼ばれている鳴川の谷が、天領(幕府の直轄地)である赤松村と、府内藩田野浦村との境目にありました。

1761年(宝暦11年)、府内藩の人夫が境界の道掃除にとりかかろうとしたとき、天領側の農民が襲いかかり、道造奉行の武士4名を丸腰にして、赤松の「松音寺」(しょうおんじ)へ監禁するという事件(銭瓶石騒動)が起こります。府内藩主が参勤中だったこともあり、西国郡代(さいこくぐんだい:幕府の代官)が、この騒動を天領と私領の争いとして勘定奉行へ報告。江戸奉行へ移され大事件となりました。

道普請(みちぶしん:道づくり)に参加した庄屋、組頭や農民の他、証人として近郷の農民までもが江戸へ駆り出され調査を受けます。府内藩の農民たちは、天領・赤松側が鉄砲を撃ったことなどを訴えましたが、禁制となっている鉄砲持ち出しについて天領・赤松側が口を割るわけがなく、厳しい調査が続きました。

最終的に評定所は、天領・赤松側に非があるとし、主犯格8名は島流し、他の者も手鎖(手錠をかけられたまま30~100日を過ごす)など、厳しい刑となったのですが、被害者となるはずの府内藩側も、5代藩主・松平近形が逼塞(ひっそく:夜間、狭い門からの目立たぬ出入りのみ許される軟禁刑)、家老が御叱を受けるなどの「両成敗」となったのです。

府内藩(ふないはん)

柳河藩(やながわはん)

柳河藩(やながわはん)

柳河(やながわ:「柳川」とも)地域は、現在の福岡県柳川市であり、同地は鎌倉時代より戦国時代の末期まで、筑後屈指の名族とも言われた「蒲池氏」(かまちし)の治める領地でした。

戦国時代には、一時期は没落寸前であり、蒲池氏が庇護したこともある「龍造寺氏」(りゅうぞうじし:「竜造寺」とも)の「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が勢力を拡大し、蒲池氏17代当主「蒲池鎮漣」(かまちしげなみ)が騙し討ちにされています。

しかし、1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で、「島津氏」(しまづし)に敗れた龍造寺隆信が死亡。その後は、龍造寺家の家老であった「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が「豊臣秀吉」の傘下に入り、龍造寺家の同地での支配権を継承していったのです。

「柳河藩」は、もとは蒲池氏や龍造寺氏が治めた土地でしたが、豊臣秀吉の九州征伐後は、戦功のあった名将「立花宗茂」(たちばなむねしげ)が、筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南西部)4郡13万2,000石を与えられました。

関ヶ原の戦い」で西軍に属したため立花家は除封され、代わりに「石田三成」(いしだみつなり)を捕えた軍功を挙げた「田中吉政」(たなかよしまさ)が32万5,000石を与えられて、筑後全域を所領。

ところが、田中氏は2代で跡継ぎが途切れ断絶。1620年(元和6年)、じつに20年ぶりに、かつて西軍に属した責を解かれた立花宗茂がこの地へ返り咲き、田中家時代の半分以下の10万9,000石ではありましたが、筑後南部を領して受け継いだのです。

田中氏時代の残りの所領は、「有馬豊氏」(ありまとようじ)が「久留米藩」(くるめはん:現在の福岡県久留米市)を、また、宗茂の甥の「種次」(たねつぐ)が1万石を与えられ、「三池藩」(みいけはん:現在の福岡県大牟田市)を立藩して三分されました。

本家となる柳河藩は明治維新後まで、立花氏が12代にわたってこの地を支配。柳河藩最後の藩主「鑑寛」(あきとも)は、家老に「立花壱岐」(いき)を登用し、「安政の改革」(あんせいのかいかく)で財政再建に尽くしたのです。

立花家は、1869年(明治2年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)でも軍功があり、明治政府から5,000石を与えられ、廃藩置県後も華族として続きました。

藩主の邸宅は、現在、料亭旅館「御花」(おはな)として、景観の良い庭園を見渡すレストランや宿泊施設となっています。「立花家史料館」も敷地内にあり、400年前の藩主の暮らしを彷彿とさせる文化財にふれることが可能です。

柳河藩(やながわはん)

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