260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである関西地方の「高取藩」(たかとりはん)[奈良県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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2.5万石 | 大和国 (奈良県) |
高取城 | 植村家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 本多家 | 本多俊政 |
3万石 | 外様 |
2. 幕府領 | 該当なし | - | - |
3. 植村家 | 植村家政 |
2.5万石 | 譜代 |
江戸城登城の際の伺候席(しこうせき)は、「帝鑑の間」であり、そこに座る大名の格としては「城主」でした。
元々、大和国一帯は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)の支配下にありました。筒井家は代々、「興福寺」の衆徒であり、室町時代に筆頭格までのぼり、順慶の代には大和国を治める戦国大名にまで成長。「松永久秀」(まつながひさひで)と大和の覇権を争っていたのです。筒井順慶には、『享保名物帳』にも紹介される「順慶左文字」(じゅんけいさもんじ)と呼ばれる名刀があり、「徳川家康」に渡ったあとに、蜂須賀家の所有となり、「重要美術品」にも指定されています。
順慶の死後、豊臣政権下では、秀吉が弟である「羽柴秀長」に大和国を与え、秀長が家臣「本多俊久」に高取1万5,000石を与えました。俊久の死後、嫡男・俊政が家督を継ぎましたが、「関ヶ原の戦い」で東軍に味方したことで、その功績にて加増され、高取藩立藩となったのです。
居城の「高取城」は、近世では珍しい山城でした。当時としても日本最大級の山城であり、現在でも岡山県の「備中松山城」、岐阜県の「岩村城」と並び、日本三大山城のひとつとして数えられ、国の史跡にも認定されています。
本多家藩主時代での逸話としては、2代高取藩主となる「本多政武」(ほんだまさたけ)は、囲碁の名人として高名であり、1610年(慶長15年)に、囲碁本因坊戦に勝利して名を馳せたのです。ただし、政武は40歳で死去し、跡継ぎがいなかったため、以降、無嗣改易(むしかいえき:跡継ぎがない武士の家禄・屋敷を没収すること)に。その後、天領(てんりょう:江戸幕府の直轄地)となり、大和新庄藩の「桑山一玄」(くわやまかずはる)や丹波園部藩の「小出吉親」(こいでよしちか)による城代時代が続きました。
天領期を経て、1640年(寛永17年)に、大身旗本「植村家政」(うえむらいえまさ)が2万5,000石に加増され、再立藩となり、以降、幕末明治維新期まで植村藩主時代が続くこととなったのです。
植村家は、徳川家康に九歳の頃より仕え、「酒井家」、「大久保家」、「本多家」、「阿部家」、「石川家」、「青山家」と並ぶ徳川家臣団の中でも最古参の家格であり、家康自身より「家」の字を付けることを許された名門譜代でした。
1779年(永安8年)年に、家督を継いだ8代藩主・家利が遊女と入水自殺し、江戸留守居役が事件の露見前に、病死と届け出て、兄の家長を養子として迎えることで事件を隠したとの話も残っています。この時代は、江戸でも心中が流行したとされ、幕府は厳しい罰則を科していた時代であり、露見すれば、お家断絶にもなりかねないスキャンダルでした。
その後、10代藩主・家教が儒学者「谷三山」(たにさんざん)を招聘(しょうへい:丁重な態度で招くこと)し、尊皇思想に傾倒したことにより、幕末まで高取藩の思想を決定付けることとなりました。こうした背景もあり、名門譜代でありながら、「戊辰戦争」時には官軍に与し、京都御所の警護にあたって、旧幕府領の取り締まりを行なっていたのです。
「江戸城」に登城した際、「明石藩」(あかしはん:現在の兵庫県)が控えた「伺候席」(しこうせき)は、御三家が控える「大廊下」の次席である「大広間」であり、大名家が持つ格としても、国主・准国主・城主・城主格・陣屋のうち、「城主」であることからも、明石藩の徳川幕府における重要性が分かります。
幕藩体制に移行する「関ヶ原の戦い」直後、江戸時代初期には、「徳川家康」の愛娘「督姫」(とくひめ)を妻に迎えた「池田輝政」(いけだてるまさ)に与えられた「播磨国」(はりまのくに:現在の兵庫県)1国52万石の中にあり、池田家が治める「姫路藩」(ひめじはん:現在の兵庫県)の領地でした。
池田家をたどると「織田信長」亡きあと「清洲会議」に出席した4人の織田家重臣のひとり「池田恒興」(いけだつねおき)にさかのぼります。恒興には数多の逸話も残され、なかでも家臣の持ち物でありながら、その切れ味に惚れ込み、召し上げたとされる名刀「篠ノ雪」(ささのゆき)の逸話も有名です。あまりに良く切れるため、その鋒/切先に触れるとまるで篠の上の雪が切れるように切れたことからその名が付けられたと言います。長らく恒興は愛用しましたが、「小牧・長久手の戦い」において「永井直勝」(ながいなおかつ)に討ちとられ奪われてしまいました。以降は、永井家の所蔵となります。
姫路藩は1617年(元和3年)、藩主「池田利隆」(いけだとしたか)が没すると、嫡男「光政」(みつまさ)が幼少であり藩政を任せられないと言う理由から、転封されたのち細分化されました。この光政にも逸話が多く、家康から脇差を与えられたおり、するりと脇差を抜き放ち、「これは本物じゃ」と言ったとのこと。家康は脇差を鞘に収め、下賜したのち側近には、光政の持つ眼光を、ただ者ではないと評したと言う逸話が残される名将でありました。
そののち、信濃「松本藩」(まつもとはん:現在の長野県)より「小笠原忠真」(おがさわらただざね)が10万石で明石藩に入封され立藩したことに始まります。
居城である「明石城」は、忠真自身がこれまでの地方の拠点であった「船上城」(ふなげじょう)を廃し、海上交通の監視、西国大名に睨みをきかせるために明石城を建設。明石城の城下町の町割りに関しては、忠真の客分として在藩していた「宮本武蔵」(みやもとむさし)が指導したと史書にも残されています。
1632年(寛永9年)、忠真が豊前国「小倉藩」(こくらはん:現在の福岡県)に転封となり、そののち、戸田松平家、「大久保忠隣」(おおくぼただちか)を祖とする大久保家、藤井松平家、「本多忠勝」(ほんだただかつ)を祖とする本多家と言う、譜代や御家門大名家が藩主の座を務め、越前松平家が藩主の頃に明治維新を迎えることとなりました。
幕末・維新期には、藩主「松平忠致」(まつだいらただむね)が自宅を開放する形で、藩校「敬義館」(けいぎかん)を創立。そこでは儒学者「橋本海関」(はしもとかいかん)が1872年(明治5年)に、国語教師に就任した記録が残っています。
維新のあと越前松平家は華族令により、子爵(ししゃく)に任じられました。
1615年(元和元年)、播磨一国の太守であった池田輝政の5男「政綱」(まさつな)が、赤穂郡周辺を与えられたことにより立藩。
「赤穂藩」(あこうはん:現在の兵庫県)と聞いてまず思い出すのは、「元禄赤穂事件」として名高い47士の討ち入り、そして名物の天塩です。
討ち入り騒動のそもそもの発端は、言うまでもなく「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)の殿中刃傷沙汰にありますが、その原因となる「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)の内匠頭いじめの理由については、赤穂の虎の子である塩の製法の伝授を吉良が求め、内匠頭がこれを拒んだための逆恨みと言う説が一部でまかり通っています。
しかし、もともと塩の製法は赤穂藩の秘伝であったわけではなく、この塩怨恨説はフィクションとみてほぼ差し支えありません。時代劇スペシャルなどでよく描かれる、上野介が暗に賄賂を要求し、内匠頭がそれに応じなかったのも根拠としては薄弱。他に諸説あるものの、真相は不明というのがどうやら正解のようです。
「忠臣蔵」の底本となっているのが、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(1748年[寛延元年]初演)ですが、実はそれより古い1711年(宝永8年)に刊行された浮世草子「忠義武道播磨石」では、上野介が内匠頭の美貌の小姓に恋慕しての恋の鞘当て(恋敵同士の争い)が、いじめの原因であるとしています。上野介がその小姓を所望したのを、内匠頭が断ったことを根に持ってと言うことらしいです。
この6年後の1717年(享保2年)に書かれた「忠義太平記大全」も同様の小姓横恋慕説に立っていました。小姓横恋慕が、内匠頭いじめの真相かどうかは別として、赤穂藩が「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)と並ぶ美童の産地であったのは事実のようです。
まず、当の内匠頭自身、色白の美青年だったと言われ、芝居や映画の世界でも、ときの美男俳優が、彼を演じるのが倣いになっています。
もちろん、47士にもいずれ劣らぬ美童がちらほら。ぱっと思いつくのは、「愛宕山教学院」(あたごやまきょうがくいん)の稚児から浅野家小姓に召されることになった「磯貝十郎左衛門」(いそがいじゅうろうざえもん)でしょう。
切腹後の内匠頭の遺体をまっ先に引き取り「泉岳寺」に葬ったのが、この十郎左衛門です。十郎左衛門は、その美貌を利用して吉良家の女中や、出入り大工の娘をたらし込んでの情報収集の役割を担っていました。ただ、この女子たらし込みの諜報活動は、やはり美男の誉高い「岡野金右衛門」(おかのきんえもん)のエピソードとして紹介されることも多く、現在ではこちらの方が定着しています。十郎左衛門と親友でもあった小姓頭の「片岡源五右門」(かたおかげんごえもん)とは共に内匠頭の寵を争った仲でした。
また、「忠臣蔵外伝」のひとつに「中山(堀部)安兵衛」(なかやま[ほりべ]やすべえ)の高田馬場の決闘話がありますが、安兵衛と、彼が助太刀した「菅野六郎左衛門」(すがのろくろうざえもん)の義理の叔父・甥の関係も男同士の契りを意味するのだと言うことです。
幕末、森家統治の1857年(安政4年)、藩政改革をめぐり藩内に対立が起こり、革新を目指した一部は脱藩し「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)へ。1862年(文久2年)には、攘夷派が家老を暗殺する事件が起こり、藩論を統一できないまま明治維新を迎えることとなります。
維新後、森家は1884年(明治17年)に、子爵となりました。
「紀州藩」(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市。正式名称は[和歌山藩]で[紀伊藩]とも呼ばれる)の江戸時代初期までの藩主は浅野家。「豊臣秀吉」一門衆として名高い五奉行筆頭「浅野長政」(あさのながまさ)の長男「幸長」(よしなが)に、1600年(慶長5年)、「紀伊国」(きいのくに:現在の和歌山県全域、及び三重県の一部)37万6,000石が与えられ、紀州藩が立藩となります。
幸長は、秀吉の数々の戦で武功を表し、「天下一」と称されるほどの鉄砲の名手でした。1619年(元和5年)、「福島正則」(ふくしままさのり)の改易に伴う「広島藩」(現在の広島県広島市)への移封まで、浅野家による統治が続いています。
浅野家の移封に伴い、徳川家康の10男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が「駿府藩」(すんぷはん:現在の静岡県静岡市)より、紀州に南伊勢を加えた55万5,000石で転封してきたことで、「紀州徳川家」の紀州藩が成立。
そして、この紀州徳川家から、歴史上のみならず、現代の時代劇などの創作物において主役級の将軍が登場することとなったのです。
娯楽時代劇の主人公と言うと、そのほとんどは素浪人や渡世人、つまり、反体制的な英雄のこと。その中にあって、数少ない体制側の英雄としては、「水戸黄門」こと「水戸光圀」(みとみつくに)や、「暴れん坊将軍」の「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が思い浮かびます。ともに実在の人物で、水戸光圀は、御三家の「水戸徳川家」の2代当主。「天下の副将軍」(てんかのふくしょうぐん)と呼ばれ、江戸幕府の将軍も一目置く実力者です。
吉宗もやはり御三家のひとつ紀州徳川家の5代当主で、のちの江戸幕府8代将軍。どちらも甲乙付けがたい個性の持ち主です。
「徳川御三家」と言っても、格の上では62万石の尾張(おわり:現在の愛知県西半部)が筆頭で、56万石の紀州がこれに続きます。勤皇派(きんのうは:天皇に尽くし、江戸幕府を倒そうとした一派)の水戸は、反主流派の印象が強いですが、石高も35万石と他の2家より一段低いのです。
そもそも御三家を置く本来の意義は、江戸宗家に世継ぎがなかった場合の備えで、その際には、尾張か紀州から後継を出す決まりになっていました。紀州からは8代将軍・吉宗を最初に、9代将軍で吉宗の嫡男である「家重」(いえしげ)、14代将軍「家茂」(いえもち)の3人の将軍を出しているのに対し、尾張徳川からは、ひとりの将軍も出していません。これには理由があります。
吉宗が暴れん坊将軍のような活躍をした訳ではありませんが、自ら陣頭指揮を執って「享保の改革」(きょうほうのかいかく)と呼ばれる数々の行政改革を実施。その質実剛健を地でいく人柄もあいまって、名君として伝わっているのは言うまでもありません。
その名君である父の血筋を末代に繋げようと、長男・家重は、紀州徳川家の中に御三家と同じ考え方で、「御三卿」(ごさんきょう)制度を設けてしまいました。これは、吉宗の直系が途絶えたとき、吉宗の次男、4男、家重の次男を創始とする御三卿が、紀州徳川家を継ぐというシステム。そのため尾張徳川家は、紀州徳川と御三卿すべての血筋が絶えなければ、将軍職が巡ってこないということになってしまったのです。
なお、11代将軍「家斉」(いえなり)、15代将軍「慶喜」(よしのぶ)は、共に御三卿のひとつ「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)の出身。つまり紀州系ということになります。
現代の目から見て吉宗が名君であったかは、多少疑問が残るもの。享保の改革にしても、基本的には「贅沢は敵」の緊縮財政であり、不景気時にこれをやると、さらに消費は落ち込むのです。また、年貢米の定免制は結果的には大増税であり、一時的に幕府の収入は増えましたが、それも「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)で露と消え、農民を圧迫しただけに終わったと伝えられています。
絵に描いたような英雄は、やはりテレビの時代劇にしか存在しないのかもしれません。
岸和田藩主が江戸城登城に際した控えの間は、3万石以上15万石未満の譜代大名が詰めると言われた「雁の間」(かりのま)でした。
そして藩主の居城である「岸和田城」は、「和歌山城」と「大坂城」の中間地点にあり、御三家でもある紀州藩の監視役として存在していたとも言われています。
その理由のひとつとして、初代の藩主であった小出家に次ぎ、松平(松井)家が入封したあとに、幕末明治期まで藩主を務めた、岡部家における初代岸和田藩主「岡部宣勝」(おかべのぶかつ)に対する徳川3代将軍・家光からの寵愛が厚かったことが挙げられます。徳川幕府としては、紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣を恐れていたとされ、そのため、監視の密命を帯びていたとの伝説が残っているのです。
しかし、これについては、岸和田城の縄張りが大坂方面に厚い防御線を設けていることなどから、城の構造上、大坂城警護の役割が強いとされており、晩年の徳川家康に寵愛された紀州徳川初代藩主・徳川頼宣への世間の評価が誇張された物だと考えられます。実際、1837年(天保8年)の「大塩平八郎の乱」の際、「岸和田藩」は大坂城警護の任に当たりました。
また、幕府が紀州藩を恐れていたという噂のもととなるような事件として、1651年(慶安4年)の、「由井正雪」(ゆいしょうせつ)による「慶安の変」の際、正雪が頼宣の印章文書を偽造していたことも、紀州藩監視陰謀論と言う尾ひれがつく原因となっているようです。
そののち、ロシアの「プチャーチン」の軍艦「ディアナ号」の来航の際にも活躍した11代藩主・長発(ながゆき)は、1852年(嘉永5年)に、藩校「講習館」を開きましたが、22歳の若さで早世。継いだ12代藩主・長寛(ながひろ)は、1866年(慶応2年)に講習館を増築して「修武館」と改称し、藩内の教育を奨励し、財政改革にも努めましたが、藩財政の窮乏から脱却することはできず、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を迎えることになったのです。
戊辰戦争のときには、藩内の意見が佐幕派(さばくは)と勤皇派(きんのうは:倒幕派)に別れ、当初は佐幕派として動いていましたが、のちに新政府軍側に付くことになりました。
現在でも、岡部家伝来とされる「牡丹獅子容彫金目貫」(ぼたんししかたちぼりきんめぬき)の目貫で有名な「短刀 附 銀沃懸地合口拵[銘 来国俊]」(たんとう つけたり ぎんいかけじあいくちこしらえ[めい らいくにとし])などを岸和田城で観ることができます。
また「岸和田」と言えば、全国的に知られている「だんじり祭り」で有名ですが、この「岸和田のだんじり祭り」は、岸和田藩3代藩主「岡部長泰」(おかべながやす)が1703年(元禄16年)に、京都の「伏見稲荷」を城内三の丸に勧請(かんじょう:神仏の分霊を他の場所に移して祀ること)し、五穀豊穣を祈願して行なった稲荷祭がもとになっていると言われています。
ただし当時の祭りは、現在のようなだんじりは存在せず、寄席のもとともなった「俄狂言」(にわかきょうげん)などが演じられ、そのあと、三の丸神社、岸城神社(きしきじんじゃ)に参拝すると言う物でした。
ちなみに、岸和田藩の名前の由来となったのは、建武の新政(1333年~)の頃、和泉国守護であった「楠木正成」(くすのきまさしげ)が一族の「和田高家」(にぎたたかいえ)を当時「岸」と呼ばれていた岸和田に派遣し、城を築いたこと。これにより、「岸」の「和田氏」が治める土地と言うことで、岸和田の名前になった伝説が存在しています。
「大坂の陣」以前の1609年(慶長14年)、徳川家康により、豊臣氏をはじめとする西国諸大名を抑えるため、15ヵ国20の大名の助役による「天下普請」(てんかぶしん:幕府が命令して行なわせた土木工事)のもと、篠山盆地に篠山城が築かれました。
松井松平家の「松平康重」(まつだいらやすしげ)が、丹波国(たんばのくに:現在の兵庫県篠山市)八上から、政庁を移したことにより「篠山藩」(ささやまはん:現在の兵庫県)を立藩したのです。
篠山城の縄張りは、宇和島城・今治城・二条城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した、「黒田孝高[官兵衛]」(くろだよしたか[かんべえ])、「加藤清正」(かとうきよまさ)と共に、築城三名人として知られる「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が行ないました。
また、普請総奉行には、池田恒興の次男である輝政が就任。代わって、藤井松平家が1619年(元和5年)に入封し、城下町の整備や検地、文化振興などに尽力し基礎を固めました。
1649年(慶安2年)には、形原松平家が入り、1677年(延宝5年)に家督を継いだ4代藩主「松平信庸」(まつだいらのぶつね)は、文化振興に意欲を見せ、篠山藩領内の古蹟や自社名産などを記した「篠山封彊志」を著した儒学者「松崎蘭谷」(まつざきらんこく)や、真鍮製の四方六面様分曲尺を考案し今までの測量法に水を利用して水平を確保し、縦横、高低、奥行きまで自由に測ることに成功させた算学者「万尾時春」(まおときはる)などを招聘。藩学の基礎を固め、京都所司代や老中も歴任し、歴代藩主の中でも名藩主と言われたのです。
しかし、信庸の跡を継いだ13代藩主「信岑」(のぶみね)は暗愚(あんぐ:愚か者)で、「享保の大飢饉」で苦しむ領民に重税を課し、農民から中傷されたことが発端となり、丹波亀山藩に移封させられることとなりました。
そこで、1748年(寛延元年)、「青山忠朝」(あおやまただとも)が入封。以降、幕末から明治維新期まで青山家が藩主を務めることになったのです。2代藩主「忠高」(ただたか)は、藩校「振徳堂」(しんとくどう)を開設。
他の藩校とは異なり、藩士の子弟のみではなく、庶民にも入学を許可しました。特に、「算学」を奨励し、篠山藩では当時でも高度な数学教育がされていたと言われています。
この「振徳堂」で使用されたとされる版木で作成された教科書などが、現在でも藩主青山家の別邸であった「桂園舎」(けいえんしゃ)と呼ばれた建物を利用して建てられた「青山歴史村」で見ることができるのです。
戊辰戦争では、藩主が幕僚でありながら、佐幕派と勤皇派により藩内が対立。しかし、「西園寺公望」(さいおんじきんもち)率いる新政府軍の侵攻を受け、新政府軍につくこととなりました。
青山家時代は、文化振興に力を入れる藩主が多く、領民を軽んじる傾向もあり、幕末までに「一揆」や「打ち壊し」が16件も多発したと記されています。そのため、1870年(明治3年)12月における藩の借財は、281,319両(現在の価値で約281億円)にまで膨らみました。
最終的な石高が1万石という、この小さな「狭山藩」(さやまはん:現在の大阪府)は、12代にわたる関東の雄、「後北条家」が領有した藩です。
後北条家の祖である「北条早雲」(ほうじょうそううん)は、関東管領である「山内上杉氏」、「扇谷上杉氏」を駆逐し、小田原城を奪取。関東にいち早く覇権を築いた戦国武将として有名です。
一介の浪人から身を立てた「下克上」(げこくじょう)を代表する武将と言われてきましたが、現在では、室町幕府の政所執事を務めた「伊勢氏」の出自だと言うことが定説となっています。また、早雲自身は伊勢氏を名乗り、「北条」を姓として名乗ったのは、嫡男である「氏綱」(うじつな)からです。
この北条早雲からはじまる、後北条氏は、3代目「氏康」(うじやす)の時代には、「武田信玄」や「今川義元」などと「甲相駿三国同盟」を結び、「上杉謙信」とも関東の覇権を争った戦国最強大名の一角でもあったのです。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、伊豆韮山城を守備し、4ヵ月にわたり抗戦。高野山に蟄居(ちっきょ:謹慎刑)を命じられた氏康の4男「北条氏規」(ほうじょううじのり)は、のちに罪を許され、氏規本人に河内狭山6,900石、嫡男「氏盛」(うじもり)に下野4,000石が与えられました。1600年(慶長5年)に、氏規が没したことにより所領を合わせ1万1,000石となり、これが狭山藩のはじまりとなっているのです。
狭山の地に、陣屋を設け政務を執ることとなったのは、1616年(元和2年)、2代藩主「氏信」(うじのぶ)のころ。3代藩主「氏宗」(うじむね)の代となると、氏宗は無類の酒好きだったらしく、江戸城への登城すらままならない状態が続き、藩主の座を退き、存続の危機にまで至りました。
しかし、北条一門の働きにより名門譜代で前の老中であった「酒井忠清」(さかいただきよ)のとりなしを得て、なんとか4代藩主「氏治」(うじはる)が新たに藩を立てる名目で、存続が可能になったのです。
7代藩主「氏彦」(うじよし)の代には、下級藩士による藩政改革要求である「狭山騒動」が勃発しますが、改革は依然として進むことはありませんでした。厳しい藩財政が続いていましたが、11代藩主「氏燕」(うじよし)は、文武を奨励し、藩校「簡修館」(かんしゅうかん)を再興。また特産品である「高野豆腐」を専売として、藩財政の立て直しにも尽力しました。
しかし、財政悪化の上に、1837年(天保8年)「大塩平八郎の乱」、1849年(嘉永2年)「プチャーチン大坂湾侵入」、1863年(文久3年)「天誅組の変」への出兵などで軍費がかさみ、幕末にはすでに破綻状態となっていました。
12代藩主「氏恭」(うじゆき)は、1869年(明治2年)に他藩に先駆け、「版籍奉還」を行ないましたが、1871年(明治4年)には、「廃藩置県」を待たずに崩壊。なお、藩主である後北条家は、のちに子爵位を受け、「華族」に列せられています。
「芝村藩」の藩祖とも言える「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])は、「織田信長」の実の兄弟です。「織田信秀」(おだのぶひで)の11男であり、兄・信長とは13歳離れていたと言われています。
「利休十哲」(りきゅうじってつ)のひとりにも数えられ、自らも茶道「有楽流」(うらくりゅう)を創始した文化人でもありました。
武将としても、織田軍として武田攻めに参加し、「深志城」(ふかしじょう:現在の長野県松本市。松本城[まつもとじょう]の前身)の受け取り役も務め、「関ヶ原の戦い」では、総勢450名の兵を率いて徳川家康側にて参戦。「石田三成」(いしだみつなり)軍の「蒲生頼郷」(がもうよりさと)を自身で討ち取る武功も挙げた、文武に秀でた武将だったのです。
1614年(慶長19年)、1615年(慶長20年)の「大坂冬の陣・夏の陣」のあと、間諜(かんちょう:密かに敵側の情報を探り、味方に知らせる者)として(諸説あり)、大坂城方に与していた織田有楽斎(長益)は、徳川方への釈明の意志を表明する意味合いで隠居。
そして、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)に領していた3万石の所領を、4男・長政(ながまさ)、5男・尚長(なおなが)にそれぞれ1万石ずつ与え、長政が大和国戒重村(かいじゅうむら)の地に拠点を定めて立藩となり、当初は、「戒重藩」と呼ばれていました。また、尚長は、同じく大和に「柳本藩」(やなぎもとはん)を立藩しています。
1683年(天和3年)、家督を相続した戒重藩4代藩主・長清(ながきよ/ながずみ)もまた、優れた文化人として有名です。藩士に文武を奨励し、京都より儒者「北村可昌」(きたむらよしまさ)を招聘し、藩校「遷喬館」(せんきょうかん)を設立。同時に長清は織田信長の一代記でもある「織田真記」15巻を編纂しています。
この時代はまだ、芝村の土地に拠点を移してはいません。幕府から、大和国岩田村(いわたむら:のちに「芝村」と改称)への移転許可を得てはいましたが、藩財政の悪化が表出し、移転することはできなかったのです。ただし、長清の時代が、戒重から芝村へと続く藩史の中で、最も栄えた時代ではありました。
当初の「戒重藩」より芝村藩になったのは、7代藩主・輔宜(すけよし)が、1745年(延享2年)に、藩政の利便性を考慮して芝村に拠点を移したことによります。
芝村藩としての財政は、必ずしも余裕があった訳ではありませんでしたが、天領の預かり地の統治を担当し、続く8代藩主・長教(ながのり)の代には、預かり地の統治で10万石を超えていました。
しかし、1753年(宝暦3年)に、預かり地への増税により一揆が多発し、「芝村騒動」が発生。一時は幕府により鎮圧されるが、そのあとに不正が発覚し、長教以下処罰のあと、預かり地を召し上げられてしまい、財政窮乏は深刻化。1859年(安政6年)の時点では、借財が、銀2,693貫にまで達したと伝わっています。
幕末になると、最後の藩主である11代藩主・長易(ながやす)は、「天誅組」(てんちゅうぐみ)追捕などで功績を挙げました。しかし、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)のときには新政府側に与し、終戦後は、「高取藩」(たかとりはん:現在の奈良県高市郡高取町)と大和国内における御料(ごりょう:天皇や幕府の直轄地)の取締りを命じられたのです。1869年(明治2年)の版籍奉還で、長易は藩知事となっています。
ちなみに、織田家直系となる藩としては、「織田信雄」(おだのぶかつ)から派生する「天童藩」(てんどうはん:現在の山形県天童市)と「柏原藩」(かいばらはん:現在の兵庫県丹波市)があり、有楽斎の系統には芝村藩、「柳本藩」が明治維新期まで存続しました。
江戸城登城の控えの間は、「帝鑑の間」(ていかんのま)。1866年(慶応2年)に刊行された「武鑑」(ぶかん)によれば、家門と譜代の64家が「帝鑑間詰」として挙げられています。
膳所藩(ぜぜはん:現在の滋賀県)は、このうちの1藩。帝鑑の間とは、襖に中国・唐代の帝王が描かれているため、この名で呼ばれました。
1601年(慶長6年)、「徳川家康」により天下普請(てんかふしん:幕府が命令して行なわせた土木工事)として、膳所城が築かれ、譜代の「戸田一西」(とだかずあき)を入れたことで立藩します。
この一西は、「関ヶ原の戦い」の際に「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に従い、「真田昌幸」(さなだまさゆき)が籠る「上田城攻め」に参加。真田攻めに固執する秀忠にただひとり反対したため、のちに家康より褒賞された武将でもありました。
財政能力も高く、膳所藩立藩後、藩財政安定化のため漁民を保護し、琵琶湖で獲れる「紅しじみ」漁を奨励。一西の名を取り「左門しじみ」と呼ばれ、第2次世界大戦前まで、京都に宿泊すると、朝食には必ず出されるほどの名物となったのです。
しかし、一西は1604年(慶長9年)に、落馬にて死去。戸田家転封後は、本多家、菅沼家、石川家が代わり、のちに譜代である本多家が再封され藩主となり、明治期まで存続します。
本多家3代藩主「康慶」(やすよし)の頃までには、瀬田川の治水や多くの財政改革が実行され藩財政も安定。
しかし、9代藩主「康匡」(やすただ)の時代に、藩政改革に失敗します。財政は窮乏の一途を辿り、10代藩主「康完」(やすさだ)の時代には、「本多内匠」、「鈴木時敬」と言う2人の奸臣(かんしん:邪悪な心を持った家臣)による「御為筋一件」が発生します。
これは、「百姓一揆」や「打ちこわし」が発生する中、9代目藩主の康匡が早逝し、若くして座を継いだ康完をないがしろにした事件。その専横ぶりは幕府の耳にも届き、幕府側により、2人と対立する「本多修理」(ほんだしゅり)を家老にするよう命じられ、奸臣一派を一掃したのです。
また、本多修理により、藩校「遵義堂」(じゅんぎどう)が、1808年(文化5年)に創設。ここは、日本で初めて「ロビンソン漂流記」を訳した蘭学者「黒田麴盧」(くろだきくろ)が教鞭を執っていた藩校です。
「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)のときには、佐幕派と尊皇派(討幕派)の意見が対立し、主導権をかけて争うことに。最終的には尊皇派(討幕派)が勝利し、新政府軍のもとで「桑名藩攻め」に参加しています。
膳所藩には、面白い逸話が残っており、1865年(元治2年/慶応元年)、全国に先駆けて「廃城願い」を出し、天守から石垣までを1,200両の値を付け、売り出しました。
なお、現代でも受け継がれる「初実剣理方一流」(しょじつけんりかたいちりゅう)が、居合剣術「今枝流」(いまえだりゅう)を伝えた、元宮津藩士「今枝良重」(いまえだよししげ)、「良正」父子によって創設。初実剣理方一流は、膳所藩によって召し抱えられ、多くの支流を持って、現代にまで伝えられています。
「江戸城」登城の控えの間は「帝鑑の間」(ていかんのま)。帝鑑の間は一般に、幕府成立以前からの譜代大名が詰める間とされていました。
「丹波亀山藩」(たんばかめやまはん:現在の京都府)は、譜代藩であり山陰道への出入り口として重要な役割を担っていましたが、明治維新期の「戊辰戦争」時には、新政府軍の「山陰鎮撫使」(さんいんちんぶし)にあっさりと降伏しています。
その原因となったのが、同藩の所領が丹波氷上郡(たんばひかみぐん)、船井郡(ふないぐん)、備中浅口郡(びっちゅうあさくちぐん)などと飛び地になっており、天保期では亀山藩領のみの石高は事実上、2万石を切っていたとも言われ、深刻な財政難に悩まされ続けていたためでした。
居城となった「亀山城」は、戦国期に地元豪族である波多野氏討伐のために「明智光秀」が入り、その礎を築き近世の発展を見ることとなります。この丹波攻略には、悲しい伝説も残されており、光秀は波多野家当主「波多野秀治」(はたのひではる)の開城、降伏条件を承諾し、「織田信長」に波多野家の助命嘆願をするため、その保証として実母を波多野氏に人質に差し出したとのこと。
しかし、信長は戦国期では珍しくもなかった波多野家の従属外交をよしとせず、波多野秀治と弟「秀尚」(ひでひさ)を安土の「慈恩寺」(じおんじ)にて磔(はりつけ)に処してしまい、その仕返しとして、光秀の実母も磔に処せられたという伝説も残っています。
「本能寺の変」後は、「羽柴秀吉」の一門衆に与えられ、五奉行のひとりである「前田玄以」(まえだげんい)が入りました。なかでも、秀吉一門衆として、「関ヶ原の戦い」の裏切りで有名な「小早川秀秋」(こばやかわひであき)も一時所領しており、後世から見ても曰く付きであると感じられるでしょう。
また、この亀山城自体、放置され荒廃していた本城が、1919年(大正8年)に新宗教・大本教(おおもときょう)の指導者「出口王仁三郎」(でぐちおにさぶろう)により購入され、拠点のひとつとして整備されていましたが、第2次大戦中、大日本帝国政府の徹底した宗教弾圧により、亀岡町に破格の安値で売却させられ破却されています。
神殿は、現大手ゼネコンである「清水建設」の前身である「清水組」により、1936年(昭和11年)に1,500発ものダイナマイトで爆破されました。戦後は、大本教に再び所有権が戻り、現在も大本教の聖地のひとつとして存在しています。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」の功績により、「徳川四天王」の一人「井伊直政」(いいなおまさ)が上野高崎城主より18万石に加増され、「石田三成」の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩しました。
しかし、賊将であった石田三成の本拠地だったことを嫌い、拠点を移そうと試みていた1602年(慶長7年)に、関ヶ原の戦いで受けた傷により死去。
直政を継いだ嫡男「直継(直勝)」の代となり、彦根山に新城の建設を開始。1606年(慶長11年)に完成し、居城を「彦根城」としました。ただし、直継は病弱であり、1615年(元和元年)の「大坂の陣」に参陣できず、代わって参陣した直政の次男「井伊直孝」が、彦根藩2代藩主として継承しています。これにより直継は、直勝と名を改め、上野安中藩に3万石を分知され、彦根藩主より名を消されることとなったのです。
「彦根藩」と言えば、以下のような有名な話があります。
「一枚、二枚、三枚……」。井戸の奥底から聞こえてくる女のうらめしげな声。
ご存じ、「怪談番町皿屋敷」の一場面です。番町皿屋敷の舞台になったのは、江戸は牛込番町、火付盗賊改「青山主膳」の屋敷とされていますが、これに類似した話は播州、姫路、松江、土佐など各地に伝来。
番町皿屋敷をのぞけば、もっとも有名なのが、播州皿屋敷でしょう。こちらの皿屋敷は、旗本「青山鉄山」の私邸で、女中お菊の遺骸を放り込んだという井戸も残っていると言われています。
「青山主膳」と「青山鉄山」は、同姓ですが、何のつながりもありません。というよりも、両名は実在しておらず、両皿屋敷とも歌舞伎、浄瑠璃などの演目で広く知られるようになったところから、そもそもがフィクションである可能性が高いと考えられます。
それに対して、いや、うちこそが皿屋敷の本家と手を挙げているのが滋賀県彦根です。
彦根藩の譜代藩士である孕石(はらみいし)家の嫡男・政之進(こちらは実在の人物)と女中お菊が物語の主人公。孕石の屋敷が馬場町という場所になり、バンバチョウが戯作者の筆によってバンシュウ、そしてバンチョウに転じていったのだと言われています。
ただし、こちらのストーリーは、世間に流布されている「皿屋敷」よりもいくぶんか込み入っています。政之進とお菊は、相思相愛の仲であり、身分違いの恋に悩んだお菊は政之進の本心を確かめるために、彼の前で皿を割り、「私と家宝とどちらが大事か」と迫りました。お菊の思いを知った政之進は、残る9枚の皿を刀の柄で叩き割り、その場でお菊を手打ちに。そのまま政之進は仏門に入り、生涯をお菊の菩提を弔うことに費やしたと言われているのです。
お菊の墓がある「長久寺」には、悲劇のもととなった皿も保管されていて、希望者は実物を見ることができます。もともと皿は9枚あったものの、催事などに貸し出しているうちに紛失し、現在は6枚になっているとのこと。そもそもこの10枚組の皿は、初代藩主・井伊直政が、「関ヶ原の戦い」の武功の褒美として家康からじきじきに賜り、「大坂夏の陣」の活躍の褒賞として孕石の当主に受け継がれたものだと言われています。まさに家宝中の家宝です。
彦根と姫路には、お菊の怨念が化身したという、お菊虫の伝承も。お菊虫の正体は「ジャコウアゲハ」の蛹(さなぎ)で、女が後ろ手に木にくくられた姿に似ているところから、この名が生まれました。お菊虫については、『雲錦随筆』などの、江戸時代の書物にも多く紹介されています。
「姫路藩」(ひめじはん:現在の兵庫県)の藩領は、元々播磨の守護大名「赤松氏」の地盤でした。しかし、戦国時代には「小寺氏」の支配となり、姫路城は小寺家の重臣「黒田氏」の居城になっていたのです。
その後、「織田信長」が勢力を強め、中国地方征伐として「羽柴[豊臣]秀吉」(はしば[とよとみ]ひでよし)が進出すると、姫路城主だった「黒田官兵衛/孝高」(くろだかんべい/よしたか)は、秀吉に姫路城を譲り渡します。1582年(天正10年)「本能寺の変」を経て、秀吉が信長の後継の地位を固め「大坂城」に入ったあと、秀吉の正室「北政所」(きたのまんどころ)の実兄「木下家定」(きのしたいえさだ)が、2万5,000石を拝領し、姫路城主となりました。
しかし、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の戦功により、「池田輝政」(いけだてるまさ)が播磨一国52万石を与えられ、姫路藩を立藩します。
姫路藩と言えば、白鷺にも例えられる優美な名城「姫路城」がまず思い浮かぶはず。それでは、その立派なお城の城主は何家かと聞かれると、返事に困る人が多いのではないでしょうか。
実は、姫路藩の藩主家は安定せず、入れ替えのもっとも多かった藩なのです。まずは外様の「池田輝政」(いけだてるまさ)が52万石で播磨一国を与えられて入封しましたが、3代で因幡「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)へ国替えされています。伝奇として名高い、「宮本武蔵」(みやもとむさし)の姫路城天守閣の「妖怪退治」は、藩制以前、木下家定が城主だった旧姫路城時代のお話ですが、池田城主時代もしばしば妖怪が城内に出没したと伝えられているのです。そのため、姫路城内には、いくつかの開かずの部屋が存在したと言われています。
ちなみに家定の妹は、豊臣秀吉の正妻、北政所。秀吉の義兄ということで、秀吉の旧姓「木下」を与えられ、姫路城主時代には「羽柴」を名乗ることを許されています。また、悪名高い「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は家定の5男です。
池田家3代に続いて、親藩の「本多忠政」(ほんだただまさ)が伊勢「桑名藩」(くわなはん:現在の三重県)より15万石で姫路入りするものの、これも3代で大和「郡山藩」(こおりやまはん:現在の奈良県)へ国替え。その後は、譜代の「松平(奥平)忠明」(まつだいら[おくだいら]ただあき)が18万石で入府しますが、嫡男「忠弘」(ただひろ)が幼主だったため出羽「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)へ。
入れ替わりに出羽から来たのは、やはり親藩の「松平(越前)直基」(まつだいら[えちぜん]なおもと)でしたが、ほどなく没し、その子の「直矩」(なおのり)は7歳で越後「村上藩」(むらかみはん:現在の新潟県)に国替。
陸奥「白河藩」(しらかわはん:現在の福島県)からやってきたのは、徳川四天王のひとり「榊原康政」の孫「榊原忠次」(さかきばらただつぐ)。榊原家は3代続きましたが、幼主「榊原政倫」(さかきばらまさみち)と交換で、越後村上藩から松平(越前)直矩が出戻り。
以後は、「本多家」(譜代・2代続く)、「榊原家」(譜代・4代続く)、「松平(越前)家」(譜代、2代続く)と来て、最後の酒井家(譜代)になって、ようやく9代までつながりました。
このように短命城主が続いたのは、枢要の地・姫路の城主に幼主は心もとないという、将軍家の判断だったのでしょう。妖怪の祟りではなさそうです。
転々とする藩主家は酒井氏の下で安定しましたが、1749年(寛延2年)の「姫路藩寛延一揆」などにより、藩財政は厳しさを増し、19世紀初頭に藩の借金は73万両(現在の価値で約73億円)という莫大な額にのぼったと言われています。
1808年(文化5年)に、家老「河合道臣/寸翁」(かわいみちおみ/すんのう)が、「諸方勝手向」に任命され、財政改革に取り組むこととなります。「質素倹約令」を敷きつつ、領内に義倉(固寧倉)を設けて農民の救済もし、藩に安定をもたらせるよう努めました。また、新田開発や飾磨港の整備などを行ない、特産品の「木綿」を専売制として莫大な利益を確保し、藩の借金を完済したとされています。
これ以外にも、すでにあった藩校「好古堂」(こうこどう)とは別に、私財を投じて「仁寿山黌」(じんじゅさんこう)を設立し、「頼山陽」(らいさんよう)や「森田節斉」(もりたせっさい)、「猪飼敬所」(いかいけいしょ)らを迎え、漢学・国学・医学を教え、教育の奨励、人材育成に取り組みました。その功績は計り知れず、現在も、姫路神社内に「寸翁神社」(すんのうじんじゃ)として祀られているのです。
「福知山藩」(ふくちやまはん:現在の京都府福知山市)は、もともと「織田信長」より「明智光秀」が拝した領地。その後、光秀の娘婿である「明智秀満」(あけちひでみつ)に任せる形で整備され、山陰道(さんいんどう)への拠点となっていました。
秀満は、1582年(天正10年)、「山崎の戦い」における「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)の敗戦処理にて、馬と共に琵琶湖を渡った「湖水渡り」で、一躍名を馳せた名武将です。福知山城主であったときにも、租税の免除である「地子銭免除」(じしせんめんじょ)や、城下町の整備など善政を施し、行政能力も高く、その礎をすでに築いていました。
明智光秀が滅びた山崎の戦い以降は、「豊臣秀吉」の義理の伯父にあたる「杉原家次」(すぎはらいえつぐ)や「小野木重勝」が福知山城に入っています。しかし重勝は、「関ヶ原の戦い」で西軍に付いたことで、「細川忠興」(ほそかわただおき)の追討を受けて自害しました。
その後、関ヶ原の戦いで東軍に属し、功績のあった「有馬豊氏」(ありまとようじ)が、遠江国横須賀(とおとうみのくに・よこすか:現在の静岡県掛川市)より加増転封される形で、福知山藩が立藩されたのです。
初代藩主となった豊氏は、明智家統治期に整備されていた城下町を再整備し、検地なども行ない、さらなる安定化を図りました。のちの「大坂の陣」において戦功を立てた豊氏は、1620年(元和六年)、筑後国「久留米藩」(ちくごのくに・くるめはん:福岡県久留米市)に20万石で移封されたのです。
その後しばらくは、福知山藩は天領(てんりょう:江戸幕府の直轄地)として、当時の「伏見奉行」(ふしみぶぎょう)で、茶人としても有名な「小堀政一(遠州)」(こぼりまさかず[えんしゅう])が統治していたと伝えられています。天領の時期を経ながらも、岡部家、稲葉家、松平[深溝]家の時代を経て、朽木家(くつきけ)が藩主となって幕末まで続きました。
朽木家は、織田信長による朝倉攻めの撤退戦となった、「朽木越え」を助けた武将で名高い「朽木元綱」(くつきもとつな)の家系です。
朽木家が藩主となったときは、すでに藩財政が窮乏していました。さらには、19世紀前半に編纂された「徳川実紀」(とくがわじっき)によると、5代藩主・玄綱(とうつな)の時代には、約96万9,900人が餓死したと記される「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん:1732年[享保17年])に悩まされ、「享保の強訴」と呼ばれた騒動が起こっています。このため、藩政が混乱を来し、藩財政は窮乏から抜け出せないままだったのです。
玄綱の逸話としては、「明智光秀御霊法会」(あけちみつひでごりょうほうえ)を初めて許可したことが有名。これは、「丹波福知山御霊祭り」(たんばふくちやまごりょうまつり)として現代にまで続いており、多くの観客を集めています。
藩財政は、すでに厳しさを増してはいましたが、朽木家には優れた藩主が多く、7代藩主・舖綱(のぶつな)は「擬独語」(ぎどくご)を著し、藩校「惇明館」(じゅんめいかん)設立の基礎を築いています。
さらに8代藩主・昌綱(まさつな)は、蘭学者「大槻玄沢」(おおつきげんたく)やオランダ商館長「イサーチ・チチング」とも交遊して蘭学を学び、「蘭学階梯」(らんがくかいてい)の序文や「古今泉貨鑑」(ここんせんかかがみ)などの多くの貴重な著作を残しているのです。続く9代藩主・倫綱(ともつな)も善政を敷き、領民教化のために「岩間の水」(いわまのみず)を著しました。
13代・為綱(もりつな)の時代に幕末を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県により福知山藩は廃藩。「福知山県」となったあと、のちに周辺の県と合併して「豊岡県」(とよおかけん)となり、1876年(明治9年)、京都府に編入されました。
江戸城登城の際の控えの間は、「柳の間」であり、大名としての格は「陣屋」となっています。
取り立てて大きな藩でもなく、歴史的に重要な役割を果たした藩でもありませんが、実はこの「村岡藩」は、室町時代には、大名頭として日本全国の6分の1を支配したとされ、「六分の一殿」とも呼ばれた、「山名家」(やまなけ)の末裔が領した藩です。
「源氏」(げんじ)の本姓を持つ山名氏は、「清和源氏」(せいわげんじ)の一家系であり、「河内源氏」(かわちげんじ)の棟梁でもある鎮守府(ちんじゅふ:古代、朝廷が陸奥国[むつのくに:現在の秋田県北東部、青森県、岩手県、宮城県、福島県]に設置した、軍政を司る役所)将軍「源義家」(みなもとのよしいえ)の子息・義国(よしくに)を祖とする名門・新田氏(にったし)の一門でした。
「徳川家康」の先祖が、新田氏の始祖である「新田義重」(にったよししげ)から新田荘の世良田(せらた:現在の群馬県太田市世良田町)他を譲り受けた、義重の子息である義季(よしすえ)であるとされているため、徳川幕府側から見ても、本家ということにもなるのが山名家だったのです。
「応仁の乱」後、没落した山名家の末裔「山名豊国」(やまなとよくに)が、「関ヶ原の戦い」にて東軍に付き戦功を挙げ、徳川家康より但馬国七美郡(たじまのくにしつみぐん:現在の兵庫県)に6,700石を与えられ、これを領有することとなったのが始まり。
当初は、1万石を超える大名ではなく、陣屋を構え、参勤交代を行なう旗本(はたもと)の意味でもある「交代寄合」(こうたいよりあい)でした。79歳で死去するまで豊国自身は、大名復帰への意欲がほぼなかったとも伝えられています。
豊国は、連歌の名人としても有名で当時の教養人でもあり、かつ山名家という名門の出身ということで、家康からも厚遇されていました。また、戦国時代の弱腰外交により自らを追放した、かつての家臣たちの窮乏を聞き、改めて召抱えたという逸話も残っているのです。
その後、1642年(寛永19年)、豊国から数えて3代目となる矩豊(のりとよ)の代に、陣屋を但馬国黒野村(くろのむら)に移し、その地名を村岡に改め、「村岡陣屋」を拠点としました。村岡は、山地が多く農耕に適さなかったため、歴代領主は鉱山の開発や畜産業などを奨励し、産業振興に努めています。特に、10代目・義問は、少ない耕地ながらも新田開発や領民の教化に努め、村岡山名家の歴代の中でも、名君と呼ばれているのです。
村岡陣屋が立藩するのは、1868年(明治元年)となります。11代領主・義済(よしなり)の代になり、新政府の太政官より、1万1,000石に高直しされ、晴れて村岡藩が成立しました。しかし、12代・義路(よしみち)のとき、1871年(明治4年)の廃藩置県で「村岡県」となり、「村岡藩」として存在したのは、わずか3年のことだったのです。
この村岡山名家からは、大正昭和に活躍した貴族院議員でもあった、社会活動家の「山名義鶴」(やまなよしつる)が誕生しています。
大名の格としては、国主・准国主・城主・城主格・陣屋(無城)のうちの「陣屋」に該当する小藩でしたが、初代藩主となった「谷衛友」(たにもりとも)は、「織田信長」、「豊臣秀吉」らにも仕え、多くの武勲を表した名武将。「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)、「小牧・長久手の戦い」、「九州の役」など、豊臣秀吉の名高い戦のほとんどに参戦しています。
特に、「羽柴(豊臣)秀吉」配下の折、中国攻めの「三木城」攻略の際、父・衛好(もりよし)が戦死。弱冠17歳であった衛友は、仇である「室小兵衛」(むろこへい)を討ち、父の亡骸を回収するという武功を示し、信長より感状を受け、加増の上、丹波山家城主となりました。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」の際は西軍として、丹波福知山城主「小野木重次」、亀岡城主「前田重次」と共に、「細川藤孝(幽斎)」が籠もる丹後田辺城を攻撃。しかし実際のところ衛友は、「徳川家康」が反旗を翻した「上杉景勝」の会津征伐に向かう以前に、「本多正純」(ほんだまさずみ)を介して徳川家に対する臣下の意思を見せていたものの、同行は許されず、畿内警備を命じられていたのです。周囲の勢力が畿内で西軍として起ち上がる中、衛友は自家存続のため、意に反して西軍に与することとなりました。
こうして衛友は、細川藤孝の籠もる丹後田辺城を攻めることとなりましたが、藤孝の歌道の弟子でもあったことに加え、西軍に属したことも不本意でした。そのため、すでに藤孝と内通。西軍方に戦意を疑われぬよう、藤孝の籠もる田辺城に向かって空砲を放ったのです。これは、のちに「谷の空鉄砲」という言葉で揶揄されます。関ヶ原の戦い後、細川家や本多正純などの仲介により、早くから東軍に内応していたことが認められ、所領を安堵されたことで、山家藩立藩に至りました。
「陣屋大名」(じんやだいみょう)は、立藩から明治維新まで転封などもなく、ひとつの家が藩主を勤め上げることが多いのですが、山家藩もまた同じ。谷家が、衛友から衛滋(もりしげ)まで、13代に渡り領有。明治維新を迎え、1869年(明治2年)に子爵位を賜り、1871年(明治4年)の「廃藩置県」に到るまで存続したあと、京都府に編入されました。
藩の領地は、山地が多く稲作などに不向きであり、財政も必ずしも潤沢ではありません。そこで、藩を挙げて林業などを奨励し、現在は京都府指定無形文化財にもなっている特産品「黒谷和紙」(くろたにわし)などで藩財政を支えていました。黒谷和紙は、源平の合戦で敗れた「平家」の落ち武者たちが山谷に隠れ住み、生活のために始めたと言われています。
また、谷家は公家とも関係が深く、衛友の娘は権大納言「園基音」(そのもとなり)に嫁ぎ、姻戚関係にありました。その娘である「園国子」(衛友の孫娘)が後宮(こうきゅう)に入り、皇嗣(こうし:皇位継承第1位の人物)を産んだことで、外孫の一人は第112代「霊元天皇」(れいげんてんのう)として即位。現代の皇室にも谷家の血が伝わっています。
谷家は武事を尊ぶ家柄でもあり、初代・衛友の父、衛好は当時の刀剣性能測定法である「試刀術」を創始研鑽し「谷流」として伝来。「公儀御様御用」(こうぎおためしごよう)を務めた首切り浅右衛門こと、「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)らを輩出しています。
この浅右衛門の系譜は、9代目「山田吉亮」(やまだよしふさ)まで続き、1911年(明治44年)に亡くなるまで、「大久保利通」(おおくぼとしみち)暗殺犯の「島田一郎」たちをはじめ、明治の毒婦と呼ばれた「高橋お伝」(たかはしおでん)を処刑するなど、浅右衛門の名に恥じぬ活躍を残しました。
戦国期の大和国(やまとのくに:現在の奈良県)は、寺社勢力や豪族が割拠する混沌状態。
その中から、室町時代には、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)の守護代であり、一時は「三好政権」(みよしせいけん)とも言うべき勢力を誇った「三好長慶」(みよしながよし)や、その配下でもあり、のちに「織田信長」に寝返った「松永久秀」(まつながひさひで)が勢力を保っていました。
その後、もとは興福寺一条院に属する有力衆徒であった「筒井順慶」(つついじゅんけい)が「郡山城」(こおりやまじょう:現在の奈良県大和郡山市)城主として、支配しています。
1615年(慶長20年)、「大坂の陣」の功績により、三河国「刈谷藩」(かりやはん:現在の愛知県)から「水野勝成」(みずのかつなり)が6万石で移され、大和郡山藩(やまとこおりやまはん:現在の奈良県)が立藩となりました。
現在、奈良県の大和郡山市は、金魚の街。マンホールから道案内板の絵柄まで、金魚のマスコットだらけです。金魚資料館に金魚カフェ、金魚の自動販売機。極めつけは、古い電話ボックスを利用した金魚水槽です。かつては、ガラス張りの電話ボックスに水を張り、そこに数100匹の本物の金魚を泳がせている光景を見ることができました。
大和郡山は、現在も国内第1位を誇る金魚の生産地。夜店の金魚すくい用の小さい金魚から1匹数10万円の高級観賞用まで、その数は、年間生産量6,000万匹を誇ります。
この地における金魚養殖の由来は、1724年(享保9年)、甲府藩2代・藩主「柳沢吉里」(やなぎさわよしさと)が国替えで大和郡山に入り、同藩の藩主となったことです。吉里は、5代将軍・綱吉の寵愛を一身に受けた幕府側用人「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)の長男でした。
甲府藩にいたときも、用水の整備など勧農政策の数々で名君と言われた吉里は、無類の金魚好き。大和路の湧き水の豊かさに加え、水利に恵まれた農業用溜池の多さに着目した吉里は、さっそく城下に金魚作りを推奨したと言います。溜池の水に、金魚の養殖に欠かせない各種ミジンコが豊富に発生していることも決め手になりました。また、大和郡山のもうひとつの名物である数万本の「御殿桜」は、吉里によって補植された物なのです。
このように、吉里は土地土地にあった改革を行ないました。無論、そのためには、広範な知識とリサーチ能力が必要とされるわけですが、そんな彼の学究肌な一面は、5代将軍のブレーンとして仕えた父・柳沢吉保から受け継いだ能力だと言えます。また、吉里は幼少の頃から和歌に親しみ、生涯読んだ和歌は、1万数千点に及びました。さらには、絵も嗜んだというなかなかの才人だったのです。
幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として、金魚養殖はさらに盛んになります。もっとも、それも最後の6代藩主「柳沢保申」(やなぎさわやすのぶ)の惜しみない援助があればこそでした。
保申は、「戊辰戦争」で官軍として出陣。その功あって、維新後は伯爵となり、久能山東照宮の宮司も務めています。また、1887年(明治20年)には、「柳沢養魚研究場」を設立し、金魚の研究に勤め、同地の地場産業の発展に尽くしました。
なお、大和郡山城址に建つ「柳澤神社」には、初代藩主・吉里とその父・吉保が祀られています。
「江戸城」登城の際の控えの間は「雁の間」(かりのま)であり、雁の間は一般には3万石以上、15万石未満の譜代大名が控える間とされていました。
「淀藩」(よどはん:現在の京都府)は、1622年(元和8年)に「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府)を居城とする「伏見藩」が廃藩になったことにより、翌1623年(元和9年)に「掛川藩」(かけがわはん:現在の静岡県)より、「松平定綱」(まつだいらさだつな)が3万5,000石で入ったことに始まります。
定綱は京都防衛のため、居城となる「淀城」(よどじょう)築城に尽力。この淀城は、「豊臣秀頼」の母「淀殿」に与えられた「淀古城」とは場所が違うとされています。ちなみに淀古城の築城は、「応仁の乱」を引き起こしたとされる、「畠山政長」(はたけやままさなが)です。
松平定綱は、「松尾芭蕉」にも影響を与えたと言われる大名で歌人「木下勝俊」(きのしたかつとし)や、「綺麗さび」で名高い遠州流茶道の祖「小堀遠州」(こぼりえんしゅう:本名[小堀政一])、儒学の大家「林羅山」(はやしらざん)などの当代きっての文化人とも交流があり、1680年(延宝8年)に編纂された歌集「政餘雕玉」(せいよちょうぎょく)にも彼らと共に詩歌が収録されています。また江戸初期の兵法家「小幡景憲」(おばたかげのり)より、甲州流軍学を学んだとされる才人でもありました。
藩政の基盤は、1633年(寛永10年)に「古河藩」(こがはん:現在の茨城県)より入った「永井尚政」(ながいなおまさ)が、城下町の開発や家臣団の編成、木津川の治水事業に尽力し固めることとなります。尚政は、徳川2代将軍「秀忠」の近習として「大坂の陣」で活躍。1622年(元和8年)には、老中にも抜擢され、「井上正就」(いのうえまさなり)、「板倉重宗」(いたくらしげむね)と共に「秀忠近侍の三臣」と評価される名臣でもありました。
以降、石川家、戸田松平家、大給松平家と藩主が替わり、1723年(享保8年)に「稲葉正知」(いなばまさとも)が入ると、以降、稲葉家が幕末まで藩主を務めます。稲葉家は、10万2,000石という大身でしたが、全国にその所領が分散されており、山城国での所領は2万石にも満たなかったとのこと。そのため、他の藩同様に藩財政の窮乏に悩まされ続けることとなりました。
淀藩稲葉家の後世の評判を決定づけたのは、12代藩主「稲葉正邦」(いなばまさくに)です。正邦自身は、幕府の老中職を2度も務め、「板倉勝静」(いたくらかつきよ)や「小笠原長行」(おがさわらながみち)らと共に活躍しましたが、彼の江戸詰の最中に「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。城代が、朝廷より朝敵にされた旧幕府軍の受け入れを拒んだため、旧幕府軍の敗戦を決定的なものとしてしまいました。
その後、正邦は旧幕府崩壊時の老中であったため、新政府から謹慎処分となりますが、翌月には許されて京都警備を任され、翌年の版籍奉還によって藩知事となっています。ただし、のちの時代小説などで、旧幕府軍の受け入れ拒絶を批判する記述などもあり、淀藩稲葉家は裏切り者という立場を決定付けてしまうこととなりました。