260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。
ここでは、主な江戸100藩のひとつである北海道・東北地方の「山形藩」(やまがたはん)[山形県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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5万石 | 出羽国 (山形県) |
山形城 | 水野家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 最上家 | 最上義光 |
57万石 | 外様 |
2. 鳥居家 | 鳥居忠政 |
24万石 | 譜代 |
3. 保科家 | 保科正之 |
20万石 | 親藩 |
4. 松平[越前]家 | 松平直基 |
15万石 | 親藩 |
5. 松平[奥平]家 | 松平忠弘 |
15万石 | 親藩 |
6. 奥平家 | 奥平昌能 |
9万石 | 譜代 |
7. 堀田家 | 堀田正仲 |
10万石 | 譜代 |
8. 松平[越前]家 | 松平直矩 |
9万石 | 親藩 |
9. 松平[奥平]家 | 松平忠弘 |
10万石 | 親藩 |
10. 堀田家 | 堀田正虎 |
10万石 | 譜代 |
11. 松平[大給]家 | 松平乗佑 |
6万石 | 譜代 |
12. 公儀御料 | 該当なし | - | - |
13. 秋元家 | 秋元涼朝 |
6万石 | 譜代 |
14. 水野家 | 水野忠精 |
5万石 | 譜代 |
15. 天領 | 該当なし | - | - |
「伊達政宗」と奥州を舞台に覇を競った「最上義光」(もがみよしあき)を藩祖とする山形藩は、外様大名ではありましたが、最上義光が早くから「徳川家康」に通じ、「関ヶ原の戦い」においても東軍に属していたため、57万石の石高を誇る、東北を代表する雄藩(ゆうはん:勢力のある藩)でした。
藩祖の最上義光は、1546年(天文15年)生まれ。義光が生まれた当時の最上氏は、米沢を居城としていた伊達氏から独立を果たしたばかりで、弱小勢力に過ぎませんでした。義光は1560年(永禄3年)に元服しますが、伊達氏はたびたび最上領内に侵攻。その窮地を持ち前の智略で跳ね返し、地盤を固めていったのです。
義光は、現在の山形県の一部を支配下に置いているにすぎませんでしたが、ひとつの転機となったのは、中央の「織田信長」に接近したこと。これにより得た、「出羽守」(でわのかみ)のお墨付きは、箔づけとなり、村山地方を勢力下に納めることに成功しました。
信長亡きあとは、豊臣秀吉や家康に接近。特に家康と義光は性格的にウマが合ったばかりでなく、家康からしてみれば、伊達政宗に目を光らせる意味でも、義光は存在価値がありました。
家康と結びついた義光は、関ヶ原の戦いと同時期に起きた上杉との戦いで、大いに善戦。24万石の加増を得ることに成功し、山形藩の礎を築いたのです。
山形の弱小勢力から、外様の雄藩となった山形藩でしたが、お家騒動によって最上氏が改易となってしまいます。それ以降は、山形藩の藩主はめまぐるしく変わるようになり、石高もそのたびに削減。幕末の頃は、最上氏の面影は見事に消え失せていました。
最上氏に代わって治めた鳥居氏、その次の保科氏までは辛うじて20万石を保っていましたが、それ以降は、徐々に削られていき、最後の藩主・水野氏の時代には5万石に。外様だった初代の最上氏以降は、譜代藩、親藩となりますが、あまりに大名の入れ替わりが激しく、十二家が入れ替わって治めたため譜代大名の左遷の地と言われるようになりました。
山形藩の石高が削られていくと、最上氏時代に築かれ東北最大とも言われた平城の「山形城」の維持も難しくなっていきました。山形城は、現在の「JR山形駅」までもすっぽりと三の丸の中に入り、「大坂城」や「江戸城」などと同じく、町を囲む形の総構えの見事な城でしたが、巨大な城は分不相応な物に。
しかも山形藩の領地が1764年(明和元年)から3年ほど天領となった時代には、二の丸、三の丸内の家臣屋敷、武器や食糧など貯蔵していた蔵なども取り壊され畑地となり、壊された武家屋敷から出た木材は、薪として売り払われたのです。
最上氏が築いた名城は荒れ果て、天領時代のあと、山形を治めることになった元老中の「秋元凉朝」(あきもとすけとも)は、左遷人事への抗議と荒廃した山形に入ることを嫌がり、江戸で暮らし続けました。
目まぐるしく、藩主が代わった山形藩でしたが、藩という意識が薄かった分、最上川の水運を利用した商業地として栄え、「山形市史」には酒田、山形は表で仙台が裏側だと記されているほどの土地でした。
「会津藩」と聞いて、思い浮かぶのは、言わずと知れた「戊辰戦争」時の「白虎隊」の悲劇でしょう。「徳川家光」の弟「保科正之」(ほしなまさゆき)にはじまる会津松平家は、徳川幕府に一途に尽くしたことが仇となり、薩摩、長州を中心とする新政府軍から目の敵とされ、領土を完膚なきままに蹂躙(じゅうりん:権力や暴力によって侵害すること)されました。
松平家が会津に入る以前には、蒲生家、次に加藤家が藩主でしたが、1639年(寛永16年)に発生した「会津騒動」により加藤家は取り潰しとなり、有力な外様大名であった仙台の伊達家を睨む意味でも、幕府に重要視された会津の地に入ったのが保科家だったのです。
保科正之は、「徳川秀忠」の四男として、江戸城ではなく埼玉県の浦和で生まれました。というのは、正之の母親が正室ではなかったこともあり、母親は江戸城で出産することができなかったのです。しかも、正之が生まれたことは、幕府でもごく一部の者しか知りませんでした。
そののち、幼くして高遠(たかとお)城主「保科正光」(ほしなまさみつ)の養子となり、武田の遺臣である保科氏のもとで厳しい英才教育を受けます。父親である秀忠は、終生、正之を自分の子どもとして認めませんでしたが、成長してから顔を合わせた兄の3代将軍家光には、可愛がられ、のちに会津の地を与えられました。
秀忠は認めませんでしたが、将軍の子どもと言うこともあり、幕府からは松平姓を名乗ることを勧められていました。正之は、自分を育ててくれた保科家への恩を終生忘れることなはなく、保科姓を名乗り続けたのです。
保科正之が会津に入ると、「山本勘助」(やまもとかんすけ)を先祖に持つと言われ、幕末に活躍した、大河ドラマの題材にもなった「山本八重」(やまもとやえ)の一族も高遠から正之に従っています。
保科正之は晩年、十五条からなる家訓を残していますが、その第一条にはこう記されています。
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず」
「大君」とは、将軍を意味し、将軍家に逆らう者は、藩主であっても私の子孫ではないから、家臣達は従ってはいけないと言う意味。将軍家への忠節を第一に考える家訓の存在が、幕末における佐幕派(幕府を補佐するグループ)の代表として会津藩の悲劇の伏線となったことは想像に難しくありません。
「戊辰戦争」で敗れたあと、明治に入っても会津藩の苦難は続きました。松平家は会津の地を没収されたのち、青森県の下北半島にあった斗南藩三万石で再興を許されます。斗南の地は、実質の石高は7,000石ほどで、酷寒の地。食うに困った藩士達は、娘を売るなどの辛苦を舐め続けました。
そうした状況にもかかわらず、不屈の意志で荒地の開墾などを進めたことにより、農業も軌道にのりはじめた矢先、1871年(明治4年)に「廃藩置県」が行なわれ、斗南藩は消滅。移住した元会津藩士達の多くは斗南の地を去ったのでした。
現在の山形県にある「上山藩」(かみのやまはん:現在の山形県上山市)は、もともとは「山形藩」(現在の山形市)の最上家(もがみけ)57万石の一部。上山藩は米沢藩(よねざわはん:現在の米沢市)と接し、「奥州街道」(おうしゅうかいどう:江戸時代の五街道のひとつ)の脇往還(わきおうかん:五街道以外の主要な街道)として整備された「羽州街道」(うしゅうかいどう)が通っていたため、交通の要衝であったと考えられます。
さらには、室町時代に温泉が湧いたことから、湯治場として知られており、多くの人が行き交っていました。そのため、経済的な価値も高く、戦国時代には、最上氏と伊達氏(だてし)が、幾度となく争いを繰り広げた土地でもあったのです。そして、最上氏の山形藩時代には、代々重臣達が配置され、幕府からも重要視されていました。
ところが1622年(元和8年)、「最上義光」(もがみよしあき)亡きあと、最上氏の家督争いが起こります。家中において不審死が続き、藩主の座を巡って、家臣達が反目し合う「最上騒動」によって、最上氏は改易となったのです。
そののち、誕生したのが上山藩で、初代藩主は、松平[能見]家の「松平重忠」(まつだいらしげただ)が務めました。松平[能見]家は、三河徳川家の庶流にあたり、三河時代から徳川家康に仕えてきた一族です。
重忠の父・重勝(しげかつ)は、「武田勝頼」(たけだかつより)との一連の戦などで勲功を挙げ、1612年(慶長17年)からは、家康の6男「松平忠輝」(まつだいらただてる)の附家老(つけがろう)として、彼の後見役を果たしました。
忠輝は、その2年前に、越後「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県上越市)に60万石で入封。重勝は、忠輝の配下において、越後「三条藩」(さんじょうはん:現在の新潟県三条市)2万石を与えられています。
そんな中、1616年(元和2年)、家康から疎まれた忠輝に、改易の処分が科されてしまいました。
ところが、重勝はそれまでの貢献によって連座されず、2万6,000石で遠江「横須賀藩」(よこすかはん:現在の静岡県掛川市)を再立藩します。そして、重勝の没後の1621年(元和7年)、重忠の時代に、4万石にまで加増されて上山藩に移封されることになり、重忠が上山藩の初代藩主となったのです。
そののち、上山藩は譜代と外様が何度か入れ替わっています。1697年(元禄10年)に、譜代であった松平[藤井]家の「松平信通」(まつだいらのぶみち)が3万石で入封。それ以降は明治維新まで、松平氏による統治が10代続きましたが、藩の財政状況は厳しいものでした。凶作が続いていたにもかかわらず、藩の御用商人達は、私腹を肥やし続けるばかり。
これに対し、1747年(延享4年)には農民達の怒りが爆発し、惣百姓一揆が発生したのです。日本最大規模とも言われる3,000人の農民達が庄屋を襲い、米蔵を打ち毀すなどの大騒動となりました。
このときの一揆では、首謀者の5人が打ち首となっています。村人達は、自分達のために命を投げ打ったこの5人を、義民として祀りました。それが、今も住民達から敬意を払われている「五巴神社」(いつつともえじんじゃ)です。
一揆が起きるほど農村が荒廃した背景には、4代藩主・信亨(のぶつら)、5代藩主・信古(のぶふる)、6代藩主・信愛(のぶざね)と3代にわたって、藩政を顧みない暗愚な藩主が続いたことにも原因がありました。その悪しき流れは、信行(のぶゆき)が7代藩主となってからは途絶え、改善が見られるようになっています。
信行は学問を奨励し、藩校「天輔館」(てんゆうかん)を設立するなど、改革を進めたのです。この改革は、幕府の目にするところとなり、幕末の動乱期には、大坂や江戸の警備を任され、江戸薩摩藩邸焼き討ちにもかかわったほどでした。
さらには、時流も敏感に感じ取り、洋式兵学も取り入れた上山藩。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、「庄内藩」(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)と共に秋田へ侵攻しただけでなく、戊辰戦争における「長岡藩」(ながおかはん:現在の新潟県長岡市)や白河口(しらかわぐち:現在の福島県白河市)での戦いにも、部隊を派遣したのです。
幕末に結成された軍楽隊は「上山藩鼓笛楽隊」(かみのやまはんこてきがくたい)として保存され、今日まで続いています。
戦国時代、秋田の地は秋田氏が治めていましたが、「関ヶ原の戦い」で西軍「石田三成」に味方したことにより、1600年(慶長5年)に常陸宍戸へ転封となりました。
ちょうどその頃、秋田藩の藩祖となる「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)も「豊臣秀吉」や三成へ恩義を感じていたこともあり、関ヶ原の戦いにおいて、どちらに味方するのか旗色を示さず、中立の姿勢を取ります。しかし、その動きが原因で家康に睨まれることとなり、1602年(慶長7年)に常陸54万石から当地へ20万石に減封のうえ国替えとなったのです。
藩祖佐竹義宣の父・義重は、勇猛果敢な大名として知られていました。「伊達政宗」と相対した「人取橋の戦い」では、政宗をあと一歩のところまで追い詰め、後年には、南から北条氏、北からは会津の蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が迫り、窮地に追いやられてしまいます。そんな佐竹氏の苦しい状況を救ったのが秀吉の「小田原攻め」。いち早く秀吉に臣下の礼を取ったこともあり、常陸54万石のお墨付きを得たのです。
そうした秀吉への恩義もあり、関ヶ原の戦いにおいては、家康が有利と分かっていながら、東軍に付くことをはっきりと示せず、無傷の兵力を有していたことも警戒の対象となり、江戸から離れた秋田の地へ国替えとなってしまいました。
秋田の地で、佐竹氏は半分以下に所領が削られたことだけでなく、旧支配者の遺臣による一揆が頻発し、統治に難儀しました。苦労の末に一揆を鎮圧すると、積極的に新規の人材を活用するなどして活路を開こうとします。その主だった者は元宇都宮氏家臣の「梅津政景」(うめつまさかげ)や元小山氏家臣「渋江政光」(しぶえまさみつ)といった関東出身の浪人達。
当然ながら、そうした抜擢(ばってき)は旧来の家臣から反発を買うことになり、家老達によって義宣暗殺が企てられたと言われています。浪人の採用については、国替えによって石高が半分以下に減少したこともあり、旧来の家臣の知行地を減らし、彼らの影響力を削ぐ意味合いもありました。それでも石高の7割は家臣の知行地であり、直轄領は6万石ほど。逼迫(ひっぱく)した藩財政を好転させるため、義宣が目を付けたのは豊富な秋田杉と鉱山開発でした。
1606年(慶長11年)に発見された院内銀山は、財政に大きく貢献。銀山には江戸を追われた隠れキリシタンなども流れ込み、周辺は大きな賑わいをみせたのです。
ただ、3代藩主・義処以降になると、鉱山の採掘量が減っていき、度重なる飢饉にも見舞われ、藩の財政は危機的な状況になります。そこで、藩札の発行などで、危機を乗り切ろうとしましたが、それも功を奏さず、常に財政は火の車でした。
財政的には厳しい久保田藩でしたが、藩の特色として挙げられるのは、教育に力を注いだことにあります。社会思想家の「安藤昌益」(あんどうしょうえき)、国学者の「平田篤胤」(ひらたあつたね)、農政家の「佐藤信淵」(さとうのぶひろ)ら江戸時代を代表する名だたる学者を輩出。
江戸から離れてはいたが、常に学問に対しては先取の姿勢を保っていたこともあり、幕末においては、いち早く藩論を勤王に転換し、新政府軍に合流しました。そう舵を切らせたのは、武士ばかりでなく庶民にも影響を与えた平田篤胤の存在が大きかったと言えます。
徳川四天王のひとり「酒井忠次」(さかいただつぐ)の嫡流である「酒井忠勝」(さかいただかつ)が初代藩主を務めた「庄内藩」(しょうないはん:現在の山形県)は、「最上家」(もがみけ)がお家騒動で取り潰しとなったことにより、生まれました。最上家の「山形藩」は、「上山藩」などに四分割。そのうちのひとつが庄内藩です。
酒井氏を語るうえで欠かすことができないのは、やはり忠次。なお、忠次にとって藩祖の忠勝は孫にあたります。忠次は、元服して間もなく「徳川家康」の父である「松平広忠」(まつだいらひろただ)に仕えました。
そのため、家康が幼いときに「今川義元」の人質となった際には、駿府に同行。生涯家康に仕え、数々の勲功を上げています。「三方ヶ原の戦い」で、家康が「武田信玄」に蹴散らされ、這々の体で浜松城に逃げ帰ると、太鼓を打ち鳴らして武田軍に攻撃の隙を与えなかったことや、「長篠の戦い」で、武田軍を見下ろす場所にあった鳶ノ巣砦を奇襲し奪取するなど、対武田との戦いではなくてはならない存在でした。
家康ばかりでなく、代々の将軍から信頼の厚かった酒井氏の庄内藩。外様大名が多い東北にあり、親藩である「会津藩」と共に譜代の重鎮となり、江戸時代を通して幕府を支えたのです。
養蚕業を振興するなど、善政を行なったこともあり、領民達も酒井氏の藩政を慕いました。1840年(天保11年)、8代藩主「忠器」(ただかた)のときに、「越後長岡藩」に移封されると言う話が持ち上がりましたが、領民達の反対運動が起こり、立ち消えになったほどでした。
庄内藩を語るうえで、外すことができないのは、「戊辰戦争」における数々の奮戦ぶり。東北諸藩は、新政府軍が繰り出す、最新式の「銃」や「アームストロング砲」といった洋式兵備の前になす術もなく、敗れていったことは広く知られています。その姿とは対照的に、庄内藩は負け知らずで勝ち続け、領内には新政府軍に一歩も足を踏み入れさせることはなかったのです。
庄内藩が、新政府軍に対して、有利に戦いを進めることができたのは、いくつか理由がありました。その最たる物は、藩の財政を支えた豪商本間家の存在。「井原西鶴」(いはらさいかく)が「日本永代蔵」(にっぽんえいたいぐら)で西の堺、東の酒田と記したほど、北前船で賑わった酒田港を背景に、本間家は莫大な富を築き上げました。
本間家からの献納によって、庄内藩は「スペンサー銃」などの最新兵器を装備し、訓練も行き届いた強力な部隊を有したのです。さらには、藩主が善政を行ない領民から慕われていたこともあり、領内の武士以外もこぞって民兵を組織して、その数は2,200人にもなり、総兵力の約半分を占めました。
庄内藩の戦いは、「仙台藩」や「米沢藩」、さらには「会津藩」の降伏によって、終わりを迎えます。戦後、庄内藩は過酷な罰があると覚悟。しかし、本間家から新政府に対しての30万両とも言われる献金も功を奏し、戦後処理を担当した「西郷隆盛」の配慮もあって、5万石が減封されたにすぎませんでした。
その処理に感動した庄内藩士が薩摩に足を運び、西郷隆盛から聞いた話をまとめ上げたのが、「南洲翁遺訓」(なんしゅうおういくん)です。「会津藩」が23万石から3万石に減封され、ほぼ取り潰しとなった扱いとは、対照的でした。
仙台藩が輩出した、後世に広く知られた人物と言えば、「独眼竜」との異名を持つ藩祖・伊達政宗。
伊達家17代当主として、「佐竹氏」(さたけし)や「蘆名氏」(あしなし)などとの勢力争いに打ち勝ち、豊臣秀吉や徳川家康と渡り合った姿は、まさしく奥州(おうしゅう:現在の福島県、宮城県、秋田県北東部、青森県、岩手県)の覇者でした。
その見識は広く、当時世界の最先端を走っていたスペインなどとも積極的に交流し、領内の金山開発などに活かしたことなどからも、優秀な領主であったことは言うまでもありません。
1600年(慶長5年)に、それまでの居城だった岩出山(いわでやま:現在の宮城県大崎市)から仙台に城を築き、14代にわたって仙台を治めました。仙台の開発には、述べ100万人が動員されたと伝えられています。表向きの石高は、仙台以外にも近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の1万石、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)の1万石を加えて62万石ありましたが、実質の石高は100万石を超えていたのです。
仙台藩では、それまで手付かずであった北上川(きたかみがわ)流域などの低湿地帯において、葛西氏(かさいし)や大崎氏(おおさきし)の遺臣達を積極的に召し抱え、40万石以上の新田開発を行ないました。さらに領内には金山もあったことから、江戸の人々からは、財政的には何の問題もない藩だと、細川家や上杉家と並んで評されていましたが、その内実は、違った物だったのです。
伊達家の家臣団は、陪臣まで含めると2万4,000人ほどになり、彼らへの扶持米などで60万石が必要で、藩の収入としての残りは40万石ほど。そのうちの約半分を江戸などへ輸出して利潤を得ていましたが、江戸時代中期以降に発生した飢饉や、幕府から命ぜられるお手伝い普請、さらには異国船から北海道を守るための警護などで、藩の借金は、一時期100万両まで膨らんだのです。
「町人孝見録」(ちょうにんこうけんろく)によれば、江戸で仙台藩の蔵元を務めていた商人「阿形宗珍」(あがたそうちん)が、仙台藩の抱えた借金を肩代わりしていたことから破産。これを申し訳ないと思った仙台藩が、宗珍を500石の藩士として召し抱えていたというようなことも起きています。
仙台藩は、財政状態が苦しいまま幕末を迎えることになり、多くの藩士を抱えていたものの、軍制改革にはほとんど手が付けられていませんでした。幕末になって甲冑(鎧兜)や日本刀が時代遅れとなり、銃や大砲が戦闘の主流となっていたのにもかかわらず、その変化に追い付くことができなかったのです。その背景には、仙台藩では武士においても厳しい身分制度があり、「銃を扱うのは下位の足軽などがすること。武士のすることではない」といった意識が、根強くあったためと考えられています。
幕末の仙台藩は、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)の盟主でしたが、戦闘において旧態依然としていた藩兵は、まったく役に立ちませんでした。
戊辰戦争において唯一名が知られていたのは、50石で召し抱えられていた軽輩の士「細谷直英」(ほそやなおひで)が率いた「鴉組」(からすぐみ)です。鴉組は、博徒(ばくと:ばくち打ち)や猟師など、武士の身分ではない者達で構成されていました。黒装束をまとった彼らによる奇襲攻撃は、猟師による正確無比な射撃、博徒達の命をものともしない突撃など30回以上に及び、新政府軍を恐怖に陥れたと伝えられています。
鴉組は、このように健闘したものの、正規兵の立場にはなかったために評価されることはなく仙台藩は降伏し、明治維新を迎えることになりました。
関東と東北の境に位置する棚倉藩(たなくらはん:現在の福島県)。交通の要衝ということもあり、昔から領地を巡る争いが絶えませんでした。
戦国時代においても戦いは続き、戦国時代末期にこの地を治めていたのは、水戸から奥州をうかがっていた佐竹氏でしたが、「関ヶ原の戦い」で、どっちつかずの態度を取ったことを「徳川家康」から咎められ、常陸から出羽に国替えとなります。
そのあと、初代藩主としてこの地を治めることになったのが、「高橋紹運」(たかはしじょううん)の実子で、「立花道雪」(たちばなどうせつ)の養子となった「立花宗茂」(たちばなむねしげ)です。
宗茂の父である紹運は、「岩屋城の戦い」(いわやじょうのたたかい:現在の福岡県)において、九州制覇の野望を持った島津軍を相手に壮絶な討ち死にをしたことで知られています。島津軍は岩屋城の攻略に時間を割かれたことから、秀吉軍が上方から到着し、薩摩への退却を余儀なくされました。
息子の宗茂の武勇も天下に知れ渡っています。「豊臣秀吉」の「九州征伐」においては、島津軍を相手に武功を挙げ続けて、「大友宗麟」(おおともそうりん)の家臣でありながら、筑後柳川13万石を与えられ、大名として独立したほどでした。
さらに秀吉の朝鮮出兵においては、1593年(文禄2年)の「文禄の役」で、朝鮮救援のためにやって来た明軍の攻勢によって、秀吉軍の戦線は崩壊の危機に陥ります。ソウルに迫った明軍を「碧蹄館」(へきていかん:現在のソウル北方)で迎え撃った戦いにおいて、先鋒をつとめた宗茂は、獅子奮迅の活躍をして、明軍を食い止めたのです。
宗茂は、関ヶ原の戦いでは、西軍に味方したこともあり、所領を没収され浪人の身となりますが、その武勇を惜しんだ「本多忠勝」(ほんだただかつ)に推挙され、家康の家臣となり、1603年(慶長8年)に棚倉の地に入ったのでした。
ちなみに、関ヶ原の戦いで、西軍に味方し浪人となった者が、大名になったのは宗茂以外にはおらず、如何に宗茂の武勇に家康が恐れと同時に敬意を持っていたかが分かります。
1620年(元和6年)に、「大坂の陣」で武功を立てた宗茂が、旧領の「柳川藩」(やながわはん:現在の福岡県)に国替えとなると、そのあとの藩主は「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)と同じように目まぐるしく代わることに。江戸時代を通じて、親藩、譜代の大名家9家が棚倉藩の藩主となりましたが、棚倉藩の石高は表向きには5万石とは言うものの、実質はその半分ほどしかなく、棚倉への国替えは、譜代の大名達にとって左遷を意味するものでした。
棚倉へと左遷された大名の中でも、間抜けな理由で左遷されたのは「井上正甫」(いのうえまさもと)です。「国史叢書」(こくしそうしょ)によれば、井上は狩に出た際に農家を見付け、その家に忍び込んで、留守番をしていた農家の女房を手篭めにしようとしましたが、夫が帰って来て井上を突き飛ばしました。怒った農夫は、その事実を幕府に申し出ます。当然将軍の耳に入り、井上は棚倉へ左遷されましたが、棚倉に入ることはなく、江戸の屋敷で隠居したと言うことです。
棚倉藩の名を世に高めたのは、「戊辰戦争」における「白河口の戦い」(しらかわぐちのたたかい)でした。家老「阿部主膳」(あべしゅぜん)が率いた16人組は、ゲリラ戦を行ない、「仙台藩」(せんだいはん:現在の宮城県)の部隊と共に新政府軍を大いに悩ませたのです。
「織田信長」の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の子孫が藩主をつとめた「天童藩」(てんどうはん:現在の山形県)は2万石の藩として幕末の1830年(天保元年)に成立しました。
天童藩のルーツは織田信雄にある訳ですが、戦国の世における信雄の評判は決して芳しくはありません。彼が行なった失態の数々を上げてみると、まずはじめは1579年(天正7年)に信長に無断で伊賀に侵攻しますが、重臣を失うなどの大敗北を喫してしまいます。信長の怒りは尋常ではなく、親子の縁を切るとまで手紙に記しました。
1582年(天正10年)に「本能寺」で信長が「明智光秀」に討たれると、仇討ちのため近江まで進出するのですが、豊臣秀吉に先を越されたうえに、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県)に入城したものの、失火により安土城を焼いてしまいます。
信長亡きあと、天下人の道を着々と進んでいた秀吉に反旗を翻し、徳川家康と組んで「小牧・長久手の戦い」のきっかけを作りますが、秀吉勢の所領である伊勢の「諸城」が落とされると、家康にも相談せずに秀吉と講和してしまいました。とにかく派手な失敗を繰り返してきたのが、信雄だったのです。
そして、関ヶ原の戦いで西軍についたことから所領は没収。これで命運は尽きたかに思えましたが、家康による「大坂冬の陣・夏の陣」が起きると、「大坂城」に身を寄せていた信雄は、家康に内通することによって、大坂方の情報を流し続けます。
大坂城が落城する寸前に城を脱出すると、諜報活動の功績から「上州小幡」(じょうしゅうおばた:現在の群馬県)に5万石を拝領したのでした。秀吉と家康の間を行き来しながら、結果的に信長の血を現代に伝えることとなります。
「上州小幡藩」の石高は低く、さらに国持ちの大名でもありませんでしたが、信長の直系の子孫ということもあり、江戸城では大広間詰めを許されるなど、国主格の扱いを受けていました。
ところが、信雄亡きあとのこと、倒幕思想を広めていた思想家「山県大弐」(やまがただいに)が捕縛された「明和事件」(めいわじけん)が起きると、山県の下に出入りしていた者の中に上州小幡藩の家老がおり、倒幕の嫌疑をかけられ、織田家は「出羽国」(でわのくに:現在の山形県と秋田県)2万石に国替えとなってしまいます。
当初は、出羽国の置賜郡(おきたまぐん)、陸奥国の信夫郡(しのぶぐん)などに領地が点在していましたが、1830年(天保元年)の替え地によって天童の地に集められたことから、天童藩となりました。5万石から2万石に領地が削られたこともあり、財政は厳しく、下級武士達は内職として将棋駒づくりを手掛けることに。それが今日まで将棋の産地として天童が知られるきっかけとなります。
さらに、幕末には出羽名産で紅花の専売制を計画しますが、領民達の反対もあり頓挫。専売制の厳しさを領民達は、「裸、裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」と歌にしたほどです。
専売制もうまくいかず、藩の借金は嵩む一方だったのですが、思わぬ副産物を産みました。江戸詰の藩士達や藩医の「田野文仲」(のだふみなか)は「歌川広重」(うたがわひろしげ)と親交があり、藩士達は広重に借金の返礼用に浮世絵を描いてもらっています。数多の浮世絵が天童に持ち込まれ、それが展示されているのが天童にある「広重美術館」です。
もともとは「南部家」家臣の「大浦為信」(おおうらためのぶ)が、戦国時代後期に南部家の内紛に乗じて、津軽地方を統一。
豊臣秀吉の「小田原攻め」に参陣し、本領安堵のお墨付きを貰い独立を果たしたことが、「弘前藩」(ひろさきはん:現代の青森県)が生まれるきっかけとなりました。大浦為信は、「津軽為信」(つがるためのぶ)と改名し、初代藩主となったのです。
「藩祖である津軽為信なくして、弘前藩は生まれることはなかった」と言えるほどの傑物。もともとは、南部氏の家臣であった為信は、奥州の有力大名であった南部氏が衰えることを予見し、21歳のときに南部氏に反旗を翻します。
津軽地方を17年かけて勢力下に置くと、ときの権力者であった豊臣秀吉にいち早く接触。秀吉の小田原攻めの際には、小田原ではなく静岡県の三島まで行き、出迎えたほどでした。そうした姿勢が秀吉に評価され、津軽地方領主として認められたのです。
為信の「抜け目なさ」は、秀吉一辺倒に平身低頭していただけではありません。関ヶ原の戦いでは、自身は東軍に付きましたが、息子は西軍に属させ、どちらか一方が生き残って、家名を絶やさないということまでやってのけます。このように、戦国のサバイバルを生き抜いて、築かれたのが、弘前藩なのです。
一方で、もともとの領主である南部氏は、津軽氏のことを快くは思っておらず、思わぬ事件が発生します。
津軽氏の独立から、200年以上が過ぎた1821年(文政4年)。南部盛岡藩士の「下斗米秀之進」(しもどまいひでのしん)ら数人が、未遂に終わったものの、江戸から帰国途中の9代藩主「寧親」(やすちか)を狙撃する事件を起こしたのです。
首謀者の下斗米秀之進が「相馬大作」(そうまだいさく)を名乗ったことから、「相馬大作事件」と呼ばれています。ちなみに現在まで、同じ青森県でも南部地方と津軽地方の人間はソリが合わないそうで、歴史の因縁が今日まで続いていると言えるのです。
津軽藩の表向きの石高は4万6千石ですが、名君の誉れ高い4代藩主「信政」(のぶまさ)が主導した新田開発により、実質の石高は30万石近くあったと言われています。
ただ、東北諸藩に言えることですが、米以外には目ぼしい産物が無く、北辺の地ということもあり、ひとたび飢饉に見舞われると、藩の財政は奈落の底に突き落とされました。江戸時代末期に発生した「天明の大飢饉」では、領内で8万人の死者を出すほど、甚大な被害に遭います。
その原因は、飢饉にもかかわらず、領民に米を回すと財政が破綻してしまうため、米を上方に送り現金化していたからなのでした。そののち、弘前藩は質素倹約に努め、家臣達の帰農を奨励し、財政負担を減らそうとします。
しかし、江戸時代末期には異国船の来航などで、蝦夷地の警備を任されるようになり、さらなる経済負担を生み、藩の財政は好転することなく幕末を迎えたのです。
戊辰戦争では、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)に属したもののすぐに脱退し、新政府軍側に付きました。その結果、「庄内藩」や「盛岡藩」を相手に連戦連敗だったものの、戦後1万石加増されることになったのです。戦国時代を生き抜いた「抜け目のなさ」が、幕末の動乱期においても発揮されました。
「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれた、現在の北海道の一部を所領して成立した「松前藩」(まつまえはん)は、「蠣崎慶広」(かきざきよしひろ)がときの権力者であった豊臣秀吉、徳川家康から、蝦夷地における交易の独占権を認められたことにより、始まりました。
蠣崎氏が蝦夷地に入ったのは、慶広を遡ること5代前の当主「武田信広」(たけだのぶひろ)のとき。武田信広は元々、現在の福井県にあたる若狭の守護大名「武田信賢」(たけだのぶかた)の子として生まれたとされていますが、出自は定かではありません。若くして、陸奥国(むつのくに:現在の青森県、岩手県、福島県、宮城県)に流れ着き、南部氏のもとに身を寄せていましたが、1454年(享徳3年)に蝦夷地に渡ったのです。
当時、蝦夷地を治めていたのは、「蠣崎季繁」(かきざきすえしげ)。和人の圧政に対して、アイヌの反乱が相次いでいた時期でした。そのなかでも最大のものは1457年(康正3年/長禄元年)に発生した「コシャマインの乱」。アイヌ側の猛攻の前に、和人の館は次々と陥落していったが、蠣崎季繁の配下であった武田信広は何とか抑え込み、最終的にはコシャマイン父子を討ち取ったのです。
この功績により、蠣崎季繁は武田信広を婿養子に迎え、武田信広は「蠣崎信広」(かきざきのぶひろ)と名乗りました。蝦夷地に「勝山館」を築き、橋頭堡(きょうとうほ)を確保すると、そのあとも度重なるアイヌの乱を騙し討ちして、生き抜きました。
蠣崎氏は、出羽を拠点としていた「安東氏」に従属していましたが、5代目「慶広」のときに大きな転機を迎えます。
天下の情勢を見極めて、慶広は貢物などを献上するために、朝鮮出兵のため名護屋に滞在していた豊臣秀吉、徳川家康の懐に飛び込んだのです。慶広は、「サンタンチミブ」と呼ばれる中国の絹織物を家康に献上。家康は見慣れぬ織物に、たいへん喜んだと言われています。
この行動により、秀吉と家康に好印象を与え、 慶広は「安東氏」の軛(くびき)から逃れ、独立を成し遂げることができたのです。
さらに蠣崎から、松平の松と前田の前から取った、「松前」と改姓。1606年(慶長11年)には、居城である福山城が完成し、西は熊石、東は函館付近までを領地としました。
当時の蝦夷地では、米が収穫できなかったため、松前藩の石高は無石。その環境が松前藩の独自性を生んだのです。通常の藩では、農民を生かさず殺さず絞り上げ、年貢を取り立て、その米を大坂や江戸などの消費地に送り、その利益で藩を運営していました。
しかし、松前藩ではそのような形態が取れないため、家臣には、アイヌとの交易ができる知行地を与えたのです。利益を上げるも減らすも家臣の裁量に任されていました。そのため家臣達はアイヌの物を容赦なく収奪。不当な取引が横行したことからアイヌ側の不満が爆発し、1669年(寛文9年)には「シャクシャインの戦い」が起こるのです。
しかし、シャクシャインが謀殺されると、アイヌへの収奪はさらに激しさを増しました。アイヌは交易の相手から、ニシン漁やコンブ漁を支える労働者へと身を落としたのです。
一方、松前藩を訪れた幕府の巡検使に同行した「古川古松軒」(ふるかわこしょうけん)が記した「東遊雑記」(とうゆうざっき)には、和人の風体は上方に劣らぬと驚きをもって記されています。江戸末期、蝦夷地が直轄領となったため、二度ほど転封になりましたが、蝦夷地に復帰し明治維新を迎え、1871年(明治4年)に廃藩となりました。
「盛岡藩」(もりおかはん:現在の岩手県)藩主を務めた南部家の家祖「南部光行」(なんぶみつゆき)が、盛岡に渡ってきたのは鎌倉時代である1191年(建久2年)のこと。
「源頼朝」(みなもとのよりとも)に仕え、奥州(おうしゅう:現在の宮城県、福島県、秋田県北東部、青森県、岩手県)攻めで勲功を挙げ、現在の青森県の東半分と岩手県北部にあたる「陸奥国糠部郡」(むつのくにぬかのぶぐん)などを与えられたことが、そのきっかけでした。もともとは、「甲斐国」(かいのくに:現在の山梨県)に領地があった光行は、最後は甲斐で亡くなったと伝わっています。
光行の子孫は、糠部郡と甲斐と言う2つの領地に暮らし続けましたが、室町時代に入ると、甲斐に暮らしていた他の一族も、甲斐を離れて糠部郡に入りました。
南部氏を語る上で外すことができない人物と言えば、24代当主「南部晴政」(なんぶはるまさ)。戦国時代に生きた晴政は、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど、広大な領地を獲得したのです。有能な大名であった晴政でしたが、世継ぎにはなかなか恵まれず、婿養子に「石川信直」(いしかわのぶなお)を迎えていました。
しかし、晩年に実子である晴継(はるつぐ)が生まれたことにより、晴政亡きあと、お家騒動に発展します。晴継が早世したことにより、結果的には信直が南部家を継ぎましたが、家勢は衰えていきました。その騒動により、家臣であった「津軽為信」(つがるためのぶ)が南部家を離反。独立した為信は、「津軽藩[弘前藩]」(つがるはん[ひろさきはん]:現在の青森県弘前市)を立藩することとなったのです。
そののち、盛岡に居城を築いた南部家の石高は8万石ほどでしたが、3代藩主・重信(しげのぶ)の治世に新田開発を行ない、10万石まで石高を増やしています。
さらには、水運を整備するなどして、盛岡の城下町を発展させ、領内の金山を開発。また、馬の産地であったことから特産品のひとつとしたことで、藩の財政を潤しました。
ところが、盛岡藩を南部氏が立藩してからの約230年の間に、50回にもわたって飢饉に見舞われたのです。特に、「天明の飢餓」(てんめいのききん)の被害は危機的なもので、人口30万人のうち、その4分の1にあたる7万5,000人が餓死しています。
さらには、1792年(寛政4年)、ロシアのラクスマンが根室に来航する事件が起きると、幕命により根室と函館の警備を任されるようになり、藩の財政は急速に悪化していきました。そうした状況を打開する有効な手段を見付けることができなかった盛岡藩は、海産物への課税や人頭税などを徴収することで、この財政難を乗り切ろうとしたのです。
ところが、領民の怒りが爆発し「三閉伊一揆」(さんへいいっき)が発生しています。2回にわたって起きたこの一揆には、延べ3万人近い領民が参加しました。2度目の一揆では、藩境を越えて仙台領内にまで流れ込み、課税の撤廃や、三閉伊地方を仙台藩に組み込むことなどを要求。収まる気配はありませんでしたが、仙台藩の尽力もあり、一揆は収束に向かっていったのです。
このとき、仙台藩の仲介によって一揆が収まったことから、仙台藩に恩義を感じた盛岡藩。戊辰戦争では、藩論が新政府軍よりだったにもかかわらず、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)に加盟しました。
盛岡藩は、奥羽越列藩同盟の中で最後まで抵抗していましたが、最終的には降伏。「白石藩」(しろいしはん:現在の宮城県白石市)に転封となるものの、70万両の献金を条件に、盛岡に復帰することになったのです。しかし、結局はその金を用意できなかったために領地返上を申し入れ、それが認められて廃藩となりました。
「上杉謙信」を養父に持つ「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、「関ヶ原の戦い」において西軍に味方したことから、それまでの会津(あいづ:現在の福島県)120万石から30万石に削られ入封したことが、「米沢藩」(よねざわはん:現在の山形県)のはじまりです。
米沢藩としては、景勝が初代藩主ですが、上杉家においては、戦国時代を代表する武将である謙信を藩祖としています。
謙信は、一時傾いていた家勢を盛り返し、関東管領に就任。越後だけでなく、関東、越中、信濃、加賀、能登の一部なども影響下に置くなど、米沢藩が江戸時代を通じて存続する礎を築いたのでした。
上杉家にとって、その存在は単なる藩祖ではなく、家を守る神と言っても良いでしょう。それは、その埋葬ぶりからも伺えます。謙信の死後、その遺骸は甲冑(鎧兜)を纏わせたうえで漆(うるし)を流し込み固めた甕(かめ)に納められました。死後も甲冑(鎧兜)を着ていることからも、生前の武勇で家を守って欲しいと言う願いが込められているかのようです。
さらに、景勝の領地が越後から会津、さらには米沢と移る際にも、一緒に運ばれ、「米沢城」では本丸に安置されていました。謙信は、「毘沙門天」(びしゃもんてん)の旗を掲げて戦場を縦横無尽に駆け巡り、「織田信長」をも恐れさせましたが、まさにその存在は米沢藩にとって武神である毘沙門天その物であったのです。
米沢藩は、会津から転封となった際、8割近くの減封となっているのですが、旧来の家臣5,000人をそのまま召しかかえ続けたと言います。
そのため、知行地(ちぎょうち)を与えるにも事欠きました。城下町も手狭であったことから、下級の士には城下ではなく、近郊の農村に半農半士の屯田兵(とんでんへい)として住まわせたとのこと。のちに半農半士の下級武士は「原片の糞掴み」と軽蔑され、城下の武士は「城下のお粥腹」と呼ばれ、お互いに罵りあったと言うことです。
13代にわたって米沢藩は明治時代まで続きましたが、最初の危機は3代「綱勝」(つなかつ)が急死したときでした。会津藩主「保科正之」(ほしなまさゆき)の取りなしで、「忠臣蔵」で知られる「吉良義央」(きらよしひさ)の長子「綱憲」(つなのり)が跡を継ぎ断絶は免れます。
ところが、15万石の減封となり、さらに財政は厳しくなりました。しかも綱憲は、実家である吉良家に惜しみなく援助をし、能を好むなど生活も派手であったことから、吉良義央が「赤穂浪士」に討たれた際には、同情する者はほとんどいなかったと言います。藩財政は加速度的に傾き、8代藩主「重定」(しげさだ)は、万策尽きて領地の返納を幕府に申し出ようとしたほどでした。
危機的状況の中、登場したのが9代・上杉鷹山(うえすぎようざん)です。鷹山が「白子神社」に奉納した現存する誓文によれば、君臣心力尽くるまで倹約以外にないと記し、平時は一汁一菜、贈答の禁止、藩主の許嫁(いいなずけ)であっても普段は綿を着ることなど、藩主自ら身を律し、改革に挑みました。さらに荒廃した農村の整備にも着手し、開墾の奨励、間引きの禁止なども行なっています。
鷹山の改革により藩の状況は危険水域を脱しましたが、13代「茂憲」(もちのり)のときに「戊辰戦争」が起こり、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)の盟主として参戦しますが、1868年(慶応4年)8月に降伏し、明治の廃藩置県を迎えました。