戦国時代に軍師として活躍した人物達をご紹介しています。
もともと占い・祈祷を仕事としていた軍師ですが、戦国時代の中盤頃から参謀としての役割を持つ人物も登場しました。「山本勘助」がその走りだと言われています。
「戦国時代を動かした名軍師」では、山本勘助はもちろん、「立花道雪」「竹中半兵衛」「島左近」など、歴史上の有名な天才軍師を一覧で表示。気になる軍師を選択すると、その人物の詳しい解説がご覧頂けます。
戦国随一の知恵者として知られる「島左近/嶋左近」(しまさこん)の生誕年には諸説あり、1540年(天文9年)、もしくは1543年(天文12年)生まれと伝えられています。島左近は、大和国(現在の奈良県)の「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えたのちに主君を何度も変え、破格の待遇で「石田三成」(いしだみつなり)に、家臣として迎えられたのです。歴史で「たら・れば」を言っても意味はないかもしれませんが、もし島左近の仕官した大将が、曲がったことが嫌いで一本気な石田三成でなければ、日本の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。そんな風に想像を掻き立ててくれる名軍師・島左近の生涯をご説明すると共に、その子孫達についてもご紹介します。
軍師と聞いて最初に思い浮かべる人物とは、例えば戦場の本陣で大将の近くに控え、刻々と変わる戦況を分析して最適な戦略・戦術を大将に授け、最終的に勝利に導く人、というイメージではないでしょうか。こういう役割を担う人を「軍監」(ぐんかん)、あるいは「軍者」(ぐんじゃ)と言い、戦国時代の初期には軍の大将がこの役を担っていました。しかし「山本勘助」(やまもとかんすけ)が甲斐(かい:現在の山梨県)武田氏に仕えてから、大将に代わって軍監を行う専任担当が生まれたと言われます。これが戦国時代における軍師の誕生でした。そんな軍師の具体的な仕事と、軍師に必要な要素についてお話しします。
1477年(文明9年)生まれの「朝倉宗滴」(あさくらそうてき:本名「朝倉教景」[あさくらのりかげ]、宗滴は法名)は、戦国時代初期に活躍した武将です。越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名「朝倉家」の軍師を務めており、その豊富な合戦経験と卓越した戦いのセンスは、「足利将軍家」からも大いに頼りにされていました。さらには、武将同士が敵対するのが当たり前の時代に、越後国(現在の新潟県)を治めた名将「上杉謙信」から、「仲良くしてほしい」とまで言われたほどの人物だったのです。そんな朝倉宗滴が、名軍師としてどのような生涯を送ったのか、その人となりと共にご説明します。
「山本勘助」(やまもとかんすけ)は、「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:16世紀後半に作られた、武田氏の戦略・戦術を記録した書)に登場する軍師です。ところが他の史料にその名が登場しないため、長い間実在が疑問視され、「幻の軍師」と呼ばれてきました。しかし1969年(昭和44年)、釧路の市河氏という方が、先祖から伝わる古文書の中に山本勘助(記載は[山本管助])の名が記された書状(市河家文書)を発見。調査したところ本物であることが確認され、山本勘助が実在の人物であったことが判明したのです。近年、多くの歴史学者の研究によって少しずつ山本勘助の生き様が見えてきましたが、今もなお詳細は謎のまま。ここでは甲陽軍鑑の記載をもとに、山本勘助の活躍をご紹介します。
「真田幸隆」(さなだゆきたか)は、もともと信濃(しなの:現在の長野県)東部に住んでいた小豪族の一武将です。しかし甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」に仕えてから大出世し、最終的には「武田二十四将」(武田家を代表する名将)に数えられるまでになりました。そんな真田幸隆が最も得意とした戦法は、なんと「謀略」(ぼうりゃく)。謀略とは、平時からあの手この手で敵方に入り込んで様々な工作を行うこと。これによって、いざというときに戦わずして勝つ。これぞ、戦国を生き抜いた真田幸隆流の必勝法でした。
「立花道雪」(たちばなどうせつ)は豊後(ぶんご:現在の大分県)生まれ。「大友宗麟」(おおともそうりん:豊後を治めた大名。のちにキリスト教に帰依し、「キリシタン大名」と呼ばれた)に仕えました。戦国の軍師は数多く存在しますが、立花道雪ほど武士として、人間としての正しさを追求した人物はいません。そんな立花道雪の人生には、戦国時代の人物らしからぬ様々なエピソードがあります。
日本史における最大のミステリーのひとつと言えば、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」です。「明智光秀」が主君の「織田信長」を討ち、歴史の大きな転換点となりました。明智光秀が謀反を起こした理由については多くの説がありますが、その真相は分かっていません。本当のことを知るのは明智光秀本人だけですが、実はもうひとり、明智光秀が本能寺の変を起こした理由を知っていると推測される人物がいます。それが、明智光秀に軍師として仕えた「斎藤利三」(さいとうとしみつ)です。斎藤利三がどのようにして、本能寺の変にかかわったのかをご紹介します。
「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)は1538年(天文7年)、肥前国(現在の佐賀県、及び長崎県)生まれ。「龍造寺家/竜造寺家」の軍師として9歳年上の義兄、「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)に仕えました。「動」の大将・龍造寺隆信と「静」の軍師・鍋島直茂のコンビは九州北部を舞台に暴れまくり、龍造寺家は、1580年代に最盛期を迎えます。しかし、豊臣秀吉が九州を支配したとき、龍造寺隆信の子がいるにもかかわらず肥前国の支配を命じられたのは、軍師の鍋島直茂でした。これはもちろん、鍋島直茂の裏切りではありません。それではなぜ、そんな逆転現象が起こったのか、鍋島直茂の生涯を辿りながら解説します。
一般的に「軍師」とは、合戦において「どのように敵を攻撃すれば、戦いが自軍に有利かを考え、大将に進言する人」というイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。しかし実際には、合戦以外で力を発揮する軍師もたくさんいました。その代表格が、「徳川家」の軍師として名高い「本多正信」(ほんだまさのぶ)です。徳川家が天下を統一する道のりの中、武力ではなく高い政治力で敵方の武将や朝廷と交渉。NHK大河ドラマ「真田丸」(さなだまる)では、役者の「近藤正臣」(こんどうまさおみ)さんが飄々とした演技で、武人ではない雰囲気を上手く表現していました。真田丸でも描かれたように徳川家の重臣であった本多正信が、江戸幕府の基礎を内側からどのように固めたのか、その人生を振り返りながらご説明します。
戦国きっての名軍師「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)は、美濃国(現在の岐阜県南部)の出身。身体が弱く、きゃしゃな風体は「女性のよう」と形容されたほどの美男子でした。しかし恐ろしいほどの知恵者で、若くして「斎藤龍興」(さいとうたつおき:斎藤道三[さいとうどうさん]の孫)に仕えた頃には「織田信長」(おだのぶなが)軍を撃退したという話が残っています。その後は「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉[とよとみひでよし])にスカウトされ、軍師として日本中を駆け巡ります。同じ秀吉軍の軍師であった「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)とともに「両兵衛」と並び称されました。
「内藤如安」(ないとうじょあん)は、戦国で最も数奇な運命をたどった軍師です。17歳のときに京都で洗礼(せんれい:キリスト教徒となること)を受けた縁で、「小西行長」(こにしゆきなが)に仕え、「文禄・慶長の役」(ぶんろく・けいちょうのえき)に参陣。「明」(みん:14~17世紀に中国を支配した王朝)との和平交渉を担当しました。その後は肥後国(現在の熊本県)で「加藤清正」(かとうきよまさ)に仕え、最終的にフィリピンのマニラで日本人町の首長として晩年を過ごします。そんな内藤如安の生涯は、常にキリスト教とともにありました。
「山中鹿助」(やまなかしかのすけ)は、出雲国(現在の島根県東部)を支配した尼子氏の軍師。宿敵・毛利氏(中国地方全般を支配した戦国大名)によって尼子氏が滅ぼされたあと、復活を目指して何度も毛利家に戦いを挑んでいます。主君のために命をかけて戦地を駆け巡る山中鹿助の働きぶりはのちの世まで語り継がれ、江戸時代には多くの講談が作られ、明治時代には「日本の武士の鑑」として教科書に載っています。では山中鹿助とは、どんな人物だったのでしょうか。
「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の守護「小寺氏」の家臣に過ぎませんでした。しかし、頭脳明晰で「織田信長」、「豊臣秀吉」に仕えてからは、軍師としての能力を発揮。最終的には豊前国中津(現在の福岡県北部)12万石の大名へと昇り詰めたのです。黒田官兵衛が発揮した軍師としての能力とはどのようなものだったのでしょうか。「天才軍師」と呼ばれた黒田官兵衛の策略について、詳しくご紹介します。
「藤堂高虎」(とうどうたかとら)と言えば、「徳川家康」の軍師として有名ですが、実は生涯で11人もの主君に仕えています。当時から、その変わり身の早さを快く思わない人もいました。しかし逆に言えば、これは時勢と人物の器量を見抜く力が高かったことの証です。また藤堂高虎は城づくりの名人でもあり、生涯で20余りの築城を行いました。「江戸城」(現在の東京都千代田区)や「聚楽第」(じゅらくだい:現在の京都市上京区)、「二条城」(にじょうじょう:現在の京都市中京区)、大阪城(現在の大阪市中央区)の築城にも藤堂高虎がかかわっていたとされます。そして徳川家が最も信頼する軍師のひとりとして、江戸幕府と江戸のまちづくりを支えました。
「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)は、「仙台藩」(現在の宮城県仙台市)初代藩主「伊達政宗」の重臣で、白石城(現在の宮城県白石市)の城主です。頭の回転が速く決断力にも優れていたため、伊達政宗のピンチを何度も救い信頼されました。伊達政宗からはもちろん、天下を取った「豊臣秀吉」や「徳川家康」からも高く評価された軍師・片倉小十郎景綱について、詳しくご紹介します。
「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、越後国(現在の新潟県)の戦国武将「上杉謙信」と「上杉景勝」に仕えた家臣です。特徴のある「愛」の文字が付いた兜を被り、ドラマや映画で取り上げられることも多い人物。主君・上杉景勝を何度も助けて勝利に導くなど、軍事・治政の両面で知将として知られています。才気と美貌をかね備えていたという軍師・直江兼続について、詳しくご紹介します。
「真田幸村」(さなだゆきむら)は、天下人「豊臣秀吉」から軍師としての才能を見抜かれた武将です。「大坂冬の陣」では「真田丸」から猛攻し、「大坂夏の陣」では「徳川家康」を窮地に追い込んだことが有名で、「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と讃えられました。しかし、天下を取ったわけでもない武将が、なぜそこまで高い評価を受けたのでしょうか。智に優れていたという、軍師・真田幸村の人気の秘密に迫ります。