朝廷(ちょうてい)とは、天皇を中心に皇族や公家で組織された政府のことで、日本の歴史の重要な場面にたびたび登場する大きな存在です。ある時代には強い支配力を持つ政治機関として、ある時代には権威の象徴となり、役割を変えながら長い間、政治に大きな影響を与えてきました。ここでは、朝廷の成り立ちや、その機能の移り変わり、また幕府との関係を解説します。
「朝廷」の「朝」は政治を、「廷」は庭を意味し、漢字文化圏で君主制の政府や政権を表わす言葉として使われてきました。古代の君主が早朝から臣下を集めて政務を開始していたことに由来し、日本では天皇を中心に政治を行う場所や組織のことを朝廷と呼ぶようになったのです。
日本に朝廷が成立したのは、3~4世紀ごろと言われていますが詳しいことは分かっていません。初代の「神武天皇」(じんむてんのう)が即位するまでの物語は「古事記」や「日本書紀」(にほんしょき)に描かれていますが、これは神話の域を出ず、実際に本格的な朝廷が始まったのは第21代の「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)が大和朝廷の勢力を拡大し、東国まで統治した5世紀後半頃とする説もあります。
このように始まりには諸説あるものの、日本の朝廷は1885年(明治18年)に明治政府が内閣制度を設立するまで続きました。
所蔵刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
「幕府」とは、「征夷大将軍」をトップとして武士が政治の実権を握る組織のことです。朝廷の始まり以来、天皇と公家が政治の実権を独占していましたが、平安時代の末期には平家や源氏といった有力な武家が台頭。1185年(元暦2年/文治元年)には「源頼朝」(みなもとのよりとも)が「鎌倉幕府」を開き、武家政権を樹立したのが幕府の始まりです。
これより前、平家の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)が、朝廷内の権力争いを収めた功績で政治のトップである太政大臣にまで出世し、権力をほしいままにしていました。これに不満を持った公家や平氏以外の武家が反乱を起こし、その反乱の筆頭となったのが源頼朝だったのです。源頼朝は「源平合戦」と呼ばれるこの戦いで平氏を滅ぼすと、幕府を開いて政治の実権を握ります。これを境に、政治の主導権は天皇を中心にした貴族社会から武家へ移り、朝廷は力を失いました。
鎌倉幕府から始まった武家政権は、室町幕府を経て、江戸幕府が1867年(慶応3年)に「大政奉還」を行い、統治権を朝廷に返上するまで続きます。この間、武家から政権を取り戻した唯一の天皇が第96代の「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)です。
後醍醐天皇は1318年(文保2年)に即位すると、みずから執政することを望み、近臣とともに討幕を企て、1331年(元弘元年)に挙兵します。一度は鎌倉幕府に鎮圧され、隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐郡)に流されますが、釣り船で島を脱出し、1333年(元弘3年)に再び挙兵。これに加勢したのが鎌倉幕府の御家人だった「足利尊氏」(あしかがたかうじ)です。
足利尊氏は後醍醐天皇の一度目の反乱を鎮圧した幕府軍の大将であり、このときも後醍醐天皇を討伐するために出陣していました。しかし、情勢を見て鎌倉幕府を見限り、後醍醐天皇の軍に付いたのです。
足利尊氏は河内源氏の血を引く鎌倉幕府の有力御家人でしたが、この頃、鎌倉幕府では開祖・源頼朝直系の将軍は途絶えていました。
代わって源頼朝の外戚(がいせき)の北条氏が代々、執権(しっけん:将軍を補佐する鎌倉幕府の要職)の職を独占し、実権を握っていたのです。源氏出身の足利尊氏は、強権をふるう北条氏から政権を取り返し、新たな武家政権の確立を狙って鎌倉幕府に反旗をひるがえしました。
足利尊氏が味方に付いたことで後醍醐天皇方は勢いづき、北条氏一族と鎌倉幕府を滅亡させます。こうして後醍醐天皇は武家から政権を奪い返すと、「建武の新政」と呼ばれる天皇主導の新政治に着手したのです。
しかし、新たな武家政権を打ち立てたい足利尊氏にとって、公家ばかりを優遇する建武の新政は納得のいかないものでした。足利尊氏は同じように不満を募らせていた武家勢力とともに1335年(建武2年)、鎌倉で反乱を起こします。翌年には後醍醐天皇のいる京を制圧し、新たに「光明天皇」(こうみょうてんのう)を即位させ、ついに幕府を開きました。
一方、帝位を追われた後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、この地でもうひとつの朝廷を開きます。ここから、京都の北朝と奈良の南朝が並立する南北朝時代が始まり、2つの朝廷の対立は57年にわたり続いたのです。
南北朝時代には2つの朝廷がそれぞれに正統性を主張して何度も武力衝突し、これに応じて各地でも、北朝あるいは南朝に付く勢力が戦乱に明け暮れました。後醍醐天皇は自身の皇子達を各地に向かわせ、北朝に対抗しましたが劣勢を覆せません。厳しい戦況が続くなか、後醍醐天皇は1339年(延元4年)に第7皇子の「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)に譲位した直後、52歳で崩御します。
後醍醐天皇なきあとも続いた南北朝の勢力争いは、「足利義満」(あしかがよしみつ)が室町幕府3代将軍に就き、南北朝を合一してようやく終わりました。
室町時代に書かれた軍記物語「太平記」が、後醍醐天皇の遺言は「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄[こんぱく]は常に北闕[ほっけつ]の天を望まんと思ふ」だったと伝えています。南山は吉野の山、北闕は皇居の北の正門で「私の骨は吉野に埋まっても、魂は常に都を向いている」と、闘う天皇は最期まで京の都を奪還することをあきらめていなかったのです。