「安達泰盛」(あだちやすもり)は鎌倉時代中期に活躍した武将です。鎌倉時代初期に鎌倉幕府を「13人の合議制」によって支えた「安達景盛」(あだちかげもり)のひ孫。安達泰盛が活躍した時代は、「元」(げん:13~14世紀のモンゴル帝国)による侵略が行われた時代で、内政・外交的に極めて難しい舵取りが求められました。また戦によって疲弊した「御家人」(ごけにん:鎌倉将軍と主従関係を結んだ武士)の救済という大問題もあったのです。この難局を乗り越えたのが、鎌倉幕府の重臣であった安達泰盛。しかし、のちに鎌倉幕府内の勢力争いに敗れ、一族もろとも滅ぼされてしまったのです。
幼い頃から、弓馬に才能を発揮した安達泰盛は、1253年(建長5年)に父「安達義景」(あだちよしかげ)が他界したため、23歳で安達家の当主に。
安達泰盛は5代執権(しっけん:鎌倉幕府における事実上の最高権力者)である「北条時頼」(ほうじょうときより)に重用され、「評定衆」(ひょうじょうしゅう:政策決定や裁判を行う重職)として鎌倉幕府を支えました。
北条時頼が亡くなると、幼い「北条時宗」(ほうじょうときむね:のちの8代執権)が成人するまで、安達泰盛が幕政を主導。
また、1266年(文永3年)、鎌倉幕府6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう:88代:嵯峨天皇[さがてんのう]の第一皇子)を京都へ戻し、新たに3歳の鎌倉幕府7代将軍「惟康親王」(これやすしんのう:宗尊親王の嫡男)を迎えたのも安達泰盛の指示でした。
これは、北条時宗が執権になったとき、年上の鎌倉将軍がいると政治に口出ししてくるかもしれないと考えた安達泰盛が、その可能性を早めに排除しておこうと考えた戦略だったのです。
1268年(文永5年)、ついに北条時宗が執権に就任しました。その6年後、元軍が九州に襲来(元寇・文永の役)しますが、鎌倉幕府軍の必死の抵抗によって元軍は敗走。そのあと、御家人達に対する褒美の分配を担当する「御恩奉行」(ごおんぶぎょう)を任されたのが安達泰盛でした。しかし、これは極めて難しい仕事だったのです。
日本国内の合戦であれば、負けた側の領地を没収して勝利した御家人達に与えることもできますが、今回は元の土地を取り上げることはできません。せっかく合戦に勝っても褒美がもらえない御家人達は、不満を募らせます。
そんな御家人のひとり、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の「竹崎季長」(たけざきすえなが)は、自分への報償がないことを不満に思い、鎌倉幕府に直談判することを決意。軍馬を売り、旅費を作って鎌倉に到着したものの、鎌倉幕府の役人は誰も話を聞こうとしません。
しかし安達泰盛だけはきちんと耳を傾け、その活躍に応じて肥後国へ新しい領地を与えています。このように、安達泰盛は権力を振りかざすことなく、正しいことを貫く人物でした。
1281年(弘安4年)、2度目の元寇でも鎌倉幕府軍は勝利を収めます。しかし今回も御家人達への褒美を十分に出すことはできず、鎌倉幕府は厳しい立場に追い込まれました。そこで安達泰盛は、御家人の権利を拡大し、鎌倉幕府の強化を目指す政治改革を断行。
これを「弘安の徳政」(こうあんのとくせい)と呼びます。しかし、この改革は「得宗家」(とくそうけ:代々の執権を出し続けた、北条宗家)の力を制限することになりました。
これに反発したのが、得宗家に近い重臣「平頼綱」(たいらのよりつな)。こうして御家人達から圧倒的に支持された安達泰盛と、得宗家を背後に持つ平頼綱は徐々に反目するようになっていきました。
北条時宗の存命中は、安達泰盛と平頼綱の対立は問題なかったのですが、1284年(弘安7年)に北条時宗が死去すると、この権力闘争が一気に顕在化。1285年(弘安8年)11月17日、平頼綱の軍勢がいきなり安達泰盛を襲い、一族500名を皆殺しにしてしまいました。
これは11月に起きたことから「霜月騒動」(しもつきそうどう)と呼ばれます。この戦乱は全国に及び、安達泰盛を支持していた御家人の多くが討伐されます。
政治の実権を握った平頼綱は、弘安の徳政をすべて廃止し、鎌倉幕府の実権は得宗家が独占することを宣言。こうして、得宗家に近い人々が幕政を牛耳った「得宗専制」(とくそうせんせい)が始まったのです。
前述の竹崎季長は、1293年(永仁元年)に「甲佐神社」(こうさじんじゃ:熊本県益城郡)に「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)を奉納しています。これは当時の両軍の戦いぶりを現在に伝える貴重な史料として国宝に指定されている物。
この絵巻には、安達泰盛が竹崎季長の直訴に耳を傾ける様子も描かれていました。これは、自分の恩人であり、御家人達の味方であった安達泰盛が、霜月騒動で命を落としてしまったことに対する鎮魂の意味が込められていたと言われます。