平安時代の重要用語

阿衡事件 
/ホームメイト

887年(仁和3年)、59代「宇多天皇」(うだてんのう)が即位します。このとき宇多天皇は、先代の頃より関白(かんぱく:成人天皇を補佐して政治を行う朝廷の要職)であった「藤原基経」(ふじわらのもとつね)に対し、改めて関白に任じる勅書(ちょくしょ:天皇の命令書)を出します。
しかしその文中にあった「阿衡」(あこう:中国の官職名)という言葉を巡って、藤原基経が職務を放棄するという事件が発生。最終的に、天皇が非を認めることになりました。この騒動を「阿衡事件」(あこうじけん)、あるいは「阿衡の紛議」(あこうのふんぎ)と呼びます。

平安時代の重要用語

阿衡事件 
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887年(仁和3年)、59代「宇多天皇」(うだてんのう)が即位します。このとき宇多天皇は、先代の頃より関白(かんぱく:成人天皇を補佐して政治を行う朝廷の要職)であった「藤原基経」(ふじわらのもとつね)に対し、改めて関白に任じる勅書(ちょくしょ:天皇の命令書)を出します。
しかしその文中にあった「阿衡」(あこう:中国の官職名)という言葉を巡って、藤原基経が職務を放棄するという事件が発生。最終的に、天皇が非を認めることになりました。この騒動を「阿衡事件」(あこうじけん)、あるいは「阿衡の紛議」(あこうのふんぎ)と呼びます。

関白という職務の誕生

3代の天皇を支えた藤原基経

藤原基経

藤原基経

藤原基経の養父「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)は、皇族以外で初めて「摂政」(せっしょう:成人前の天皇を補佐する役職)となり、摂関政治(せっかんせいじ)の礎を築いた人物。藤原良房の死後、藤原基経は56代「清和天皇」(せいわてんのう)、57代「陽成天皇」(ようぜいてんのう)の2代にわたって摂政を務め、幼い天皇を支えて政治に大きな影響を与え続けました。

また58代「光孝天皇」(こうこうてんのう)が天皇として即位した際はすでに成人でしたが、この時も藤原基経は政治を託されており、つまり実質的な関白と同様の職務を行っていたと考えられています。

「関り白す」から関白

宇多天皇

宇多天皇

887年(仁和3年)に即位した宇多天皇は、すぐに「太政大臣」(だいじょうだいじん:朝廷における最高位の役職)であった、藤原基経に勅書を送ります。

そこには「万機の巨細、百官すでに総べ、みな太政大臣に関り白し…」(政治上の大きなことも小さなことも、役人はすべてまとめ上げて太政大臣に伝える…)と書かれていました。これが、日本史上で初めて「関白」という言葉が使われた勅書と言われます。

とはいえ、藤原基経はすでに関白と同じ役割を朝廷内で担ってきていますから、この勅書は「関白とは成人天皇を補佐する職務である」ということが正式に規定されたものでした。

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勅書の一文により職務放棄

この命令を、藤原基経は辞退。実はこれは、当時の慣習で、一度は断ることが正しい作法とされていたのです。当然、宇多天皇は2度目の勅書を送ります。しかし、ここでトラブルが起こりました。勅書の文中にある「阿衡の佐けを以て卿の任とせよ」という一文に、「紀伝博士」(きでんはかせ:平安時代に貴族の子弟を教育した大学寮[だいがくりょう]で漢書などを教えた教官)の「藤原佐世」(ふじわらのすけよ)が待ったをかけたのです。

藤原佐世は、「阿衡とは、地位は高いが実質的な職務を持たない名誉職のこと。つまりこの勅書は実質的に政治から手を引けと言っていると思われます」と藤原基経に進言。腹を立てた藤原基経は以降、関白の職務を放棄してしまいました。たったひとつの単語が、政治問題へ発展してしまったのです。

この文章を書いた天皇の側近「橘広相」(たちばなのひろみ)は反論しますが、朝廷の官僚達は藤原基経を恐れて、橘広相に賛同する者はいませんでした。

阿衡事件の影響

天皇が臣下に屈する

事件の背景には、橘広相が娘を天皇の后とし、2人の皇子まで授かっていることに対する、藤原基経の嫉妬があったと言われます。

宇多天皇は2人を呼び出して話し合わせますが、お互いに自説を譲らず、藤原基経も我関せずの態度を取り続けたため、事態は一向に進展しません。半年も政治が停滞したことに困り果てた宇多天皇は、ついに橘広相の職を解き、「阿衡の言葉は間違いであった」という新たな勅を出さざるを得ませんでした。つまり、天皇が臣下の圧力に屈したということ。これによって、天皇よりも関白の方が強い権力を持つことを世間に知らしめる結果になりました。

菅原道真との対立の芽生え

ところが藤原基経は、なおも橘広相を島流しにするよう宇多天皇に迫ります。そのとき、朝廷の要職にあった「菅原道真」(すがわらのみちざね)が、藤原基経に対して「これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない」という書を送り、ようやく藤原基経も振り上げたこぶしを下ろしました。

この一件で、菅原道真は政治家として名を上げ、宇多天皇にも重用されることになります。しかし、同時に藤原氏一族が、菅原道真へ強い警戒心を抱くようになったことも確かでした。このときに生まれた小さな対立は、のちの藤原氏一族による菅原道真の排斥へと結びついていったのです。

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