江戸時代末期、日本はアメリカから開国を強く求められていました。開国すべきか「攘夷」(じょうい:外国勢力を打ち払うこと)すべきかで、日本の国論は二分します。そこに13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の跡継ぎ問題がからみあい、幕府は大混乱に陥りました。この状況を一刀両断に解決したのが、彦根(ひこね:滋賀県東部)藩主の「井伊直弼」(いいなおすけ)です。井伊直弼は1858年(安政5年)に独断で開国を行い、次期将軍も決定してしまいました。そして反対派の大名や武士に対して厳しい弾圧を行います。これが「安政の大獄」(あんせいのたいごく)です。しかし1860年(安政7年)、今度は反対派の一部が井伊直弼を殺害。混乱する幕府に、これ以上政治を任せられないと考えた各地の武士が立ち上がり、やがて討幕へとつながっていくのです。幕末の大きな出来事である、この安政の大獄を分かりやすく解説していきます。
江戸幕府13代将軍徳川家定は病弱で、次の将軍を早急に決める必要がありました。
「老中」(ろうじゅう:幕府の政治を合議制で決めた重職)首座の「堀田正睦」(ほったまさよし)は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の甥である紀伊(きい:現在の和歌山県)藩主の「徳川慶福」(とくがわよしとみ)を推薦。
一方、徳川御三家(徳川家康が、将軍の跡継ぎが途絶えたときのために設けた3つの家)のひとつ、水戸(現在の茨城県北部・中部)藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)らは、英明な人物として知られた「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜[とくがわよしのぶ])を推薦して対抗します。
2つの勢力の対立は全国の大名にまで影響し、両派は「南紀派」と「一橋派」として敵対することになりました。
同じ頃、「日米和親条約」(日本がアメリカ船に燃料や食料を提供することなどを決めた条約)に基づき、1856年(安政3年)にアメリカからハリスが総領事として来日。
翌1857年(安政4年)には将軍に面会し、清(しん:当時の中国王朝)が「アヘン戦争・アロー号事件」をきっかけにイギリス・フランスと戦って大敗し、きわめて不平等な条約を結ばされたことを挙げ、日本も早く開国しないと大変なことになると脅します。
堀田正睦は開国準備のために京都へ行き、朝廷との調整交渉を開始。しかし121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)は大の外国嫌いであり、開国に猛反対。周囲の貴族や全国の大名まで議論に加わって口出ししたために世間は大混乱します。
福井藩主の「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく)は、堀田正睦に送った手紙の中で、この事態を収束させるには「優れた人物を将軍に立てて国をひとつにするしかない」と主張。ここにきて、開国の問題と将軍の跡継ぎ問題が複雑にからみはじめます。
もちろん、そこには井伊直弼なりの言い分があります。これまで江戸幕府は重臣や全国の大名らが合議で支えてきた政権だから、前将軍の血が濃い徳川慶福を将軍として全員で支えていくべきであると。
また1615年(元和元年)に、徳川家康公と朝廷との間で「政治に関しては朝廷にお伺いを立てる必要はない」という取り決め(公武法制応勅十八箇条)がされているから、朝廷に許可を取る必要はない、というのが井伊直弼の言い分でした。
井伊直弼はこうして幕府の権力を取りもどし、幕府の下に日本をひとつにまとめ、この難局を乗り切ろうとしたのです。
当然、一橋派の人々は猛反発。井伊直弼を許さないという声が各地で起こり始めます。
これに対し翌月、井伊直弼は一橋派の徳川斉昭や松平春嶽を謹慎させ、一橋慶喜の登城を禁止するという措置に出ます。
一橋派は、派閥の中でただひとり処分を免れた薩摩(さつま:現在の鹿児島県)藩主の「島津斉彬」(しまづなりあきら)に期待しましたが、直後に病死。これでますます勢いを得た井伊直弼は、1858年(安政5年)9月から翌年にかけて一橋派の人々を次々と逮捕し、厳しい断罪処分を行います。これを安政の大獄と言います。
松平春嶽の下で幕政の改革に必死に取り組んだ「橋本左内」(はしもとさない)や、儒学者「頼三樹三郎」(らいみきさぶろう:大阪の儒学者であった頼山陽[らいさんよう]の三男)らが死罪となり、同じく儒学者の「梅田雲浜」(うめだうんぴん)も獄中で病死しました。
そして一橋派の水戸藩や薩摩藩の武士が井伊直弼殺害を企てているという噂が幕府に入ります。
当時、梅田雲浜と会ったというだけで投獄されていた「吉田松陰」(よしだしょういん:長州[ちょうしゅう:現在の山口県]で松下村塾[しょうかそんじゅく]を開いた教育者)に、幕府の役人は「暗殺者の仲間か」と尋ねます。
すると吉田松陰は、「私は仲間ではないが、彼らが井伊直弼なら、私は間部詮勝[まなべあきかつ:井伊直弼と親しかった老中]を切るつもりだ」などと豪語したために処刑されてしまいました。
安政の大獄では計14名が死刑・獄死に処された他、貴族や武士・学者・僧侶、さらにその家族まで、120名以上が処罰対象になっています。
そして翌1860年(万延元年)3月の雪の日、江戸城に登城する途中、井伊直弼の駕籠(かご)が十数名の水戸藩士(ひとりは薩摩藩士)に襲撃され、中にいた井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)。幕府は2ヵ月も井伊直弼の死をひた隠しにし、松平春嶽らの謹慎も半年近く解こうとしませんでした。これは幕府の混乱を世間に隠すことで、威信の失墜を防ごうとしたため。
しかし当時の狂句(きょうく:滑稽さを重んじる句)にて、「井伊掃部(いいかも)と網で捕らずに駕籠でとり」と詠われました。これは井伊直弼が「掃部頭」(かもんのかみ)と称していたことから、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)と「いいカモ」のかけことばになっています。つまり町民らはこの暗殺事件に気づいており、幕府の威信はさらに失墜していきました。
その後、老中に就任した「安藤信正」(あんどうのぶまさ)は「公武合体」(こうぶがったい:朝廷の権威を利用して幕府の権威を再強化する方針)を採りますが、失われた権威を回復することはできませんでした。
そして時代は、幕府を見限った諸国の武士が暗殺と粛清を繰り返す幕末の混乱期へと突入していったのです。