安土桃山時代の重要用語

有馬晴信 
/ホームメイト

「有馬晴信」(ありまはるのぶ)は、戦国時代に肥前国(現在の佐賀県、長崎県)で活躍した武将です。兄の突然の死により家督を継ぎ、龍造寺氏、島津氏、豊臣氏といった戦国大名とのかかわりのなかで運命を紡ぐこととなりました。また、キリシタン大名としても知られており、禁教令発令後も多くのキリスト教徒を領内にて庇護したとされています。誕生から流罪になるまで、有馬晴信がどのように戦国時代を生き抜いたのか見ていきましょう。

安土桃山時代の重要用語

有馬晴信 
/ホームメイト

文字サイズ

「有馬晴信」(ありまはるのぶ)は、戦国時代に肥前国(現在の佐賀県、長崎県)で活躍した武将です。兄の突然の死により家督を継ぎ、龍造寺氏、島津氏、豊臣氏といった戦国大名とのかかわりのなかで運命を紡ぐこととなりました。また、キリシタン大名としても知られており、禁教令発令後も多くのキリスト教徒を領内にて庇護したとされています。誕生から流罪になるまで、有馬晴信がどのように戦国時代を生き抜いたのか見ていきましょう。

有馬晴信の生涯

兄の死により家督継承

有馬晴信は1567年(永禄10年)に誕生しました。父は「有馬義貞」(ありまよしさだ)で、肥前国の戦国大名です。有馬義貞は、大友氏龍造寺氏などの攻撃を受けており、支配地こそ広くありませんでしたが、南蛮貿易を通じて大きな利益を上げていました。

1570年(元亀元年)には、有馬晴信の兄「有馬義純」(ありまよしずみ)が家督を相続。しかし、その翌年の1571年(元亀2年)に有馬義純が急死したため、有馬晴信が有馬氏当主となります。もともと有馬氏は、肥前国守護の大友氏に仕える立場でしたが、この頃に「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が台頭。1578年(天正6年)に龍造寺軍は有馬晴信が住む「松岡城」(まつおうかじょう:佐賀県鹿島市)を攻撃し、陥落させました。これにより、有馬氏は龍造寺氏への従属を余儀なくされます。同時に、龍造寺隆信はその松岡城攻めをもって、肥前国の統一を果たしました。

龍造寺氏からの離反

島津義久

島津義久

1580年(天正8年)、有馬晴信は洗礼を受けてキリスト教へと改宗。以降は熱心なキリシタン大名となり、「豊臣秀吉」が禁教令を発令するまで、多くのキリシタンを領内に庇護していたとされています。

1584年(天正12年)に、有馬晴信は龍造寺氏から離反することを決意。龍造寺派の「深江城」(ふかえじょう:長崎県南島原市)を攻め、これに「島津義久」(しまづよしひさ)が加勢しました。有馬氏離反の事実を知った龍造寺隆信は、自ら島原半島へ向けて出陣。決戦の舞台は、湿地のなかに通るあぜ道「沖田畷」(おきたなわて)です。

島津・有馬軍は兵の数では劣勢でしたが、先に戦場に到着して龍造寺軍を待ち伏せしていました。それが功を奏して、沖田畷に到着した龍造寺軍への急襲に成功します。泥田・沼地で身動きがしづらい龍造寺軍は、誘い込まれた形となり大混乱に。龍造寺軍は総崩れとなり、混乱に乗じて島津家家臣の「川上忠堅」(かわかみただかた)が、龍造寺隆信を討ち取ります。総大将を失った龍造寺軍は撤退し、その後、龍造寺派の国人領主の多くが島津氏に寝返りました。

豊臣秀吉の家臣となった有馬晴信

豊臣秀吉

豊臣秀吉

龍造寺氏を撃破した島津氏は着実に勢力を広げ、九州平定を目前に見据えます。豊後国(現在の大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)は島津氏の支配から逃れるため、豊臣秀吉に救援を依頼。それを受けて豊臣秀吉は関白(かんぱく:天皇の補佐職)として、停戦するようにとの朝廷の命令を発しました。

しかし、島津氏はそれに応じず、豊臣秀吉は1587年(天正15年)に九州征伐を行います。この豊臣氏と島津氏との戦いにおいて、有馬晴信は豊臣方に加勢し、豊臣氏の家臣となるのです。

九州征伐のあとに行われた「文禄の役」(ぶんろくのえき)にも、有馬晴信は2,000の兵を連れて参戦。第1軍として釜山(プサン)に侵攻し、以降1598年(慶長3年)までの6年間を朝鮮半島で過ごしました。

しかし、豊臣秀吉亡きあとの1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」では、東軍として参戦し、その一環として有馬軍は「加藤清正」(かとうきよまさ)とともに「小西行長」(こにしゆきなが)が守る「宇土城」(うとじょう:熊本県宇土市)を攻略。ただし、有馬晴信自身はこのとき、目の病気を患っていたため出陣できず、兵のみを送り出しました。

関ヶ原の戦い以降の有馬晴信

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

江戸時代に入ると、1608年(慶長13年)に有馬晴信の「朱印船」(しゅいんせん:江戸幕府の貿易許可証を所持した船)がマカオでトラブルを起こし、マカオの総司令官「アンドレ・ペソア」によって船員48人が殺される事件が起きます。有馬晴信はこれに怒り、「徳川家康」に仇討ちの許可を要請。そして、翌1609年(慶長14年)に、マカオの総司令官のアンドレ・ペソアを乗せたポルトガル船「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」が長崎へ入港した際、江戸幕府は長崎奉行に対し、アンドレ・ペソアを匿った船長を処罰するように命じます。有馬晴信も長崎へ駆け付け、1,200もの兵を動員しました。

しかし、船長の引渡し交渉にあたる有馬晴信・長崎奉行側の使節に対し、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号がたびたび攻撃。そこで有馬晴信・長崎奉行側は、武装した6隻の小型船でノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の拿捕(だほ:船に乗り込んで捕えること)に向かい、戦闘となります。ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の船長は討ち取られ、不利と見たアンドレ・ペソアは、船の火薬庫に火を付けるように船員に命じると、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を爆破させました。

有馬晴信の最期

ポルトガル船撃沈という功績を挙げた有馬晴信は、龍造寺氏に奪われた失地回復を江戸幕府に上奏(じょうそう:意見を申し上げること)。江戸幕府との仲介役「岡本大八」(おかもとだいはち)に対して白銀600枚を送り、悲願達成をもくろみます。しかし、岡本大八は、有馬氏の失地回復の交渉など始めからする気はなく、仲介料だけを受け取るという虚偽が発覚。最終的に岡本大八は処刑され、同時に有馬晴信も賄賂などの罪で甲斐国(現在の山梨県)へ流罪(るざい:辺境へ追放される刑)となり、のちに自害させられました。こうして1612年(慶長17年)に、46歳でキリシタン大名・有馬晴信はこの世を去ったのです。

有馬晴信をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード