「在原業平」(ありわらのなりひら)は平安時代前期の貴族で歌人。皇族に生まれながらも朝廷役人としては不遇で、そのため風流に明け暮れました。平安時代を代表する6名の歌人「六歌仙」(ろっかせん)に名を連ねるほどの和歌の名手で、小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に収められた、「ちはやぶる〜」の作者として知られます。非常に美男子で、情熱的な恋愛の歌を多く詠みました。東国を放浪したとも伝えられ、在原業平ゆかりの地は各地に点在しています。東京スカイツリーのお膝元にある「業平橋」(なりひらばし)は、在原業平が隅田川を渡った際、この場所で歌を詠んだことから名付けられました。
父の件もあってか、在原業平は出世が遅かったとされます。第54代「仁明天皇」(にんみょうてんのう)の時代には、天皇の秘書である「蔵人」(くろうど)に任命されますが、第55代「文徳天皇」(もんとくてんのう)の時代には昇進が止まり、官職に就いた記録もありません。
このような役人としての不遇が、和歌に没頭する原因を作ったと言われています。当時を記録した歴史書「三代実録」(さんだいじつろく)では、在原業平の人となりについて「容姿端麗で行動は自由奔放。基礎的な学力には乏しいが、和歌は素晴らしい」と評価。
官僚として必要な教養や漢文学より、恋愛の歌などを詠むことに秀でていたとされる在原業平のことを端的に表しています。
情熱的な作風で知られる在原業平は、六歌仙のひとりにも選出。六歌仙とは、平安時代に編纂された「古今和歌集」(こきんわかしゅう)の序文に記された6名の代表的歌人のこと。序文のなかで、撰者のひとり「紀貫之」(きのつらゆき)は、在原業平の作品に対して「その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色無くて匂い残れるがごとし」(感情ばかりあふれて言葉が足りない。しおれた花の美しさが消えて香りだけが残っているようだ)とかなり辛口の評価をしています。
このように紀貫之は厳しめの評価をしているものの、「他にも歌詠みとして有名な者はいるが、真の歌の在り方を知っているのはこの6名だけ」と称賛していますから、在原業平が時代を代表する歌人であったことは疑いありません。
小倉百人一首のなかでも有名な、「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」(意味:不思議なことがたびたび起こった神々の時代にも、竜田川の水面が紅葉で紅の絞りのように染まる話は聞いたことがありません)は在原業平の作品。
紅葉の名所・奈良県の竜田川の情景を見て詠んだかのようですが、実はこの歌、第56代「清和天皇」(せいわてんのう)の后、「藤原高子」(ふじわらのたかいこ)の屏風絵に描かれていた、竜田川に流れる紅葉を題材に詠んだ歌。
在原業平と藤原高子は、かつて恋人同士だったため、歌の背景には藤原高子への変わらぬ思いが込められていたと言われます。このように、数々の恋愛遍歴を重ねたとされる在原業平は、平安時代の恋愛小説と言われた「伊勢物語」(いせものがたり)に登場する、主人公のモデルでもありました。
三河国(みかわのくに:愛知県東部)八橋(やつはし:愛知県知立市)は伊勢物語にも出てくる地名で、平安時代から、かきつばたの名勝地。
在原業平一行が東下り(あづまくだり:都から関東地方へ行くこと)の途中でこの地へ立ち寄った際、沢のほとりにかきつばたが咲き乱れている光景に出会いました。そこで、仲間のひとりが在原業平に「かきつばた」を句頭に入れた歌を詠んでほしいと要望。
これに応えた和歌が、「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」(何度も着てなじんだ唐衣のように慣れ親しんだ妻を、都に置いてはるばる旅に出てしまった)でした。歌が詠まれた場所近くの「無量寿寺」(むりょうじゅじ:愛知県知立市)には、かきつばた園を眺めるように、在原業平像と歌碑が建立されています。