「足利直義」(あしかがただよし)は室町時代初期の武将で、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の弟です。兄弟の仲が非常に良く、足利直義は副将軍として兄を支えて活躍しました。真面目で冷静、伝統や格式を重んじる性格で、兄弟で職務を分担し合って室町幕府を運営したと言われます。しかし、これがのちに政権内で別々の支持勢力を生むこととなり、兄弟間の対立を招いてしまうのです。やがて、日本史上最大の兄弟の争いとされる「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。そのあと、2人の仲は2度と修復せず、足利直義は失意のなかで命を落としました。
足利直義は1306年(徳治元年)、足利尊氏の1歳年下の弟として誕生。
1333年(元弘3年)に第96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が配流先の隠岐島(おきのしま)を脱出し、鎌倉幕府打倒の狼煙(のろし)を上げると、後醍醐天皇側に付き足利尊氏とともに出陣しました。
鎌倉幕府滅亡後の1336年(建武3年)、室町幕府を開設した足利尊氏は、1338年(暦応元年)に征夷大将軍に就任。
足利直義は兄を支え、室町幕府の運営に携わります。足利尊氏が軍事面を統括し、足利直義は行政や司法面を担当。この二頭政治は「両将軍」(りょうしょうぐん)と称されました。足利直義は公家・寺社と協力関係を築きながら、優れた政治手腕を発揮。
足利尊氏の施政方針を示した「建武式目」(けんむしきもく)は、足利直義の意向を強く反映したものとされ、室町幕府の実質的な最高指導者は、足利直義だったとまで言われます。
足利尊氏が感情の起伏が激しい性格だったのに対して、足利直義は極めて沈着冷静。
初めは兄弟で苦手な部分を補い合って政務を行いますが、保守的な政治方針の足利直義と、足利尊氏が信頼する革新派の執事(しつじ:将軍を補佐する役職)「高師直」(こうのもろなお)が対立。
やがて室町幕府を二分する争いを引き起こします。しかし、このときは足利直義が出家して室町幕府を去ることで和解。
ところが足利尊氏が中国地方へ遠征した留守に、足利直義は、足利尊氏と敵対していた南朝(なんちょう:奈良吉野に置かれた朝廷)へ寝返り、足利尊氏が擁立した朝廷・北朝(ほくちょう)がある京都を占領してしまいます。1350年(観応元年)、足利尊氏はついに足利直義追討令を発令。内紛は全国に拡大し「観応の擾乱」へと発展するのです。
観応の擾乱の第1幕では、宿敵であった高師直を排除したことで、足利直義の勝利で終わったかに見えました。紛争が終わると足利直義は足利尊氏の三男で、次期将軍候補とされる「足利義詮」(あしかがよしあきら)の補佐役として政務へ復帰します。
しかし足利尊氏・足利直義の間に入った亀裂は修復できず、再び両陣営に分かれて観応の擾乱の第2幕が始まります。
足利尊氏は両国の武士達を巻き込み、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)から鎌倉まで、かなりの広範囲にわたって戦いました。結果的に捕らえられた足利直義は、鎌倉に幽閉され、数日後に急死。毒殺であったとも言われています。
禅宗を篤く敬い庇護した足利直義と、臨済宗(りんざいしゅう:鎌倉武士の信仰を集めた禅宗の一派)の高僧「夢窓疎石」(むそうそせき)との対話が、「夢中問答集」(むちゅうもんどうしゅう)として現代に伝えられています。
「女性を含め広く読んでほしい」という足利直義の意向を受けて、漢詩などで使われる漢文ではなく、かな文字交じりの文体で構成。
夢窓疎石が足利直義の問いに答えて、仏教の本質や禅の趣旨、欲を捨てることの大切さなどを分かりやすく解説しています。なお、夢窓疎石は観応の擾乱の際、足利尊氏・足利直義兄弟の間に入って調停役として動いたこともありました。
当時の武士には、現在のお中元のように、お世話になった人へ8月1日に贈り物をする八朔(はっさく)という習慣がありました。
しかし、足利直義は賄賂につながる贈り物を嫌い、断固として受け取らなかったとされます。一方、兄の足利尊氏は山のように届く贈り物をすべて気前良く部下達に分け与えてしまったので、兄弟そろって手元に贈り物が全く残らなかったということです。