明治時代の重要用語

足尾鉱毒事件 
/ホームメイト

400年の歴史を誇り、明治時代中期には日本屈指の銅山として栄えた「足尾銅山」(あしおどうざん:栃木県日光市)ですが、銅山開発によって鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺の環境に悪影響を与え、日本で最初の公害事件を引き起こしてしまいます。栃木県の衆議院議員「田中正造」(たなかしょうぞう)は生涯をかけて鉱毒被害を訴え、明治政府に対応を迫りましたが、当時は公害に対する無理解もあって、明治政府の鉱毒対策はなかなか進まず、地域への被害の拡大と公害の長期化を招きました。

明治時代の重要用語

足尾鉱毒事件 
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400年の歴史を誇り、明治時代中期には日本屈指の銅山として栄えた「足尾銅山」(あしおどうざん:栃木県日光市)ですが、銅山開発によって鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺の環境に悪影響を与え、日本で最初の公害事件を引き起こしてしまいます。栃木県の衆議院議員「田中正造」(たなかしょうぞう)は生涯をかけて鉱毒被害を訴え、明治政府に対応を迫りましたが、当時は公害に対する無理解もあって、明治政府の鉱毒対策はなかなか進まず、地域への被害の拡大と公害の長期化を招きました。

足尾銅山の興隆と鉱毒公害の発生

足尾銅山は16世紀中頃に発見された鉱山で、1877年(明治10年)に実業家「古河市兵衛」(ふるかわいちべえ)によって買収されました。買収当初は、足尾銅山に対し悲観的な意見が多かったのですが、1881年(明治14年)に有望な鉱脈を掘り当て、さらに水力発電所を竣工。

坑内排水、巻き揚げ動力の電気化、電気鉄道の敷設など西洋の新技術を導入することで、日本最大の鉱山へ発展しました。しかし、足尾銅山の生産増加は、周辺地域に鉱毒被害を生じさせることになってしまいます。鉱石から金属を抽出する精錬・精製という過程のなかで、有毒化した煙と廃水が排出されたのです。

最初に鉱毒による影響が現れたのは、足尾銅山を水源とする渡良瀬川(わたらせがわ)の魚でした。1885年(明治18年)にはアユの大量死が見つかり、サケの漁獲量の激減という現象も発生。また製銅所から排出される有毒ガスは、付近の山林を荒廃させます。

日本の銅鉱石は、その多くが硫黄分を大量に含んだ「硫化鉱」(りゅうかこう)であり、溶鉱炉で溶かすと硫黄分が酸素と化合して「亜硫酸ガス」が発生。この亜硫酸ガスが雨に溶けて降り注ぎ、樹木を枯死させたのです。これによって足尾の山は雨水を食い止める力を失い、容易に氾濫が起こりやすくなりました。

足尾鉱毒問題の激化

被害地域の取り組みと田中正造の運動

田中正造

田中正造

1891年(明治24年)12月、栃木県選出の衆議院議員・田中正造が初めて帝国議会で足尾鉱毒問題を取り上げます。

「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を提出し、鉱毒によって渡良瀬川の魚類及び周辺地域の農地に被害が出ており、公益を犯していると主張しました。これに対して明治政府は、人命、居住、交通に危害がなければ公害ではないと反論。

足尾銅山から得られる利益の大きさを考えれば、被害地の損害は小さいため、損害賠償によって救済することができるという見解を明治政府は示したのです。しかしその後、足尾銅山周辺において、猛毒の食物を口にして、酷い病気になる人が増えていることが判明。

被害地の農産物を毒ということを知らずに食べる者、知っていても貧乏のため口にする者、また売れなくなるため毒がないことを証明しようと食べる者もいたのです。田中正造は、もはや人命に対する危害であり、損害賠償で救済できる状況ではないと改めて明治政府へ訴えました。

デモ行進と足尾銅山鉱毒調査委員会

一方、足尾銅山周辺の被害地では、1896年(明治29年)の夏、渡良瀬川沿岸で3度にわたって洪水被害に見舞われたことをきっかけに、足尾銅山の操業停止を求める声が大きくなりました。1897年(明治30年)、鉱毒被害に耐えかねた被害民は、大挙して徒歩で上京し請願を行う「押し出し」を行います。

押し出しとは今で言うデモ行進で、東京の新聞各社が報じたことで世論が盛り上がりを見せたのです。事態を重く見た明治政府は「足尾銅山鉱毒調査委員会」を設置。

さらに「鉱毒予防令」を発布し、足尾銅山の所有者・古河市兵衛に、廃水を処理する沈殿池、ろ過池、鉱山廃棄物の堆積所、煙突への亜硫酸ガス除去装置の設置などを命じました。

川俣事件と明治天皇への直訴

押し出しと警官隊が衝突した川俣事件

川俣事件衝突の地

川俣事件衝突の地

鉱毒の予防工事によって、排水と鉱山廃棄物の処理は改善されましたが、亜硫酸ガス除去装置についてはほとんど効果がありませんでした。

また治水工事も十分ではなく、工事の翌1898年(明治31年)には大雨によってまたしても渡良瀬川が氾濫し、沈殿池が決壊。

被害民は予防工事が不十分だとして、押し出しを繰り返します。1900年(明治33年)の4回目の押し出しで、2,500名余りが、鉱害対策事務所の「雲龍寺」(うんりゅうじ:群馬県館林市)を出発。

佐貫村川俣(さぬきむらかわまた:群馬県現明和町)から、利根川を下って東京へ出る計画でした。それに対して明治政府側は、佐貫村川俣に警察官を配備し、双方が入り乱れて乱闘になる「川俣事件」(かわまたじけん)が発生。被害民100名以上が逮捕され、そのうち51名が起訴されました。

明治天皇への直訴

この川俣事件の発生を知った田中正造は、衆議院において明治政府の対応を痛烈に批判する質問書を提出します。

さらに、鉱毒問題にまともに取り合わない明治政府に業を煮やし、帝国議会演説のなかで、「憲政本党」(けんせいほんとう:自由党の流れを汲む政党)からの離党と衆議院議員の辞職を宣言。翌1901年(明治34年)10月23日に、衆議院議員を辞職しました。

そして同年12月10日、122代「明治天皇」が帝国議会開院式から帰る途中に、田中正造が直訴状を渡そうと駆け寄る事件を起こします。

衆議院議員だった田中正造は、毎年の宮中年賀の際などに明治天皇と近づく機会があったのですが、衆議院議員が天皇に直訴するという悪例を残すことを不本意と考えて、衆議院議員を辞職してから直訴を敢行したのでした。この直訴は、明治天皇の馬車に近づいたところで警護の警官に取り押さえられ、失敗に終わります。

警察署で取り調べを受けた田中正造は、逃亡の恐れがなく、老人であることから当日の夜には釈放されましたが、この当時、天皇への直訴は死刑になってもおかしくない重大な行為。中央紙のみならず全国の新聞が号外を発行して、田中正造の行動を挿絵入りで大々的に報じ、翌日から約1ヵ月にわたって、世間はこの事件の話題で持ち切りになりました。

政府の対応と鉱毒問題のその後

谷中村の遊水地化と渡良瀬川の改修

世論の沸騰を受けて、明治政府も最終的な解決を図るべく、1902年(明治35年)に「第2次鉱毒調査委員会」を設置。

足尾銅山鉱毒問題の原因は、洪水にあるとして鉱毒水を沈殿させるための貯水池の建設を決め、下都賀郡谷中村(しもつがぐんやなかむら:現在の栃木市藤岡町)が候補地となりました。谷中村の村民が、貯水池の建設によって土地を奪われることは権利侵害であると考えた田中正造は、自ら谷中村へ移り住んで反対運動に専念。

谷中村廃村の不当性を明治政府に対し糾弾するとともに、精力的に治水調査、演説などを行います。しかし、1913年(大正2年)7月に支援者の庭先で倒れ、9月に志半ばにして客死(きゃくし:出先で亡くなること)するのでした。

1904年(明治37年)に、栃木県会及び帝国議会で谷中村の買収が決まると、1907年(明治40年)には移転に応じなかった19戸の強制収用が行われて、遊水池を設置。さらに渡良瀬川の改修工事が1927年(昭和2年)に竣工したことで、足尾銅山鉱毒問題における治水工事は一応の完成をみたのです。

その後の鉱毒被害と足尾銅山の閉山

1958年(昭和33年)、源五郎沢堆積場の決壊によって大量の泥が渡良瀬川に流出すると、下流の2万数千戸にのぼる農家が鉱毒被害を受けました。これを受けて、群馬県の三市三郡による「渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会」が結成され、鉱毒の流出を防止することを求めます。

さらに1972年(昭和47年)、「古河鉱業」(古河市兵衛が設立した足尾銅山の会社)を相手取り、政府の「中央公害審査委員会」(のちの公害調整委員会)へ約39億円の損害賠償を提訴。1974年(昭和49年)5月11日に損害賠償の調停が成立し、古河鉱業に加害責任を認めさせ、鉱毒被害に対する補償請求には一応の決着が付けられました。

この損害賠償の調停の最中、古河鉱業は1973年(昭和48年)に、埋蔵鉱量の枯渇と採掘条件の悪化を理由として足尾銅山を閉山。古河鉱業の製錬部門は、輸入鉱石によって操業を継続しましたが、1988年(昭和63年)に事業廃止となりました。

現在、足尾銅山の煙害によって、草木が枯れた周辺地区では、治山・植林が進められ、少しずつ緑が回復しつつあります。しかし2011年(平成23年)の東日本大震災の影響で、渡良瀬川の下流にて基準値を上回る鉛が検出されるなど、完全に鉱毒被害が終息したとは言えないのが現状です。

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