「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年)1月に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」(とばふしみのたたかい)から、翌1869年(明治2年)5月の函館「五稜郭」(ごりょうかく)開城までの約1年半続いた国内の争乱。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)・長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)を中心とする明治政府軍にとっては、朝廷を中心とする新しい政権が誕生したことを国内外に示すために必要な戦いであり、旧江戸幕府軍にとっては260余年に及ぶ江戸幕府の恩義に報いるために必要な戦いだったのです。この戦いのあと、いよいよ「明治維新」が本格化し、日本の近代化が加速していきました。
1867年(慶応3年)1月、明治政府は「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)を発令し、朝廷を中心とする新政権の樹立を宣言すると同時に、徳川家が持っていたすべての領地を朝廷に返納するよう求めました。これらはある意味、明治政府が旧江戸幕府軍を挑発して戦いに向かわせるための策略。
同年4月3日、この挑発に乗った旧江戸幕府軍15,000名が挙兵します。在京の薩摩藩・長州藩の軍5,000名を中心とする明治政府軍と、京都郊外の鳥羽・伏見で交戦状態に入ります(鳥羽・伏見の戦い)。
数の上では旧江戸幕府軍が圧倒的に優勢でしたが、後装連発銃であるスペンサー銃など最新の武器を装備した明治政府軍の反撃に、戦闘は膠着状態となりました。
翌4月4日午後、戦場に朝廷軍のシンボルである「錦の御旗」(にしきのみはた)が高々と掲げられます。実はこれは、明治政府軍が過去の資料を見ながら急ごしらえで仕立てた代物。
しかしその効果は絶大で、「朝敵」(ちょうてき:天皇に刃向かう極悪人)になることを恐れた旧江戸幕府軍兵士は次々と離脱。しまいには、大将「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)までが、江戸へ逃げ出す始末。もはや旧江戸幕府軍に勝ち目はありません。
その後、「官軍」(かんぐん:朝廷の軍隊のこと)となった明治政府軍は江戸へ向けて進軍を続けます。
江戸へ戻った徳川慶喜は、旧幕閣と会議を行います。2日間に及ぶ激しい議論の末、あとのことは旧江戸幕府・陸軍総裁「勝海舟」(かつかいしゅう)に一任し、徳川慶喜は「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)で謹慎することに。
しかし、当時の江戸には明治政府に抵抗する勢力も多く、このまま官軍が江戸に入ってくると、江戸市中が戦場になることは明らかでした。
そこで勝海舟は、「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)を使者として遣わし、明治政府軍の大将「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と談判。これが功を奏し、4月11日には何の戦闘もなく官軍は「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)に入城します。しかし江戸市中には、徹底抗戦を叫ぶ旧江戸幕府軍兵が残っていたのです。
徹底抗戦派のひとり「天野八郎」(あまのはちろう)は、「彰義隊」(しょうぎたい)を引き連れて徳川慶喜警護の名目で上野にこもり、明治政府軍に抵抗し続けます。
最盛期には3,000人の兵士がいましたが、5月15日に明治政府軍「大村益次郎」(おおむらますじろう)が上野の山を包囲したとき、立て籠もっていたのは1,000人余り。
明治政府軍は本郷台から、最新鋭のアームストロング砲で一斉に砲撃をあびせます。大村益次郎は、わざと包囲網の東の一角を開けておいたため、旧江戸幕府軍の多くがそこから脱出し、勝負は1日であっけなく決着しました。旧江戸幕府軍の残党はさらに北へ逃げ延び、戦いの場所も北へと移っていったのです。
鳥羽伏見の戦いで、京都から江戸へ逃げ延びた会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)は、会津藩へ戻って明治政府軍に恭順を申し出ます。
しかし以前、京都守護職(きょうとしゅごしょく)として長州藩士を何人も殺してきた松平容保の降伏を、明治政府軍は拒否。同年3月、明治政府軍は会津藩周辺の各藩に松平容保を討つよう命じます。
しかし、会津藩に同情した庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)と仙台藩(せんだいはん:現在の宮城県仙台市)が、密かに会津藩と同盟を結び、明治政府軍に抵抗することを誓いました。
この3藩が中心となり、陸奥国(むつのくに:東北地方北西部)・出羽国(でわのくに:山形県・秋田県)・越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の計31藩が、軍事同盟を締結。これが「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)です。
さらに江戸から逃げ延びてきた旧江戸幕府軍残党が会津藩で合流し、期せずして会津藩は明治政府軍を迎え撃つ最前線という立場になってしまいました。
1868年(慶応4年)4月25日、「白河小峰城」(しらかわこみねじょう:福島県白河市)で旧江戸幕府軍と明治政府軍の戦闘が始まりますが、5月1日に白河小峰城は陥落。
以降、6月24日に「棚倉城」(たなくらじょう:福島県東白川郡)、7月16日に「二本松城」(にほんまつじょう:福島県二本松市)、8月21日に母成峠(ぼなりとうげ:福島県郡山市)の陥落と、明治政府軍の快進撃が続きました。
そして、母成峠からわずか2日後の8月23日には「会津若松城」(あいづわかまつじょう:福島県会津若松市)を包囲。あまりに迅速な動きに援軍を呼び寄せることができず、会津若松城は孤立してしまいます。
このとき、会津藩家臣の家族が籠城の足手まといになることを嫌い、一族の婦女子21人が自決。また、少年兵だけで結成された「白虎隊」(びゃっこたい)も、城下町で発生した火災を見て、会津若松城が落ちたと勘違いして自決しています。他にも、会津藩士の多くが戦死。これ以上、犠牲者を出すことに耐えられなかった松平容保は、9月22日に降伏。
この知らせを聞き、周囲の同盟藩も次々と降伏し、戊辰戦争最大の激戦と言われた会津戦争は終結したのです。
一方、徳川慶喜が江戸で謹慎した頃、勝海舟の制止を振り切って旧江戸幕府軍の艦隊を奪い、沿岸から明治政府軍と戦い続けたのが「榎本武揚」(えのもとたけあき)。
榎本武揚は、寄港した仙台で元「新選組」(しんせんぐみ)副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、元江戸幕府陸軍奉行「大鳥圭介」(おおとりけいすけ)と出会い、2,000名の兵士とともに函館へ。
榎本武揚は同年10月26日に「五稜郭」(ごりょうかく:北海道函館市)を占拠すると、12月15日に自ら初代総裁に就任し、「蝦夷共和国」(えぞきょうわこく)樹立を宣言。この新しい国家は、当時のイギリス・フランスから「事実上の政権」として承認されています。
しかし、以前に江戸幕府が発注して、アメリカで製造中であった最新鋭の装甲艦が明治政府軍に引き渡されると、状況が一変。
翌1869年(明治2年)4月、明治政府軍が蝦夷地(えぞち:現在の北海道)に上陸し、旧江戸幕府軍を押し込みます。そして5月11日に五稜郭に総攻撃を仕掛け、5月18日には榎本武揚が降伏して、箱館戦争が終了。
この瞬間、1年半に及んだ戊辰戦争は終わり、明治政府の時代が始まったのです。
戊辰戦争を通じて犠牲になった人の数は、概算で8,000名以上と言われます。そのうち、明治政府軍の犠牲者は3,500名前後、旧江戸幕府軍は4,600名前後でした。
内訳として最も被害が多かったのは、2,557名の会津藩。2番目に被害が多かったのは仙台藩の831名ですから、会津戦争の激しさがうかがえます。日本の近代革命である明治維新は、彼らの尊い犠牲の上に成立しているのです。
ところで、革命戦争という視点で見ると、明治維新の犠牲者は圧倒的に少ないことをご存じでしょうか。1789年に起きた「フランス革命」では約2,000,000人(諸説あります)、戊辰戦争の7年前、1861年に起きたアメリカの「南北戦争」では約620,000人が亡くなっています。
明治維新の犠牲者が少ない理由について、多くの歴史家が「日本人の国民性」、「武士が武士階級を解体した」こと、さらに「徳川慶喜がフランス革命のことを知っていた」など、様々な説を唱えています。
いずれにせよ、当時の日本人が将来の日本を案じ、各人の立場でギリギリの選択をした積み重ねが、世界的にもまれな犠牲者の少ない革命につながっているのです。