「地租改正」(ちそかいせい)とは、1873年(明治6年)に、米を物納する旧来の制度を廃止し、金納(きんのう:現金で支払うこと)という近代的な税収方法への移行に着手した税制改革のことです。この地租改正は、1872年(明治5年)の「学制」(がくせい:教育改革)、さらに1873年(明治6年)における「徴兵令」(ちょうへいれい:兵制改革)とともに、明治政府が日本を近代国家へと転換させるために行った「明治維新の三大改革」と言われています。この地租改正のポイントは、豊作凶作にかかわらず、地価(土地の値段)をもとに税が算出され、土地の所有者が現金で納める制度であること。いわば、現代の固定資産税へと進化した点で画期的な改革と言えますが、この地租改正には問題点も少なからずありました。
明治政府の発足後も、明治政府の主要な財源は、旧江戸幕府時代から受け継いだ、地域ごとに基準の異なる「年貢」(ねんぐ:米で納める現物納)でした。
この年貢制度は、豊作凶作によって納められる量が変わるだけでなく、運賃・保管費がかかることはもちろん、収穫調査・米質検査、米俵の定量検査なども行われることから、徴収にかかる経費は莫大。また、納入された米を売却して収入としたため、米価の変動により、毎年の税収入は極めて不安定。国家予算が立てにくいものでした。
別の見方から言うと、農村の土地には年貢が課されていたのに対し、都市は地子(じし:土地使用料)が免除されることも多く、無税地が大きな割合を占めていました。
そこで、明治政府は、年貢をはじめとする従来の制度を廃止。全国の土地について統一基準で地籍(ちせき:土地の登記)を把握し、その土地に税を課すこと(地租)を目指します。これが、1873年(明治6年)に行われた地租改正という一大税制改革でした。
この地租改正への取り組みは、1871年(明治4年)の廃藩置県から間を置かずスタートしており、「留守政府」と呼ばれた明治政府首脳によって迅速に実行されました。
1871年(明治4年)11月から約1年10ヵ月をかけ、右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)を特命全権大使として、「岩倉使節団」という総勢107名に上る大規模な使節団が欧米諸国へ派遣されました。この使節団には、政府首脳の中から「木戸孝允」(きどたかよし)、「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)、「山口尚芳」(やまぐちなおよし)といった面々が参加。
一方、日本に残った政府高官は、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)、「板垣退助」(いたがきたいすけ)、「大隈重信」(おおくましげのぶ)、「江藤新平」(えとうしんぺい)、「井上馨」(いのうえかおる)、そして「三条実美」(さんじょうさねとみ)達。
彼ら「留守政府」が、この地租改正を含む、明治維新の三大改革・「四民平等」(しみんびょうどう:旧士農工商身分の平等化)の実現・裁判所の整備・太陽暦への改暦(かいれき)といったことを精力的に進めたのです。
いわば、明治政府首脳が半分いないなかで、早急に様々な改革を進めなければならなかったのには、切羽詰まった財政問題が背景にありました。
旧江戸幕府は、崩壊の直前まで軍備の増強を続けたため、フランスなど諸外国に多額の負債がありました。また諸藩のなかには、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)以降も軍備の洋式化など藩政改革を進め、何年も先の年貢を担保に、著しく不利な条件で莫大な外債を背負い込むところもあったのです。
さらに、1863年(文久3年)と1864年(元治元年)の2回、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4国との間に起きた、「下関戦争」(しものせきせんそう)での多額の賠償金も、未払いのまま。
明治政府は、これら旧江戸幕府と諸藩の債務を引き継いだため、財政は困窮状態。また、華族(かぞく:旧公家・旧藩主から成る貴族層)・「士族」(しぞく:旧武士層)には、明治政府から「家禄」(かろく:給与)が支払われることにもなっており、明治政府は、廃藩置県(はいはんちけん:旧藩制度の廃止と府県の配置)後、早急に歳入を安定させる必要があったのです。
地租改正は、次のような手順で進められました。まず、1871年(明治4年)に田畑における作物の自由作付けを認める「田畑勝手作」(でんぱたかってづくり)を許可。
翌1872年(明治5年)2月には、旧江戸幕府が田畑の売買を禁止した法令「田畑永代売買」(でんぱたえいたいばいばい)の禁令を解きます。そして、全国の土地を調査し、土地所有者の氏名・面積・地価(ちか:土地の価格)などを記した証明書「地券」を交付。
そのうえで、1873年(明治6年)に地価にかける租税(地租)に関する条例「地租改正条例」を公布し、地租改正に着手したのです。
この地租改正で納められる税金は国税であり、次の3点が特徴になります。
地価改正の趣旨そのものは、日本が近代化へ向かううえで、非常に明確で画期的なものでしたが、制度がスタートすると、課題も噴出しました。
そのひとつが、最初に設定された地価の3%という税率。この税率は、従来の年貢額を参照して決められたものでしたが、明治政府はそれまでの年貢による収入額から減ることがないように、収穫高・地価算定に用いる米価を農民の申告よりも高く設定したのです。
また、1871年(明治4年)の新貨幣条例制定に伴うデフレーション(物価が継続的に下落していく経済現象)で、米価が長年にわたって低迷。これまでの物納に変わり、米を売って現金で納税する際、米価が低下していると当然不利になり、土地の所有者は米を売却しても十分な現金を得られず、地租の負担が重くのしかかりました。
さらに、地租改正の事業を急いだことも農民達の不安に拍車をかけ、米価が低迷していた1875~1877年(明治8~10年)にかけて、各地で大規模な農民一揆が頻発。
そこで1877年(明治10年)、明治政府は地租を地価の3%から2.5%に引き下げます。合わせて民費(みんぴ:町村維持のために町村民が負担した諸経費)の徴収額の上限も半減し、地租の20%(地価の0.5%)へ下げました。
当時、府・県の経費に関しては、その多くが「民費」という分担金で賄われていたのです。これにより、地租は全国的に大幅な減税となり、農民の負担はいくぶん緩和されました。
このような流れを経て、地租改正という新税制に切り替える事業は、1881年(明治14年)までにほぼ完了。近代的な租税の形式が整い、明治政府の財政の基礎が固まりました。また、地租が金納となり、土地が私有財産化されたことは、農村の市場経済化を促進することに。
しかし同時に、農民層の分解と下層農民の貧窮化を一層促すことにもつながりました。自ら土地を持たない小作農は、高い小作料(小作地の使用料)を地主に米で支払い、地主はその米を売って地租で現金を納めたため、米の値上がりによっては地主だけが大きな利益を得ることにもなったのです。