「勅撰和歌集」(ちょくせんわかしゅう)は書籍名ではなく、平安時代から室町時代にかけて、天皇または上皇・法皇の命(めい:命令)により「編纂」(へんさん:材料を集めて書物にまとめること)された公的な和歌集を指す言葉。最初の勅撰和歌集は、平安時代前期の905年(延喜5年)に、第60代「醍醐天皇」(だいごてんのう)の命で編纂された「古今和歌集」(こきんわかしゅう:913~914年[延喜13~14年]頃完成)。そこから、室町時代中期の1433年(永享5年)に、第102代「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)の命による「新続古今和歌集」(しんしょくこきんわかしゅう:1439年[永亨11年]成立)に至るまで、勅撰和歌集の編纂は500年以上にわたって続けられ、その数は全部で21集を数えます。
まず、「和歌」とは何かを簡単に紹介しましょう。端的に言うと、日本固有の「韻文」(いんぶん:一定の韻律を持ち、形式の整った文章)を持った詩歌の総称です。
和歌という言葉は、「漢詩」(からうた:中国の規則性ある詩を真似て、日本で作られた詩)に対して名付けられたもので、「やまとうた」と訓読されることもあります。
和歌は、五音節句と七音節句との繰り返しによる音数律が基本となっており、それをもとに短い歌や長い歌、あるいは同じ句形を反復する「旋頭歌」(せどうか)などが生まれました。
最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の頃には、私達が百人一首などで馴染みがある「三十一文字」(みそあまりひともじ)、いわゆる「五・七・五・七・七」の文字数で構成されるものが主流となります。以降、その形式を基本として発展を遂げていきました。
「五・七・五」を上の句、「七・七」を下の句と呼び、上の句と下の句を合わせて一首(いっしゅ)と数えます。同じく、五・七・五・七・七で構成される現在の「短歌」や、五・七・五の「俳句」は、この和歌から派生したものです。
和歌の起源は分かっていません。一説には、古墳時代に役人が公式的な儀式の場で音楽に合わせて歌を詠み上げたのが始まりと言われています。
一方で、最古の和歌集「万葉集」(まんようしゅう:奈良時代末期成立)に収められた最も古い歌が、7世紀の29代「舒明天皇」(じょめいてんのう)の頃に作られた歌であるため、おおよそこの時期に和歌ができたのではないかと考えられています。
興味深いところでは、古今和歌集撰者の主導格であった「紀貫之」(きのつらゆき)は、古今和歌集の仮名序(かなじょ:仮名文で書かれた序文)において、日本古来の神「スサノオノミコト」が詠んだ次の歌を、和歌の起源として紹介しています。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)【意味】
八重の雲(やえのくも:幾重にも湧く雲)が立ち上り、その湧き出る雲が八重に重なって垣根をなし、妻と一緒に籠る(こもる)ようにと八重垣をつくってくれる。ああ、その八重垣よ。(この訳は本居宣長[もとおりのりなが]の説で、他にも様々な解釈があります。)
この歌は、712年(和銅5年)に成立したとされる「古事記」の中で伝えられているもの。「高天原」(たかまのはら:神々が住んでいた場所)から出雲国(いずものくに:現在の島根県東部)へと降臨したスサノオノミコトは、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、「クシナダヒメ」と結婚。
スサノオノミコトが結婚の際に詠んだ歌が、この一首だとされています。
そして、これが五・七・五・七・七という定型で詠まれた、初めての歌であると古今和歌集の仮名序では伝えているのです。
和歌は奈良時代以前に生まれ、奈良時代末には「万葉集」も世に出ていたものの、文化としては長らく表舞台からは遠い存在。なぜなら、奈良時代から平安時代初期は、唐(中国)に「遣唐使」(けんとうし)を派遣するなどして、中国の影響を色濃く受けた唐風文化が華々しく花開いていた時代。文学も漢詩文が一般的な読み物とされていたのです。
その流れが変わったのは、894年(寛平6年)に約200年続いた遣唐使を停止したこと。この頃から、唐風の文化を日本風に整備して日本独自の文化へと発展させた「国風文化」が生まれていきます。その国風文化の象徴とも言えるのが「かな文字」の発達。
漢字を簡略化して崩したり、一部分を用いたりして創作された「ひらがな」と「カタカナ」が一般的に使用されるようになりました。これにより、漢文では表現できなかった日本人の細やかな感情を書き表すことができるようになったのです。
最初の勅撰和歌集である古今和歌集も、こうした流れのなかで誕生します。それまで私的な遊びとされていた和歌に、「勅撰」という公的な枠組み、いわゆる晴れの舞台が与えられたことは、非常に画期的な出来事でした。
勅撰和歌集の編纂は、古今和歌集以降、室町時代の「新続古今和歌集」に至るまで、 500年以上にわたって続けられました。
全部で21集を数えることから、のちにこれらは「二十一代集」と総称されています。勅撰和歌集は、「時の天皇あるいは上皇の命のもと、しかるべき見識を持った撰者の手によって編まれる最高の歌集」という位置付けが与えられる文学作品。
この勅撰和歌集に自身の和歌が採用されることは、歌詠みを自負する人にとってはもちろん、上流貴族にとっても栄誉でした。一方で、その時代が政治的に安定し成熟した文化を有することの証明としても意味を持ち、政権の力を誇示するものとして作られました。
勅撰和歌集全21集は、その成立年などから、大きく次のように分類されています。
最初の3集
鎌倉時代初期成立の「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)までの8集
9番目の「新勅撰和歌集」(しんちょくせんわかしゅう)以降
勅撰和歌集は基本的に、四季の歌・恋歌を二本柱とする、最初の古今和歌集を模範として作られていますが、その枠組みを守りつつも、新たな和歌の魅力を開いていくことを大きな課題としていました。
例えば、8集目の勅撰和歌集であり、八代集の最後を飾る新古今和歌集(鎌倉時代の後鳥羽上皇[ごとばじょうこう:第82代・後鳥羽天皇]の命による)の時代には、「本家取り」という、伝統と革新の両立が和歌の世界で興っています。
この本家取りとは、古今和歌集以来の伝統を逆手に取り、有名な古歌をそれと分かる形で取り入れて、かつ新しい解釈を加えた技法。この技法を完成させたのが、新古今和歌集の撰者のひとりである「藤原定家」(ふじわらのさだいえ・ふじわらのていか)です。藤原定家は「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者でもあります。
十三代集の新勅撰和歌集では、伝統を遵守する態度が顕著ではあるものの、同じく十三代集の「玉葉和歌集」・「風雅和歌集」においては、本家取りの影響で、他の歌集とはやや異なる清新な叙景や繊細な心情表現が見られると評価されています。
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