「下にー、下に」という掛け声とともに、厳かに歩みを進める「大名行列」。道端で庶民が平伏している情景を時代劇などで見たことがあるという方は多いのではないでしょうか。ところが、これはほとんどフィクション。大名行列の目的についても、徳川幕府が諸大名に多大な出費をさせることで経済力を抑えようとしたと言われてきましたが、それも正確ではないと分かってきました。実際には、大名同士の見栄の張り合いが大名行列の規模を大きくし、華美にしたとの説が有力になっています。そんな大名行列の歴史をたどりながら、そのあらましと、基本的なルールについて見ていきましょう。さらに、「刀剣ワールド財団」が所蔵する浮世絵の中から、大名行列を描いた作品を選りすぐってご紹介します。
「大名行列」とは、大名が公式に外出する際に整えた行列のこと。江戸時代に領地から江戸へ出仕した参勤交代(さんきんこうたい)が代表的です。
大名行列は、もともと合戦時の行軍に準じた軍事的意味合いの強い移動方法でしたが、江戸時代に入り平和が続くと、大名側から将軍への恭順(きょうじゅん)の意を表し、忠誠心を示すための儀式となりました。
1635年(寛永12年)、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)は、1年おきに各地の大名が江戸へ参観する参勤交代を制度化します。この制度が、やがて大名の権威と藩の力を誇示することを目的として大規模化していったのです。
大規模かつ華美にふくれ上がった大名行列は、藩の財政を圧迫していきます。かつては、幕府が大名の謀反を防ぐために参勤交代によって出費を促し、経済力を抑制しようとしたと言われていました。しかし、各藩が経済的に困窮して軍役を果たせなくなっては、幕府に忠誠心を示すという参勤交代の意義が失われてしまいます。むしろ、幕府は大名行列の規模を制限することに苦慮していたのです。
1635年(寛永12年)に参勤交代の制度を定めた徳川家光は、大名行列の従者を減らし出費を抑えるよう指示し、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)に記載させます。しかし、人員削減はなかなか実現されません。「あの藩の行列はすごい人数だった」と江戸の人々の噂になれば、それを耳にした他藩の家臣達は「我が藩も負けてはいられない」と奮い立ち、張り合いになったからです。
さらに時代が進んだ1721年(享保6年)、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は大名行列の人数を各藩の石高に応じ、馬、足軽、人足などに分けて細かく規定しました。
それでも徳川吉宗は、「大名は体面を重んじるため、大名行列の従者を減らすのは難しいだろう」と述べたと伝えられています。
その一方で、贅(ぜい)を尽くした大規模な大名行列は、江戸と各地方を結び付け、文化的・経済的交流を強めるという大きな役割を果たしたのです。
大名に付き従う大名行列の随員には、騎馬・徒歩の武士をはじめ、鉄砲や弓を携えた足軽、道具箱を持つ中間(ちゅうげん:武家の召使)や槍持ち、医師など大名の側近くに仕える者達がいました。衣装にも気を使い、また毛槍(けやり)や馬印(馬標)などには大名ごとに特徴があったため、一見してどの大名の行列か判別できたと言われています。
大名行列の人数は石高によって定められており、例えば、102万石を誇った加賀藩(現在の石川県、富山県)では、1827年(文政10年)の大名行列が総勢約2,000人だったとのことです。
そして、そのうちの3分の1は、実は臨時雇いのアルバイトでした。大名行列に参加する従者をアルバイトで増員するのは珍しいことではなかったのです。
このアルバイトは「通日雇」(とおしひやとい)と呼ばれ、武士ではなく、「六組飛脚問屋」という斡旋業者に派遣された労働者。主に荷物持ちとして雇われましたが、例外もあり、大名行列で特に目立つ毛槍を持つ役目には、身長の高い美男子が選ばれました。日給も荷物持ちの2倍以上で、現代のお金に換算して15,000円ほどだったと伝えられています。
大名行列が道を通るとき、居合わせた庶民は道を譲ることになっていましたが、道端で平伏しなければならないのは、将軍家と徳川御三家の尾張藩(現在の愛知県西部)、紀州藩(現在の和歌山県、三重県南部)の行列だけでした。なお、御三家のひとつである水戸藩(現在の茨城県)は江戸常住であったため参勤交代はありません。
また、「下にー、下に」という掛け声も、一般大名の行列で使われることはなく、「片寄れー、片寄れー」または「よけろー、よけろー」と呼びかけるのが基本。庶民は脇へよけるだけで良く、立ったまま行列を見物していたのです。むしろ庶民にとって大名行列は一種のエンターテインメントであり、各藩もこうした庶民の期待に応えるために大名行列を大きく華美にしていったという側面も否めません。
本行列浮世絵は、題名に「頼朝公行烈之図」(よりともこうぎょうれつのず)とあるように、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の行列を描いているとされ、源頼朝の家紋「笹竜胆」(ささりんどう)も一行の旗指物(はたさしもの)にあしらわれています。
しかし、町の様子や人々の風俗は江戸時代のもの。さらに、本行列浮世絵の左手側端に見える一対の石垣は、江戸の玄関口である高輪大木戸(たかなわおおきど)であり、高輪大木戸が最初に設置されたのは1616年(元和2年)であることから、行列が源頼朝一行ということはありえないのです。
実は、本行列浮世絵の題材となっているのは、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)。徳川家茂は1865年(元治2年/慶応元年)に「大坂城」(現在の大阪城)で「第二次長州征伐」の指揮を執るために3度目の上洛を果たしました。本行列浮世絵は、この上洛の様子を描いていると推測されているのです。
当時は、江戸幕府や将軍にかかわることを浮世絵などに描くのは禁じられていたため、徳川家茂の行列を源頼朝一行に見立てて表現したと考えられています。
本行列浮世絵の作者は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した「歌川貞秀」(うたがわさだひで)です。「初代 歌川国貞」(しょだい うたがわくにさだ)の門人で、異国情緒あふれる横浜を題材とした横浜絵や、高い位置からの視点で描く鳥瞰図(ちょうかんず)を得意としました。本行列浮世絵も、斜め上から行列全体を見渡すような構図が印象的です。
「千代田」とは「江戸城」(現在の東京都千代田区)のことを指し、「千代田之御表」(ちよだのおんおもて)シリーズでは、江戸城における儀礼や年中行事の様子が描かれました。
本行列浮世絵「上野御成」(うえのおなり)は、将軍のために整備された御成街道を通って「寛永寺」(現在の東京都台東区上野)と推測される寺院に参拝する将軍の行列が描写された6枚続の作品です。
武士達はみな一様にいかめしい表情で歩みを揃えていますが、一人ひとりの顔には特徴があり、着物や裃(かみしも)の色や柄にも個性が表れていることから、行列にはその場で写生したようなリアリティが感じられます。しかし、江戸時代には将軍を描くことが許されていませんでした。作者の「楊洲周延」(ようしゅうちかのぶ)が本シリーズを手がけたのは1897年(明治30年)のことです。
楊洲周延は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍。武士の家に生まれ、浮世絵師として活動しながら幕末には「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を戦ったという珍しい経歴の持ち主です。千代田之御表が代表作とされる他、とりわけ美人画に優れ、江戸城の大奥を主題としたシリーズ物の「千代田の大奥」が知られています。