「永仁の徳政令」(えいにんのとくせいれい)とは、1297年(永仁5年)に鎌倉幕府が出した政策で、「御家人」(ごけにん:鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士)の「土倉」(どそう:高利貸しのこと)への借金を帳消しにし、担保としていた所領(しょりょう:土地のこと)をもとの所有者の御家人へ返還させるというものです。様々な要因で経済的に困窮するようになっていた御家人達を救うために出されましたが、この政策以後、新たな借金ができなくなってしまった御家人達はますます生活が苦しくなり、鎌倉幕府への反発を強めていきました。
1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度の「元寇」(げんこう:モンゴル軍による日本への侵攻)で日本が勝利したことで、最も勢いを強めたのは、代々「執権」(しっけん:鎌倉幕府で鎌倉将軍に次ぐ役職)の座に就いて政治を動かしてきた北条氏の「得宗」(とくそう:北条氏の本家)でした。
得宗は、元寇をきっかけに、各地の「守護」(しゅご:国ごとに置かれた地方の役職)や鎌倉幕府の主要な役職を次々に北条氏一門の者に入れ替えていきます。
そうした状況を見て面白くないのは、武家政権を担ってきた他の有力御家人達です。しかも、得宗に権力が集中すると「御内人」(みうちびと:得宗家の家臣)の発言力が増大したことも、御家人達の不満をかきたてました。
御家人達の最大の不満は、蒙古襲来に際して幕府のために必死に「奉公」(ほうこう:鎌倉幕府のために働くこと)したにもかかわらず、その対価である「御恩」(ごおん:土地など、鎌倉幕府から与えられる恩賞)が不十分なことでした。
それもそのはず、元寇はモンゴル軍から日本を守る戦いで、勝利をしても敵から土地を奪ったわけではありません。
鎌倉幕府としても、御家人に御恩を与えたくてもそのための土地がなかったのです。こうして、鎌倉幕府を支えてきた御恩と奉公の関係が成り立たなくなったことは、鎌倉幕府の力を一気に弱めていきました。
鎌倉時代の相続方法も、御家人の生活基盤を弱体化させる要因でした。当時、親の財産を相続する場合、子ども達が均等に受け継ぐ「分割相続」(ぶんかつそうぞく)が主流だったため、相続のたびに土地は小さく細分化されていきます。
当然、収入となる年貢の量は減り生活が困窮。一方、この頃産業の発達と「宋」(そう:10~13世紀の中国王朝)の貨幣「宋銭」(そうせん)の流通により、物々交換から貨幣で商品の取引をする貨幣経済へと移行。
また、商人のなかから、土倉と呼ばれる高利貸しも現れます。御家人達の暮らしにも貨幣が必要になり、土倉から借金をした挙げ句に、大切な所領を売ったり担保に入れたりして、借金返済に充てざるを得なくなりました。
この頃、政権を握っていたのは、9代執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)。北条貞時は、困窮し弱体化する御家人達の窮状を救うため、1297年(永仁5年)に永仁の徳政令を発布します。徳政とは「庶民の苦しみを取り除く立派な政治」という意味です。永仁の徳政令は、具体的には次のような内容でした。
- 所領の売却や担保に入れたりすることは、御家人達の困窮の根本的な原因のため、今後はこれを禁止する。
- これまでに売買された所領は、もとの所有者の御家人へ無償で返却。ただし鎌倉幕府が売買を認めた所領、買主が御家人で20年以上経っている所領は、返却しなくて良い。
- 以上に違反する者は処罰する。
この徳政令によって、御家人の暮らし向きは一時的に改善しました。しかし、御家人に貸していたお金を帳消しにされた土倉達は、「また徳政令が出てお金を返してもらえなくなるかもしれない」と考え、2度と御家人にお金を貸さなくなってしまったのです。
こうして御家人の生活は、余計に困窮することとなり、御家人を助けるために出された徳政令は失敗に終わりました。