「栄西」(えいさい/ようさい:1141~1215年[保延7年~建保3年])は、鎌倉時代の僧侶です。備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県)に生まれ、最初は「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)にて「天台宗」(てんだいしゅう)を学びます。修行をするうちに禅宗へ強く興味を持ち、「宋」(そう:10~13世紀の中国王朝)で「臨済宗」(りんざいしゅう)を学び日本に伝えました。栄西が伝えた禅宗は、主に武家階級に受け入れられ、栄西の弟子達によって様々な宗派が発生。また栄西は、日本にお茶の文化を伝えたことでも知られます。
しかし、延暦寺での活動に限界を感じた栄西は、禅を学び直すため、渡宋を計画。そして1175年(安元元年)頃に九州へ入り、禅の修行と共に渡宋の準備を進めます。
12年後の1187年(文治3年)、47歳のときに2度目の渡宋。「天台山」(てんだいさん)を訪ね、「虚庵懐敞」(こあんえじょう:中国の禅宗・臨済宗の僧)のもとで、臨済宗を学びました。1191年(建久2年)、栄西は日本へ戻り禅宗・臨済宗を伝えます。
帰国した栄西は、九州の博多を中心に禅宗の布教に努めます。しかし、既存の寺院勢力との対立は避けられませんでした。特に厳しい弾圧を行ったのは、栄西が長く学んだ延暦寺。1194年(建久5年)には、朝廷から禅宗の布教禁止令が出されてしまいました。
栄西は京都へ活動の場所を移し、1198年(建久9年)に禅宗の立場を説明するため「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)を発表。禅宗が、既存の寺院勢力と対立するわけではないことを訴えます。しかし、その主張は認められず栄西は、再出発のため鎌倉へ向かいました。
鎌倉では、栄西に思わぬ幸運が舞い込みます。禅宗の厳しい修行が、質実剛健を良しとする武士の気風に一致したのです。
特に鎌倉幕府の祖「源頼朝」(みなもとのよりとも)亡きあと、実質的な権力者となっていた源頼朝の妻「北条政子」(ほうじょうまさこ)が、禅宗を気に入ったおかげで、栄西は1200年(正治2年)に「寿福寺」(じゅふくじ:神奈川県鎌倉市)を与えられます。
1202年(建仁2年)、鎌倉幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)が京都に「建仁寺」(けんにんじ:京都府京都市)を建てると、その住職にも任命されます。
しかし、栄西は、建仁寺を禅宗修行に特化した寺とはせず、天台宗・真言宗・臨済宗という3つの宗派を網羅した学問の寺とすることで、他宗派との融合を図ろうとしたのです。ここに栄西のバランス感覚の良さが現れています。