安土桃山時代の重要用語

フランシスコ・ザビエル 
/ホームメイト

「フランシスコ・ザビエル」はイエズス会の宣教師です。アジアへのキリスト教布教のため1549年(天文18年)に鹿児島に上陸し、戦国大名「島津貴久」(しまづたかひさ)の許可を得て布教を開始。しかし仏僧の妨害によって布教ができず、天皇・室町幕府将軍に謁見するため京都へ。ここでも謁見の許可がおりず、今度は山口をはじめ西国の各地で布教を行いますが、大きな成果は得られませんでした。やがて、日本で布教がうまくいかない原因が、中国にあると判断したフランシスコ・ザビエルは、1551年(天文20年)、布教のため中国へ。しかし入国できないまま中国で死去します。それでもヨーロッパ人として、初めて日本国内を回り、日本人に関して様々な分析記録を残したことは、のちの日本人研究における大きな功績となりました。

安土桃山時代の重要用語

フランシスコ・ザビエル 
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「フランシスコ・ザビエル」はイエズス会の宣教師です。アジアへのキリスト教布教のため1549年(天文18年)に鹿児島に上陸し、戦国大名「島津貴久」(しまづたかひさ)の許可を得て布教を開始。しかし仏僧の妨害によって布教ができず、天皇・室町幕府将軍に謁見するため京都へ。ここでも謁見の許可がおりず、今度は山口をはじめ西国の各地で布教を行いますが、大きな成果は得られませんでした。やがて、日本で布教がうまくいかない原因が、中国にあると判断したフランシスコ・ザビエルは、1551年(天文20年)、布教のため中国へ。しかし入国できないまま中国で死去します。それでもヨーロッパ人として、初めて日本国内を回り、日本人に関して様々な分析記録を残したことは、のちの日本人研究における大きな功績となりました。

大航海時代のなかで

イエズス会設立

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル

15~17世紀前半、ポルトガル・スペインなどが国家事業として航海・探検に乗り出した時代を「大航海時代」(だいこうかいじだい)と呼びます。

1492年に「クリストファー・コロンブス」が西インド諸島(アメリカ大陸)に到達し、1498年に「ヴァスコ・ダ・ガマ」がインド洋を航海。

1519年にマゼラン艦隊が世界周航を果たすなど、ヨーロッパにおける世界地図は次々と描き替えられていきました。

そんな時代の真っただ中、フランシスコ・ザビエルは1506年にイベリア半島バスク地方の小国「ナバラ王国」で誕生。パリに留学中、同じバスク地方出身の「イグナティウス・ロヨラ」と出会って意気投合し、仲間とともに「イエズス会」を設立します。

イエズス会は、厳格な規則を持つカトリック教会組織で、会員は軍隊的訓練を受け、積極的に海外布教を行った組織でした。そして1541年、ポルトガル国王からアジアでの布教を要請され、フランシスコ・ザビエルはインドのゴアに渡るのです。

宣教師として日本へ

アンジローとの出会い

その途中、マラッカ(マレーシアの都市)で、フランシスコ・ザビエルは「アンジロー」(弥次郎[やじろう]とも)というひとりの日本人に出会いました。アンジローは薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)で人を殺め、マラッカへ逃げてきていたのです。

フランシスコ・ザビエルは、ゴアでアンジローに洗礼を授け、アンジローは日本人として最初のキリスト教徒になります。そして、アンジローから日本の話を聞いたフランシスコ・ザビエルは、日本での布教を決意。アンジローとともに中国商船に乗り込んで、日本を目指しました。

1549年(天文18年)8月、薩摩国に到着した一行はアンジローの実家を訪問。フランシスコ・ザビエルが記した「イエズス会士日本通信」には、アンジローの郷里の人々は一行を暖かく迎え入れ、キリスト教徒になったアンジローをとても尊敬したこと、さらに戦国大名・島津貴久までもが2人に関心を持ち、ポルトガルの様子をいろいろと質問したことなどが記されています。

布教に理想的な場所

1549年(天文18年)11月5日に、ゴアの修道院に送った書簡のなかで、フランシスコ・ザビエルは日本人について「この国の人達は礼節を重んじ、善良にして悪心を抱かず、何よりも名誉を大切にしている」と絶賛。また同じ書簡には「武士は領主に服従し、読み書きを覚え、罪人を処罰し、人と交わり、大いに知識を求めている」という意味の記載もしています。

これは室町時代において、いわゆる「武士道」(ぶしどう:江戸時代に成立したとされる、武士が守るべき道徳体系)に近い価値観が、すでに確立していたことを示す証拠でもあるのです。住民は善良で、積極的に新しい知識を求め、道理に従う。

このような理想的な場所が西洋から遠く離れたインド・東南アジア諸国の果てにあった奇跡に、フランシスコ・ザビエルは感動しました。日本がキリスト教の布教に最適の場所だと考えたフランシスコ・ザビエルは、急いで日本語を習得。

島津貴久の許可を得て正式な布教活動に入ります。当然、薩摩国の仏教勢力は危機感を抱いて猛反発。そのため、大きな成果は得られませんでした。

国王に謁見する

イエズス会が、ポルトガル王国から与えられた使命とは「異教徒」(いきょうと:キリスト教以外の宗教を信仰するすべての人)の地にキリスト教を布教するだけでなく、その地を植民地化することにありました。

そのための方法とは、最初に国王に会ってキリスト教に改宗させ、支配下の民衆を従わせるというもの。フランシスコ・ザビエルは、薩摩国における布教に失敗したこともあり、本来の目的である日本の国王に会うべく、1550年(天文19年)に京都へ。

翌年1551年(天文20年)、日本での布教許可を得るため第105代「後奈良天皇」(ごならてんのう)、室町幕府第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に謁見を申し入れましたが、どちらも断られてしまいます。

諦めないフランシスコ・ザビエルは、こうなれば仏教徒との宗論(しゅうろん:異なった宗教・宗派間の論争)でキリスト教をアピールしようと考え、天台宗の総本山「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)の僧侶に宗論を申込みますが、こちらも拒否されてしまいました。限界を感じたフランシスコ・ザビエルは平戸(ひらど:長崎県平戸市)へ向かいます。

諦めなかった宣教師

周防で布教を開始

聖サビエル記念公園

聖サビエル記念公園

天皇・室町幕府将軍に謁見できなかった理由は、献上品がなかったために違いないと考えたフランシスコ・ザビエルは、平戸で献上品を揃え、周防国(すおうのくに:山口県南東部)の戦国大名「大内義隆」(おおうちよしたか)に謁見し、献上品として望遠鏡・置時計・ギヤマン(ガラス製品)の水指・鏡・メガネ・絵画・鉄砲などを差し出しました。

ちなみに、このときのメガネが、日本人が初めて見たメガネだと言われます。喜んだ大内義隆は、廃寺となっていた「大道寺」(だいどうじ:山口県山口市、現在の聖サビエル記念公園)をフランシスコ・ザビエルに与えて布教を許可。大道寺で1日に2度の説教を行った結果、フランシスコ・ザビエルは2ヵ月で500名近い信徒を獲得したと記録されています。

中国大陸へ

このように、多くの困難にも諦めずに日本にキリスト教を伝えようとしたフランシスコ・ザビエルでしたが、その成果は彼にとって決して納得いくものではありませんでした。

そして日本の歴史を勉強するうち、布教が進まない原因が、日本が中国大陸の影響を受けているからだということに気付いたのです。日本を教化するには、まず中国でキリスト教を広めることが先決だと判断したフランシスコ・ザビエルは、1551年(天文20年)11月、来日からわずか2年3ヵ月でイエズス会の仲間にあとを託して日本を離れます。

翌1552年(天文21年)、「明」(みん:14~17世紀の中国王朝)の「上川島」(じょうせんとう:現在の広東省江門市)に到着しましたが、入国を許されないまま病を発症。

同年暮れに46歳でこの世を去りました。それでもアジア布教に果たした功績は大きく、1622年に234代ローマ教皇「グレゴリウス15世」から盟友イグナティウス・ロヨラとともに「聖人」(せいじん:キリスト教において徳の高い人物で崇拝対象)の位を与えられています。

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