1600年(慶長5年)、戦国大名が2つに分かれて戦った「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)が勃発。この戦に勝利した「徳川家康」(とくがわいえやす)は、江戸幕府を開いて200を超える諸大名を支配下に置きました。そして徳川家康は、大名を統制するために3つに分類。そのひとつが「譜代大名」(ふだいだいみょう)です。譜代大名は、関ヶ原の戦い以前から徳川家康に仕えていた家臣で、大名としてはそれほど大きな領地は与えられませんでしたが、譜代大名でなければ江戸幕府の要職に就けなかったため、江戸幕府将軍の右腕として、江戸幕府内での立場を強めていきました。
1598年(慶長3年)に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が没すると、家臣であった徳川家康と「石田三成」(いしだみつなり)の対立が表面化。1600年(慶長5年)、ついに美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部地域)の関ヶ原で両軍が激突しました(関ヶ原の戦い)。
勝敗はあっけなく決まり、石田三成率いる西軍は敗退。東軍を率いた徳川家康は、西軍の大名の領地を大量に没収し、その土地を自らの領地にしたり、東軍に味方した大名達に分け与えたりしたのです。こうしてライバルを退け、江戸幕府を開いた徳川家康は、200を超える諸大名を統制するために、3つに分類します。
また、安定政権を築くため、反乱の可能性がある外様大名は九州、東北など江戸から遠く離れた地に「転封」(てんぽう:大名の領地を移転すること)させ、さらに、その近くに信頼できる譜代大名、親藩大名を配置して監視させました。このように、徳川家康は大名の配置に工夫を凝らし、全国津々浦々にまで江戸幕府将軍の支配力を行き渡らせたのです。
譜代大名の譜代とは、「代々同じ人に仕える家系」という意味。譜代大名達は将軍家への忠誠を競い、「いつから徳川家に仕えていたか」が家臣としての価値を決める重要な事柄だったと言われます。
特に「酒井家」(さかいけ)、「大久保家」(おおくぼけ)、「本多家」(ほんだけ)、「阿部家」(あべけ)、「石川家」(いしかわけ)、「青山家」(あおやまけ)、「植村家」(うえむらけ)は、「松平家」(まつだいらけ:徳川家康が輩出した一族)が「安祥城」(あんじょうじょう:愛知県安城市)を居城としていた時代(16世紀中頃)から仕えていた最古参の家臣で、「安祥譜代」(あんじょうふだい)と呼ばれて一目置かれていました。
当然、徳川家康が譜代大名へ寄せる信頼は絶大で、江戸を中心とする関東一円をはじめ、交通の要となる地域、軍事的に重要な地を譜代大名に領地として与えます。
ところが、一般的に譜代大名の「石高」(こくだか:領地内で収穫できる米の量。大名の経済力を示す)は極めて低く、例えば外様大名の場合、「加賀百万石」(かがひゃくまんごく)の異名を持つ「前田家」(まえだけ)を筆頭に、「島津家」(しまづけ)、「伊達家」(だてけ)、「細川家」(ほそかわけ)は50万石以上、他にも多くの外様大名が30万石以上でした。
それに対し、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)でも辛うじて30万石と、ほとんどの譜代大名が10万石にも届かない石高。それでも譜代大名達が、江戸幕府将軍家に従ったのは、譜代大名にとって石高よりも重要な役割が、江戸幕府将軍家より与えられていたからです。
譜代大名に与えられていた重要な役割とは、江戸幕府の要職を務め、江戸幕府将軍の側近として働くこと。ここで、江戸幕府の仕組みを見ておきましょう。
江戸幕府将軍の下には「老中」(ろうじゅう)、「若年寄」(わかどしより)、「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)、「京都所司代」(きょうとしょしだい)、「大坂城代」(おおさかじょうだい)が置かれ、必要に応じて老中の上に「大老」(たいろう)が置かれることもありました。
重要な政策を決めるのは老中の会議で、若年寄が老中の仕事を補佐。寺社奉行は全国の寺院、神社を管理し、京都所司代は朝廷の監視、京都の警備を担当、大坂城代は「大坂城」(おおさかじょう:大阪府大阪市)の城主として、西国の外様大名の監視などを行いました。
そして、これらの重要な役職に就く権利は、譜代大名だけに与えられたものだったのです。親藩大名にさえ許されていない、江戸幕府将軍の側近としての役割。譜代大名にとって、最高の名誉だったと考えられます。