平安時代の重要用語

藤原良房 
/ホームメイト

「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)は平安時代初期の政治家で、皇族以外で初めて「太政大臣」(だじょうだいじん:朝廷における最高の官職)や「摂政」(せっしょう:幼い天皇に代わって政治を補佐する役職)になりました。藤原氏で栄華を誇った人物と言えば「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が有名。藤原良房は、その藤原道長が登場する150年も前に天皇家と親戚関係を築き、着々と藤原政権への道を開いていったのです。宮廷内の政変を解決するなど天皇制を安定に導く一方で、藤原氏が摂政の地位を独占するきっかけを作った藤原良房とは、どんな人物だったのでしょう。

平安時代の重要用語

藤原良房 
/ホームメイト

文字サイズ

「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)は平安時代初期の政治家で、皇族以外で初めて「太政大臣」(だじょうだいじん:朝廷における最高の官職)や「摂政」(せっしょう:幼い天皇に代わって政治を補佐する役職)になりました。藤原氏で栄華を誇った人物と言えば「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が有名。藤原良房は、その藤原道長が登場する150年も前に天皇家と親戚関係を築き、着々と藤原政権への道を開いていったのです。宮廷内の政変を解決するなど天皇制を安定に導く一方で、藤原氏が摂政の地位を独占するきっかけを作った藤原良房とは、どんな人物だったのでしょう。

藤原良房の生涯

天皇の娘と結婚

藤原良房

藤原良房は804年(延暦23年)、左大臣「藤原冬嗣」(ふじわらのふゆつぐ)の次男として京都で誕生しました。

父・藤原冬嗣が第52代「嵯峨天皇」(さがてんのう)に大いに信頼されていたことや藤原良房自身の才知が認められたことで、藤原良房は嵯峨天皇の皇女「源潔姫」(みなもとのきよひめ)を妻にします。

当時、天皇の皇女が臣下(しんか:君主の家来)に嫁ぐことは禁止されていましたが、源潔姫は皇族の身分を離れていたため可能になったのです。そもそも嵯峨天皇には、子どもが49人もいたため全員を皇族にする訳にはいかず、32人の皇子や皇女が「源」の姓を受けて皇族ではなくなっていました。

これを「臣籍降下」(しんせきこうか)と言います。とは言え、天皇の娘が臣下に嫁ぐなど前代未聞。それほど、嵯峨天皇は藤原良房の才能や人柄を気に入ったのです。

藤原良房の妹「藤原順子」(ふじわらののぶこ)も、第54代「仁明天皇」(にんみょうてんのう)の女御(にょうご:天皇の寝所に侍する女官)となり、のちに第55代「文徳天皇」(もんとくてんのう)を産んでいます。

幼帝に代わり政権を掌握

藤原良房と源潔姫の間には、娘「明子」(あきらけいこ)が生まれ、明子は文徳天皇に入内(じゅだい:天皇の妻として宮中に入ること)。「惟人親王」(これひとしんのう)を授かりました。このように藤原良房は、天皇家との関係を深めながら順調に昇進し、太政大臣となります。

858年(天安2年)に文徳天皇が32歳の若さで崩御(天皇が亡くなること)すると、藤原良房の外孫(そとまご:嫁に行った娘の子)である惟人親王が、第56代「清和天皇」(せいわてんのう)として9歳で即位。史上最年少の天皇だったため、藤原良房が天皇に代わり朝廷の政務を担うことになったのです。

応天門の変

燃え上がる応天門

放火された応天門

866年(貞観8年)、平安京の大内裏(だいだいり:天皇の居住場所)にあった応天門(おうてんもん)が、何者かによって放火される事件(応天門の変[おうてんもんのへん])が勃発。

国政の中心地で起こり、天皇にも危害が及ぶ可能性があっため、大問題となりました。当初は、犯人として左大臣「源信」(みなもとのまこと)が疑われます。

これは、藤原良房のライバルであった大納言(だいなごん:右大臣の次の地位に当たる)「伴善男」(とものよしお)が、源信の仕業だと訴え出たためでした。

藤原良房から見れば源信は妻の異母兄弟でしたから、藤原良房は源信の無実を主張し、詳しく調べるよう清和天皇に直訴。その結果、伴善男と息子「伴中庸」(とものなかつね)が真犯人であることが発覚します。

藤原良房は、事件の真相解明に貢献したことで、臣下として初めて摂政に任じられました。応天門の変は、結果的に従来の実力者・伴氏を没落させ、藤原氏の勢力拡大のきっかけとなったのです。

そのあと、天皇家との外戚関係を利用しながら、藤原良房の子孫は、摂政・関白として実質的に朝廷を支配する「摂関政治」(せっかんせいじ)を確立。そして明治維新に至るまで、朝廷における最高位の家格を保ち続けることとなります。

藤原良房の事績

藤原氏繁栄の礎を作る

「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」(年月が経ち私は年老いてしまったが、この桜の花を見れば何も思い煩うことはない)。これは古今和歌集に残された藤原良房の和歌。桜の花というのは、文徳天皇の后(きさき)となった娘の明子のこと。

孫も天皇となり、もう自分の人生にこれ以上の満足はないという気持ちの表れでした。この歌が象徴するように、藤原良房が一族の女性を天皇家に嫁がせて外戚関係となったことで、そのあとの藤原氏繁栄の礎となったのです。

藤原良房は晩年、「続日本後紀」(しょくにほんこうき)の編纂にもかかわりました。続日本後紀とは833年(天長10年)の仁明天皇の即位から、850年(嘉祥3年)の死去までの18年の歴史を記した書物。

855年(斉衡2年)に文徳天皇の命により編纂され、869年(貞観11年)に完成しました。天皇親政(てんのうしんせい:天皇自ら政治を行うこと)の政治体制から、藤原氏が権力を徐々に増していく時期の貴重な史料となっています。

藤原良房をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード