平安時代の重要用語

藤原保昌 
/ホームメイト

「藤原保昌」(ふじわらのやすまさ)は、平安時代の中級貴族で、栄華を極めた摂政「藤原道長」(ふじわらのみちなが)に仕えて、「道長四天王」(みちながしてんのう)のひとりと呼ばれた人物です。「後拾遺和歌集」に選ばれた歌人でもあり、妻は女官「和泉式部」(いずみしきぶ)。武勇にも秀で、「源頼光」(みなもとのよりみつ)達と共に、「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を退治した話も有名です。文武両道な人、藤原保昌について、詳しくご紹介します。

平安時代の重要用語

藤原保昌 
/ホームメイト

文字サイズ

「藤原保昌」(ふじわらのやすまさ)は、平安時代の中級貴族で、栄華を極めた摂政「藤原道長」(ふじわらのみちなが)に仕えて、「道長四天王」(みちながしてんのう)のひとりと呼ばれた人物です。「後拾遺和歌集」に選ばれた歌人でもあり、妻は女官「和泉式部」(いずみしきぶ)。武勇にも秀で、「源頼光」(みなもとのよりみつ)達と共に、「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を退治した話も有名です。文武両道な人、藤原保昌について、詳しくご紹介します。

藤原保昌の生涯

藤原保昌の出自

藤原保昌

藤原保昌

藤原保昌は、958年(天徳2年)生まれ。父は右京大夫(うきょうのだいぶ:右京職の長官)で従四位下(じゅしいげ)の中級貴族「藤原致忠」(ふじわらのむねただ)で、母は「源允明」(みなもとのすけあきら:醍醐天皇[だいごてんのう]の皇子で臣籍降下した人物)の娘です。

弟は、盗賊として名高い「藤原保輔」(ふじわらのやすすけ)。摂津国平井(現在の兵庫県宝塚市)に住んでいたため、平井保昌とも呼ばれました。

藤原保昌の功績

藤原道長

藤原道長

藤原保昌は、廷臣(ていしん:朝廷に仕えた役人)で、「後拾遺和歌集」にも選ばれた歌人であり、摂政「藤原道長」の家司(けいし:公卿の家に置かれた職員)を務め、「源頼信」(みなもとのよりのぶ)、「平維衡」(たいらのこれひら)、「平致頼」(たいらのむねより)と共に「道長四天王」(みちながしてんのう)のひとりと呼ばれた人物です。

また、武勇に優れ、「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)、「源頼光」(みなもとのよりみつ)、「藤原利仁」(ふじわらのとしひと)と共に「古来の名将」と呼ばれました。円融院判官代、左衛門督、左馬頭などを務め、肥前国(現在の佐賀県、長崎県)、大和国(現在の奈良県)、摂津国などの国守を歴任、正四位下まで出世しています。

995年(長徳元年)、「一条天皇」(いちじょうてんのう)の勅命により、大岡山に住む「酒呑童子」という鬼を、源頼光や「頼光四天王」(渡辺綱[わたなべのつな]、坂田金時[さかたのきんとき]、碓井貞光[うすいさだみつ]、卜部季武[うらべのすえたけ])と共に退治した話や、盗賊「袴垂保輔」(はかまだれやすすけ)を威圧したという話が有名です。

和泉式部

和泉式部

また、1013年(長和2年)頃、女流歌人で女官の「和泉式部」(いずみしきぶ)に求婚。その際、「紫宸殿[ししんでん:内裏の正殿]の左近の梅をひと枝折ってきてくれたなら」と条件を付けられるのです。

これは、「竹取物語」(たけとりものがたり)並みの無理難題だったのですが、藤原保昌はなんとか宮中に忍び込み、一枝盗むことに成功。これにより、無事に結婚することができました。この話は能「花盗人」(はなぬすびと)や京都祇園祭の山車「保昌山」(ほうしょうやま:花盗人山)の由来にもなり、今も伝えられています。

なお、このとき、和泉式部は再婚。最初の夫は「橘道貞」(たちばなのみちさだ)で、長女「小式部内侍」(こしきぶのないし)を授かりますが、婚姻は破綻しました。その後、「為尊親王」(ためたかしんのう:冷泉天皇の第3皇子)、「敦道親王」(あつみちしんのう:冷泉天皇の第4皇子)との熱愛が発覚しますが、ふたりとも早世。藤原保昌は、恋多き女の最後の男と呼ばれ、1036年(長元9年)、79歳で死去したのです。

藤原保昌ゆかりの刀剣と逸話

岩切

藤原保昌の愛刀として有名なのが「岩切」(いわきり)です。岩切は、藤原保昌が酒呑童子の退治に向かう際、笈(おい:行脚僧などが仏具や衣類などを入れて背負う箱)に隠して持ち込んだと伝えられている1振。もとは小長刀(こなぎなた)でしたが柄を三束ほどに短くして打刀に変えた物。「石割」(いしわり)、「懐剣」(かいけん)など、書物によって異なる名称で呼ばれています。酒呑童子退治の刀としては、源頼光が所持した「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)が有名ですが、藤原保昌も岩切の太刀で活躍しました。

作刀したのは、「包平」(かねひら)と言われています。包平とは、平安時代に活躍した古備前の刀工です。代表作は日本刀最高傑作と言われる国宝大包平」(おおかねひら/東京国立博物館所蔵)。包平は、古備前の「助平」(すけひら)、「高平」(たかひら)と共に「備前三平」(びぜんさんひら)と呼ばれる名工でした。

ただし、藤原保昌の愛刀・岩切は、残念ながら現在行方が分からず、現存していません。

岩切が描かれた浮世絵

藤原保昌月下弄笛図

月岡芳年 作「藤原保昌月下弄笛図」

刀剣ワールドでは、名刀・岩切が書かれた浮世絵を所蔵しています。それは、「月岡芳年」(つきおかよしとし) 作「藤原保昌月下弄笛図」(ふじわらのやすまさげっかろうてきず)です。満月の夜に笛を吹く、美しく雅やかな藤原保昌を、盗賊の「袴垂」(はかまだれ)が狙っているところ。

ある秋の満月の夜、藤原保昌は優雅に得意の笛を吹いて歩いていました。すると、盗賊・袴垂は、追い剥ぎ(脅して金品や衣類を剥ぎ取ること)をしようと、藤原保昌に近付いてきたのです。しかし盗賊は、藤原保昌の気配がどうにも恐ろしくて、なかなか手を出すことができません。何者かに跡を付けられていることに気付いた強者・藤原保昌は、逆にこの男を自分の屋敷へと招き入れました。そして、追い剥ぎなんてするなよと衣服を与えたのです。のちに、この盗賊は捕らえられ、その際、「藤原保昌は、並々ではなく立派な人だった」と、語っていたとのこと。この話は「今昔物語集」、「宇治拾遺物語」に収載されています。

画面・中央の笛を吹いている藤原保昌の左腰に携えているのが、岩切と思われる刀剣です。盗賊の親玉をも恐れさせる、藤原保昌の真の強さと心の美しさを伝えています。

藤原保昌の和歌

かたがたの おやのおやどち いはふめり この子のちよを思ひこそやれ

現代語訳

父方母方の親の親同士が孫の袴着を祝っているようです。その子(孫)が輝かしく長生きすることを私も心から願っています。

解説

藤原保昌は、優れた歌人として、「後拾遺和歌集」に1首が収載されました。これが、その和歌です。子供の袴着(はかまぎ:幼児がはじめて袴を着ける儀式)のお祝いの場面を詠んだもので、「かたがたの おやのおやどち」の表現が、とてもおもしろい和歌と言えます。

これは、藤原保昌の長男「快範」(かいはん)を詠んだもの。なお、和泉式部との間には子供は授からなかったと伝えられています。

藤原保昌をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード