明治時代の重要用語

富国強兵 
/ホームメイト

「富国強兵」(ふこくきょうへい)とは、明治政府が、日本を欧米諸国に追いつく近代国家へと生まれ変わらせるために、国を豊かにし、強い軍隊を作ることを目指して掲げたスローガンです。同じくスローガンのような形で唱えられた「殖産興業」(しょくさんこうぎょう:資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策)、「文明開化」(ぶんめいかいか:欧米の文化流入により制度・習慣が大きく変化した社会現象)も、その目的は富国強兵にありました。富国強兵の背景、その影響について見ていきましょう。

明治時代の重要用語

富国強兵 
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「富国強兵」(ふこくきょうへい)とは、明治政府が、日本を欧米諸国に追いつく近代国家へと生まれ変わらせるために、国を豊かにし、強い軍隊を作ることを目指して掲げたスローガンです。同じくスローガンのような形で唱えられた「殖産興業」(しょくさんこうぎょう:資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策)、「文明開化」(ぶんめいかいか:欧米の文化流入により制度・習慣が大きく変化した社会現象)も、その目的は富国強兵にありました。富国強兵の背景、その影響について見ていきましょう。

富国強兵の背景

近代国家を目指す日本に突き付けられた現実

富国強兵という言葉自体は、すでに江戸時代末期の幕政・藩政改革においても言われていました。しかし明治時代になり、欧米列強との外交を本格的に始めたとき、明治政府はその必要性を痛感。政治の動かし方から社会制度・経済・軍事力・国民の学力まで、あらゆる面で日本は欧米列強に対して後れを取っていました。このままでは、欧米諸国と対等に外交できないばかりか、侵略され植民地化される恐れもあると考え、富国強兵を合言葉に国力の充実を図ろうと動いたのです。

富国強兵で進められた主な取り組み

四民平等

1869年(明治2年)の「版籍奉還」(はんせきほうかん)と1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)によって、藩主・藩士との身分関係がなくなったことを機に、明治政府は「四民平等」(しみんびょうどう)という日本の新しい身分制度に取り組みます。

江戸時代までの身分制度では、「武士」を頂点として、「農民」・「職人」・「商人」を支配する構造。さらに最下層身分である「えた・ひにん」の人達を含めた、いわゆる「士農工商」(しのうこうしょう)と呼ばれた身分制度でした。

その江戸時代の士農工商を解体し、新たな身分として生まれたのが、四民平等です。「四民」とは、武士・農民・職人・商人を意味します。ただし、身分制度が全くなくなったわけではなく、旧公家・藩主を「華族」(かぞく:貴族層)とし、旧藩士・幕臣を「士族」(しぞく:旧武士層)、そして農工商民は「平民」(へいみん)へ。また最下層身分は、形式上は平民に含まれました。

この新しい身分制度による大きな変化は、かつて苗字を名乗ることができなかった平民も苗字を許されたこと、また平民と華族・士族との結婚も許可されたことです。さらに、移転・職業選択の自由も認められることとなりました。

殖産興業による近代化促進

富岡製糸場

富岡製糸場

富国強兵を目指し、明治政府が何より取り組んだのが、殖産興業をスローガンにした産業の育成による近代化です。

専門的な技術を持った外国人を「お雇い外国人」(おやといがいこくじん)として雇い、その指導のもとに近代産業の育成を進めたのです。

1870年(明治3年)には、鉱工業の近代化を担当する「工部省」(こうぶしょう)を設け、その工部省のもと、旧江戸幕府が経営していた佐渡(さど:新潟県佐渡市)・生野(いくの:兵庫県朝来市)などの金・銀鉱山、高島(たかしま:長崎県長崎市)・三池(みいけ:福岡県大牟田市)などの炭鉱を官営(かんえい:明治政府直営)としました。

また、軍備の近代化を図る意味から、東京・大阪の砲兵工廠(ほうへいこうしょう)や横須賀・長崎の造船所の拡充に力を入れたのです。

当時の民間工業は、工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう:雇用による大規模な手工業)経営が一部にみられる程度にとどまっていたため、明治政府は西欧の先進技術を導入した「官営模範工場」(かんえいもはんこうじょう)を設立していきます。

特に、輸出品の中心であった生糸(きいと:絹の原糸)の生産に力を入れ、フランス人技師「ポール・ブリューナ」を招聘(しょうへい:丁重に招くこと)して、初の官営模範工場「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)を1872年(明治5年)に開業。技術の導入と全国各地へ技術を伝える工女(こうじょ:工場で働く女性)の養成を行いました。その他の官営模範工場の代表的な物が、「八幡製鉄所」(やはたせいてつじょ:福岡県北九州市)、「造幣局」(ぞうへいきょく:大阪府大阪市)です。

明治政府は、近代産業に欠かせない新しい交通・通信制度の整備にも力を注ぎます。工部省の統括のもと、1872年(明治5年)に新橋(しんばし:東京都港区)・横浜間、次に神戸・大阪・京都間に官営鉄道を開通させ、大都市と開港場を結び付けていきました。

また、明治政府は、日本沿岸・近海の海運権の確立と軍事輸送のために、旧土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)の事業を引き継いで海運業を営んでいた「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)の企業「三菱商会」(みつびししょうかい)に手厚い保護を与え、上海航路を開設させるなどして欧米資本の海運業に対抗させます。

通信では、1869年(明治2年)に東京・横浜間に初めて「電信」(でんしん:モールス信号による電報)を架設。そして5年後の1874年(明治7年)には長崎と北海道にまで電信が伸ばされ、すでに外国企業によって敷かれていた長崎・上海間の海底電線とも接続。欧米との電信連絡も可能になっています。

さらに、1871年(明治4年)には「前島密」(まえじまひそか)の建議(けんぎ:意見)により、これまでの飛脚(ひきゃく:江戸時代までの郵便物・物品の配達業)制度に代わり、西洋式の官営「郵便制度」を導入。1877年(明治10年)には「万国郵便連合条約」(ばんこくゆうびんれんごうじょうやく:国家間の郵便に関する条約)に日本も加盟しています。さらに「電話」が輸入されたのも同年の1877年(明治10年)のことでした。

学制の交付

1871年(明治4年)に「文部省」(もんぶしょう)を新設。翌1872年(明治5年)にはフランスの学校制度などを取り入れた「学制」(がくせい)を公布。人口約600人あたり1校を目標に、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)を建設。

それまでの寺子屋などでは、男女が同じ内容を学習する取り組みは行われていませんでしたが、学制では、6歳以上の男女すべてが尋常小学校にて教育を受けることが定められたのです。

徴兵令

軍事制度では、1871年(明治4年)の廃藩置県に先立ち、明治政府直轄として編成された御親兵(ごしんぺい:天皇及び御所を護衛する部隊)が「近衛兵」(このえへい)となり、天皇の警護にあたっていました。

廃藩置県とともに藩兵は解散しますが、一部は「兵部省」(ひょうぶしょう:国防を司る行政組織)のもとで各地に設けられた鎮台(ちんだい:地方を守るために駐在した軍)へ配置され、反乱・一揆に備える体制が取られていました。この兵部省は、翌1872年(明治5年)には「陸軍省」・「海軍省」に分離しています。

長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)の「大村益次郎」(おおむらますじろう)は、早くから国民皆兵(こくみんかいへい)を基盤とする近代軍制を構想していましたが、これに反対する保守派の士族に襲撃され死去。その後、「山県有朋」(やまがたありとも)がその構想を受け継ぎ、明治政府は、1873年(明治6年)に「徴兵令」(ちょうへいれい)を公布。

この徴兵令は、士族・平民にかかわりなく、満20歳に達した男性を選抜し、3ヵ月間兵士として勤務するという全国統一的な制度です。

ただし、戸主(こしゅ:一家の主人)・嗣子(しし:家を継ぐ跡取り)・養子・官史(かんり:役人)・学生などの他、代人料(だいにんりょう)として270円(現在の金額で約880万円)を納めれば兵役免除を認めており、実際の兵役負担者のほとんどは農村の次男以下でした。

この徴兵令という兵制改革は、軍事的な特権を奪われた士族が反乱を起こす一因になるとともに、結果的に徴兵の主たる対象となる農民層に歓迎されず、農民一揆が各地で起こる要因ともなったのです。

地租改正

地租改正測量の様子

地租改正測量の様子

学制・徴兵令とともに、「明治維新の三大改革」とされたのが、「地租改正」(ちそかいせい)という税制改革。明治政府は、1873年(明治6年)に、米を物納する旧来の制度を廃止し、金納(きんのう:現金による支払い)という近代的なやり方への移行に着手。

この新たな税制に切り替える事業は、1881年(明治14年)までにほぼ完了し、これにより近代的な租税の形式が整い、明治政府の財政の基礎が固まりました。

この地租改正の特徴は、豊作凶作にかかわらず、地価(ちか:土地の値段)をもとに税が算出され、土地の所有者が現金で納める制度であることです。

現在の固定資産税へと進化した点で画期的な改革と言えますが、自ら土地を持たない小作農は、高率の小作料(小作地の使用料)を地主に米で払い、地主はその米を売ったお金で地租を納めていました。これにより、米の値上がりによっては地主だけが大きな利益を得て、下層農民の貧窮化を一層促すことにもつながるなど、問題点も少なからずありました。

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