「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)は、明治時代を代表する啓蒙思想家で、慶應義塾の創立者。父は豊前国中津藩(ぶぜんのくになかつはん:現在の大分県中津市)の下級藩士であり儒学者の「福沢百助」(ふくざわひゃくすけ)です。福沢諭吉は儒学者である「白石常人」(しらいしつねひと)に師事し、そのあとは大阪で蘭学者の「緒方洪庵」(おがたこうあん)より蘭学を学びました。1860年(万延元年)から1867年(慶応3年)にかけて、幕府の遣欧米使節団に3度参加し、「西洋事情」などの著作を通して、欧米文化を国内に向けて紹介。その翌年の1868年(慶応4年)には「慶應義塾」を創設し、教育者として腕を振るいます。今なお著名な「学問のすゝめ」など、自身の得た知見を後代に残すべく尽力した、福沢諭吉の一生と功績を振り返ってみましょう。
福沢諭吉は、1835年(天保6年)12月12日、摂津国大坂堂島(せっつのくにおおさかどうじま:現在の大阪府大阪市福島区)の福沢百助・蔵屋敷にて、次男として誕生。
福沢諭吉がおよそ1歳半の頃に亡くなった父・福沢百助は、武士でありながら儒学者でもあり、学問に長けていましたが、身分制度により、出世の夢は叶いませんでした。
この事情を知った福沢諭吉は「身分制度は親の仇である」と、封建的な政治のあり方に疑問を持ち始めます。1854年(安政元年)、福沢諭吉は兄の「福沢三之助」(ふくざわさんのすけ)と長崎へ出て、オランダから伝わった学問である蘭学を学び始めます。
そのあと、大阪の蘭学者・医者でもあった緒方洪庵の「適塾」(てきじゅく:緒方洪庵による蘭学の私塾)に入門。さらに本格的な蘭学と向き合うようになり、塾に住み込みながら熱心に学問に励みました。在塾から約3年経った時点で、塾長(塾生の代表)にのぼりつめた福沢諭吉は、洋学の道を究め(きわめ)ようと決心。
幕末期、江戸の中津藩邸には、蘭学者・兵学者であった「佐久間象山」(さくましょうざん)に、多くの藩士が入門し蘭学を学ぶグループが結成されていましたが、蘭学を教える者が足らず困っていました。そこで、藩中の福沢諭吉が、緒方洪庵の適塾で塾長をしていることを佐久間象山が聞きつけ、福沢諭吉は江戸に呼ばれます。
1858年(安政5年)、福沢諭吉は江戸の中津藩・中屋敷で小さな私塾を主宰。小規模の私塾であったため、決まった呼び名はなく、当初は「福沢塾」、「蘭学所」と呼ばれていました。そのあと、福沢諭吉は1860年(万延元年)からアメリカやヨーロッパへ視察。
そこで見た景色を国内へ紹介し、人気を博します。各国へ視察を行い、日本に戻った1868年(慶応4年)には帯刀することさえやめ、武士から町民へと立場を変えました。1858年(安政5年)、江戸に開いた福沢諭吉の蘭学塾は徐々に手狭になりはじめ、塾を東京の芝に移転。開塾から10年を経て「慶應義塾」と改名します。この塾こそ、現代の慶應義塾の始まりなのです。
同年 1868年(慶応4年)、「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)が出され、福沢諭吉は明治政府により出仕を求められましたが、福沢諭吉はこれを辞退。以後も官職に就くことはありませんでした。
1872年(明治5年)、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」で知られる「学問のすゝめ」を出版。「人には生まれながらにして上下がある」とする、儒教思想に由来した一般的な思想を覆し、人はみな平等であると主張して現代に至る人権思想の礎を築きました。
学問のすゝめは初編から17編までのシリーズとして、1876年(明治9年)まで発行され、約300万部を超えるベストセラーとして多くの人に読まれました。そして、教育家として存在感を示していた福沢諭吉のもとに、1880年(明治13年)、「公報新聞」(こうほうしんぶん:官公庁の機関紙)発行の依頼が来ます。
福沢諭吉は熟考した上でこれを引き受けることを決定し、1882年(明治15年)には「時事新報」を発刊。国際情勢を国民に広く知らせる物として、社説を交え国外の景色を紹介しました。
福沢諭吉はそのあとも学問に明け暮れながら、教育家として教育支援も実施し続けましたが、1901年(明治34年)に脳溢血(のういっけつ)により逝去。
このとき、慶應義塾は大学部も設けて総生徒数が千数百人を超え、葬儀には10,000人を超える会葬者が葬列を成したと言います。
私塾を開いてもなお、福沢諭吉の好奇心は尽きることはありませんでした。1859年(安政6年)、「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)により、外国人居留地とされた横浜へ、福沢諭吉は長年親しんだオランダ語が実際に通じるか試しに出掛けます。ですが、全くオランダ語が通じず福沢諭吉は衝撃を受けます。
それもそのはず、当時世界の覇権を握っていたのは大英帝国(イギリス)であり、福沢諭吉が直面したのも英語だったのです。これを機に福沢諭吉は英学の必要性を痛感。しかし、鎖国時代で、唯一手に入れられる洋書もほとんどがオランダ語で書かれた物だったため、実際に学ぶのは困難だったとされます。
そのあと、苦心して英蘭対訳の英蘭辞書を手に入れた福沢諭吉は、独学で英語を学びました。1860年(万延元年)から1867年(慶応3年)にかけては、江戸幕府主導の遣欧米使節に志願し、「咸臨丸」(かんりんまる)に乗船してアメリカ・ヨーロッパへ遊学。
通訳として各地を視察しました。このときに見た景色や文化を日本国民にも知って欲しいと考え、1冊の本にまとめた「西洋事情」として発行。約150,000部も印刷される大ヒット作になったのです 。こうした視察のなかで通訳としてお墨付きを得た福沢諭吉は、帰国後に江戸幕府の「翻訳御用」(ほんやくごよう:江戸幕府に雇われた正式な通訳)に任命されます。
1867年(慶応3年)には、江戸幕府がアメリカへ発注した軍艦の受け取りのため、江戸幕府使節団のひとりとして再びアメリカを訪問。無事に軍艦を受け取った福沢諭吉は、その旅中の経験を上下2巻の「西洋旅案内」として出版しています。
福沢諭吉が私塾を開塾し、慶應義塾と名を変えるまでには、約10年もの月日が流れています。この10年の間、福沢諭吉はアメリカ・ヨーロッパへ視察を繰り返し、西洋文明のすべてに驚くだけでなく、現地における理想的な学校の姿も綿密に調査を進めていました。
福沢諭吉の渡米・渡欧当時、日本で学問を学ぶ場合、一個人が教える私塾に入門するのが通常。福沢諭吉は、そのような個人レベルでしかない、日本の私塾について疑問を抱いていました。欧米視察で「共立学校」(きょうりつがっこう:教育者・実業家など立場が異なる人々によって、教育・維持経営される学校)のあり方を目にすると、福沢諭吉はこれを日本へ取り入れようとひらめきます。
一個人へ入門する私塾ではなく、教育者や生徒など学ぶ者同士が集い、かつ社会へ開かれた場所である「公共の学校」へ変えようと思い立ったのです。そして、当時の元号を取って慶應義塾としたと言います。
また、授業料を徴収し学校の維持費に充てるという考え方も当時としては斬新でした。慶應義塾は「塾に集い学ぶ者同士によって維持経営される場である」という福沢諭吉の思想を反映したものだったのです。